6.高山の覚悟
お……俺、マジでヤバかった。
『高山、俺にキスしろ』
って、なんであんなこと言っちゃったんだろう。
あのコンパの日からすでに3日経過しているのだが、
俺は未だ俺が信じられない。
「いっ痛っう」
考え事をしながら、夕飯の支度をしていたら、
包丁で指を切ってしまった。
人差し指に鮮血が盛り上がる。
「どうした? 慎。見せてみろ」
リビングで資料を繰っていた高山が、血相を変えて飛んできた。
「あっと……別にこのくらい、大したことねえし」
そういって思わず引っ込めた俺の手を掴んで、高山は俺の指を自分の口に含んだ。
「あっ……」
他人に自分の指を舐められたのは、生まれて初めての経験だった。
高山の少し長めの前髪が、
俯きざまにはらりと散った。
まただ。
心臓が痛い。
なんだ、これ……。
なんか、コイツをこんなに至近距離で見つめることも稀だが、
確かに綺麗な顔をしているよな。
俺が女だったら、絶対に惚れている。
「何をボケっとしている。
消毒して、絆創膏を貼ってやるから、来い」
そういって俺は、高山の寝室に連れて行かれた。
「えっと……あのっ……」
なんだか妙に心拍数が上がって、うまくしゃべれない。
「お前さあ、そういうの、なんつうか……俺のこと、
指とかって……汚いとかって思わないわけ?」
そう問うと、高山は一瞬きょとんとした表情をした。
「思うわけないだろ! なんだ? 疲れているのか? 慎」
そういって心配そうに眉根を寄せる高山を見て、俺は溜息をついた。
コイツ、根は悪い奴じゃないんだよな。
なんでもできて、一見完璧人間みてぇに見えるんだけど、
対人関係とか、やたらと不器用で。
そういうところ全部ひっくるめて、
やっぱり俺はコイツのこと、嫌いになれない。
ついてねぇよなあ。
よりによって、コイツと同じ人を好きになっちまうなんて。
俺、勝ち目ねぇじゃん。
脳裏に一瞬、高山と水瀬先輩が一緒にいる姿が過った。
(あー! バカ切ない)
胸が引きちぎられそうに痛んだ。
いや、ちがうのだ。
俺が好きなのは多分水無瀬先輩じゃなくて……。
だから始末に悪い。
夕食の片づけを終えて、リビングからふと窓に視線を移すと、
高山がバルコニーで煙草を吹かしていた。
息を吸うたびに、その先端が蛍のように、赤く光っていた。
「俺にも一本くれよ」
高山の隣に立ってそういうと、
高山はズボンのポケットから飴を取り出した。
「てめぇはそれでも舐めてろ」
チュッパチャプスのコーラ味だった。
そういや、学生時代に、やたらとこれにハマっていたっけ。
「懐かしい。お前、覚えてたんだ」
俺は飴の包装を解いて、高山の口に突っ込んだ。
「ん?」
高山が意外そうな顔をする。
そして俺は高山の指から、
火のついた煙草を無理やり奪い取って口に含む。
「もう、ガキじゃねぇよ。俺も」
恰好つけて、煙を吸ってみるが、
煙くて、苦くて……いったい何がよくって、
こんなもの吸っているのか、さっぱりわからない。
「間接チューだな」
そういってにやりと笑って高山を見上げると、
夜目にも、薄らとその首筋が赤くなっているのがわかった。
「か……間接キスは、カウントはしない主義だ。
っていうか慎、お前なあ……どんだけ無理して吸っているわけ?
顔顰めて吸うんなら、返せ」
(あっ、また眉根を寄せている)
俺を心配しているときのコイツの癖だ。
なんだかなあ、コイツには俺の心を全部見透かされてるみてぇな気になる。
それは心地よくもあり、時々悲しくもある。
「いいんだよ。俺は俺の嫌いな自分に吸わせているんだから」
少し投げやりな調子でいってみた。
「勝手にしろ、ばか」
高山の少し呆れたような横顔に、一瞬決心が鈍りそうになる。
「ああ、勝手にするとも。
それとさ、勝手ついでに、俺ここを出ていこうと思うんだけど」
笑ってそう言おうと思ったけど、顔が引きつってうまく笑えなかった。
「却下」
高山の顔から、表情が消えた。
「そう言いだすだろうと予想はしていたが、お前がここから出ていくことは許さない。
お前が嫌だというなら俺が出ていく。
どうせ明日から海外だ。
なんなら今からでもここを出て、今夜は空港のホテルにでも泊まればいい」
抑揚のない高山の声色に、俺は一瞬焦りを覚えた。
「嫌とか、そういうんじゃなくて、ちょっと戸惑っていることがあって、
それで少しお前と距離を置きたいつうか……。
ちょっと一人で考える時間がほしいんだ」
高山の表情に一瞬過ったのは……痛み……なんだろうか。
「だったら、ここで考えればいい。
俺の出張期間中は、お前も休暇ということにしておく。
今まで休暇らしい休暇も取らせてやれなかったからな。
まあ、一週間もあれば充分だろ。好きなだけ考えろ」
湿った空気に、せっかくの夜景もどこかどんよりと霞んで見えた。
バカみたいに賑やかな街の喧騒とは裏腹に、
泣き出しそうな夜の空には、星が一つも見えなかった。
不意に背後から高山に抱きすくめられた。
また、心臓が跳ねる。
「あ……あのっ……高山?」
抱きしめられ、肩のあたりにかかる高山の吐息が、
妙に艶めかしくて、どぎまぎとしてしまう。
「全面的に俺が悪い、それはわかっている。
お前の気持ちも考えずに、俺の気持ちばかりを押し付けているのもわかっている。
だが、こればかりはどうしようもない、自分で自制がきかないんだ。ごめん、慎」
思いつめたような少しくぐもった、
耳に落ちる高山の声が、なんだか切なかった。
「高山、俺さ、水無瀬先輩のことが好きなんだ」
俺は今、高山に嘘を言った。
自分の本当の気持ちに蓋をして、
またコイツを傷つける。
そう言った俺の背後で高山の動きがぎこちなく止まり、
俺を抱きすくめていた腕が力なく落ちる。
「慎、お前は……水瀬のことが好き……なのか?」
抑揚のない声色でそう問われ、
「ああ、好きだ。一目惚れだったよ」
と答えた。
俺はきつくきつく高山に抱き締められた。
「なんで俺じゃない? 慎」
恐いんだ。
それを認めるのが。
それを認めるのと同時に俺はそれを手放さなきゃならない。
だから俺はそれを認めない。
認めることができないんだ。
「俺は……お前の……親友で……いい。
だから傍にいさせて」
その言葉とともに涙が零れた。
肝心なところで俺は嘘がつけない。
「俺はお前が好きだ、慎」
耳元で囁かれた高山の言葉に、俺は天を仰ぐ。
ゲームセットか。
「今更言うなよ、バカ。俺は……お前がいうほど鈍感じゃねえつうの。
7年前から自分の気持ちも、お前の気持ちも、知ってる。
だからお前から去ったんだ」
茫然とその場に固まっている俺の頬を、高山の掌が包み込んだ。
「逃げるな! 慎
俺から目を背けるな」
高山の言葉に、俺は崩れそうになる。
「だけど知ってどうなる?
この想いは報われるのか?
俺は男で、お前も男。
しかもお前には立場がある。
そんなお前の枷になるとわかっていて、どうして俺はお前の傍に居られる?」
降りてきた高山の唇が、微かに震えて、不器用にそれが重なる。
そして俺は気づく。
その軽く触れるだけのキスに、どれほどの高山の想いが込められていたのかを。
「俺が全てを受け止める。
その覚悟はすでに7年前からできている。
お前はそれでは不服か?」
俺は高山の胸の中で泣き崩れた。