4.高山キレる。
秘書、その仕事は多岐にわたる。
掃除洗濯に始まり、食事の準備に至るまで……って、これなんかおかしくね?
公私混同も、はなはだしくね?
っていうか、絶対にいつの日にか労働基準局に訴えてやると心に誓いながら、
俺は日々の業務に励んでいた。
「おい、てめぇ、今日は重役会議だったよな。
放っておくと、 お前、絶対に昼飯食わねぇから、弁当作っといた。
時間なくても会議始まる前にちゃんと食っとけ。
ちなみに最近野菜不足しがちだったから、
野菜ジュースもつけといたからな! 残さずに飲め」
俺は往年の銀幕俳優のごとき渋い声色と目つきでそういって、
俺は高山に弁当を渡した。
高山はあの日以来、なぜだか俺の手作り弁当を気に入り、
その日のうちに俺は高山専用の弁当箱を購入する羽目になった。
今日は高山は重役会議なので、俺とは別行動だ。
玄関の石畳の上で靴を履き終えた高山が、じっと俺を見つめている。
(うん? なんだかコイツ薄っすらと顔が赤くね?)
「なに?」
俺が訝しげに奴に問うと、
「わ……忘れ物だ。いいから、さっさと目を閉じろ」
そういって、高山の掌が俺の顔を包みこんだ。
(うーん、何忘れたっけ?
目を閉じて思い出せってことか?)
俺は合点して、目を閉じた。
そして思い出す。
「そうだよ、今日生ゴミ出す日だったんだよ」
ぽんと手を打って目を開くと、目の前に高山の顔のドアップがあった。
「うおおおお! なんだよ。あんまり顔近づけるなよ。
びっくりするじゃねえか。おっと、それより……」
俺はベランダから生ゴミの袋を持ってきて、
「これ、よろしく頼むな」
高山に握らせると、
「この……超絶鈍感男!」
なぜだか高山がブチ切れている。
「はあ? お前のスケジュールを気遣って弁当を持たせ、
かつ栄養バランスを考えて野菜ジュースまで用意したこの俺のどこが鈍感だと?」
俺が街角に生息するヤンキーの眼差しを高山に送って凄むが、
高山は動じない。
「そういうのを蛇の生殺っていうんだ、ばかっ!
俺は心の栄養は全然満たされていないぞ! 慎」
なぜだか高山がひどくやさぐれている。
「俺にどないせぇちゅうんじゃい」
負けじと俺が鼻の頭に憎たらし気に皺を寄せて応酬すると、
「隙あり!」
刹那、高山の唇が俺の頬を掠めた。
たったそれだけのことなのに、
俺の身体には電流が走り、闇雲に心臓の鼓動が早まる。
俺はまともに高山を見ることが出来なかった。
「いっ……行ってきます」
なぜだか俺以上に高山が上ずった声を上げて、俺に背を向けた。
そこには何とも言えない微妙な空気が満ちている。
◇◇◇
フロアに響くチャイムの音が昼休を告げた。
「よーっしゃ、一息つくべ」
社長室の中に形ばかりの衝立で仕切られた秘書室というか、
もはや室ではなく単なる秘書スペースと言った方がしっくりと来る場所で
パソコンと対峙していた俺は、伸びをする。
各部署から送られてくる高山宛のメールをチェックし、整理する。
代理で返信できるものには返信し、
会議で使いそうなものはあらかじめ印刷してファイリングしておく。
一見雑用っぽいが、その実、雑用なのである。
しかしこれが結構大変なんだ。
高山の意思を汲んで、先に先にと動かねばならないし、
ちょっとしたミスが会社にとって致命的なダメージを与えかねないので、気が抜けない。
なんだかんだで仕事もさることながら、
一番気を使うのが高山の健康面だったりする。
確かに俺も馬車馬のごとくに高山にこき使われているが、
高山の忙しさはそれの比じゃない。
放っておくとあのアホは、飯も睡眠も忘れて仕事に没頭し、
この間なんてやけに風呂が長いなあと思って覗いてみたら、湯船の底に沈んでいやがった。
幸い発見が早かったので、ビンタ三往復で意識を取り戻したが、
「てめぇ、溺れて意識のない人間には普通、人工呼吸だろうが」
と凄まれた。
そういう問題ではないだろう。
内心ツッコミたい気持ちでいっぱいだったが、多分無駄なのでやめておいた。
そういうわけでとりあえずそんな状態の高山から目を離すと、本当に大惨事を招きかねないので、
仕事に慣れた今も俺は別居を言い出せないでいる。
「さあて、飯でも食いに行くか」
俺は独り言を言って、腕をぐるぐると回しながら部屋を出た。
「あら? 高山くん、ひとり?」
柱の陰からそういって、顔を見せたのは水無瀬先輩だった。
「あっ、はい、あいつ、あっと、
社長は今日は重役会議なので、俺一人です」
「そっか、じゃあ、お昼一緒に行かない?
近所にすごく美味しいお店があるんだけど」
そういって水無瀬先輩がにっこりと俺に笑いかけた。
ウヒョー! 久々にテンション上がるわ。
「あっ、嬉しいです」
そう言って俺は水無瀬先輩について行った。
店は会社を出て路地を一つ奥にはいったところにあった。
町屋というのだろうか、古い民家を改造したひっそりとした佇まいで、
ちょっぴり隠れ家的な雰囲気のする店だった。
「ここのランチが絶品なのよ」
なにこれ、ひょっとしてデート?
デートというカテゴリーに分類してもいいシチュエーションだよね。
こんな美人とおデートだなんて、俺ってば、俺ってばっ、くーっ! 幸せ。
嫌が応でもテンションが上がり、胸が逸る。
涼やかに打水された石畳の玄関に、紺地ののれんが揺れている。
奥に進むと、やはり歴史を感じさせる純和風の作りであったが、
テーブルや椅子などは、モダンな洋風のものであった。
障子が開け放たれており、
小さいながらも手入れのよく行き届いた中庭が見渡せた。
「わあ、素敵な店ですね」
そういって感嘆の声を上げると、
「そうでしょう? 良かった。如月君が気に入ってくれて」
水無瀬先輩が、微笑んだ。
(あなたは天使ですか、水無瀬先輩。
しかもなんだか雰囲気良くね? これ、いけんじゃね?)
そう思った矢先のことだった。
「レアチーズケーキとエスプレッソ」
背後で聞き覚えのある声がした。
同時に悪寒が走る。
振り返るべきか、それとも振り返らざるべきか。
一瞬の躊躇の後に、恐る恐る首を後ろに向けてみると、
修羅のごとき形相でこちらを睨みつけている高山がいた。
「き~さ~ら~ぎ~」
地獄の地響きのような声だった。
「な……なんなんだよ、お前はっ、つうかお前、俺の作った弁当はどうしたよ?」
そう問うと、
「食ったに決まっているだろう。
美味かった。ご馳走様でした。
しかも早弁したから小腹が空いて、
午後の会議前にケーキセットを食いにきたんだよ! そしたらてめぇ……」
(うん? なんかよくわからんけど、コイツめちゃくちゃ怒ってねぇ?)
「なんだよ?」
「なんだよじゃねえ、最近ここの店が美味いって評判だからだなあ、
お前を誘おうと思って時間工面してわざわざ下見に来たつうのによ!」
高山の醸しだすオーラが、もはや魔王と化している。
(どうしよう。なにこれ、この状況……。
俺、一体コイツをどうフォローしたらいいんだろ)
俺は高山へのフォローの方法に頭を悩ませた。
気を利かせて、助け舟を出してくれたのは水瀬先輩だった。
「あっ、あの……高山社長のお考えも知らず、
私が如月君を誘ってしまって申し訳ありませんでした。
大変失礼なことだとは思うのですが、もしよろしければ、
高山社長もご一緒にいかがですか?」
さすがは天下の高山商事の敏腕総務課配属なだけはある。
俺はこの空気の読める女、水無瀬先輩に、ますます惚れ直してしまった。
ナイスフォローである。
「っていうか、総務の水無瀬さん、だっけ?
こいつ如月は俺の直属の部下だ。
俺の業務にも差し障るから、勝手に連れ出すのやめてくれない?」
高山の言葉にその場が凍り付いた。
「は? 何言ってんの? 今は昼休みで……」
高山は反論しようとした俺を冷たく一瞥し、
「慎、勘違いをするな。一人前に昼休みを取りたければ、
ちゃんとそれだけの仕事を時間内にこなせてから言えよ」
怒発天を突く。
俺は怒りのあまり軽く酸欠に陥って、
ただ口をぱくぱく開けるが、言葉が出てこない。
そんな俺たちの不穏な空気を断ち切るように
水無瀬先輩が割って入る。
「社長のお気持ちも考えず、如月君をランチに誘ってしまったこと
申し訳ありませんでした」
水無瀬先輩が高山に頭を下げるのが我慢できなかった。
「顔を上げてください。
水無瀬先輩が謝る必要はありません」
俺が水無瀬先輩を庇うと、
高山がきつく俺の手首を握って引き寄せる。
それはびっくりするほどの力で、正直驚いた。
「君が聡明であることを感謝する。
いくぞ! 慎」
高山は俺の手を離しはしない。
だから俺は引きずられるようにして、
無理やりに店から連れ出されてしまった。