136話★葛藤と心の悲鳴
外ではザーッと雨音が響いている。静かな神殿内にポチャンポチャンと水滴が落ちる音がただただ聞こえる。外では水溜まりができているのだろうか。
風の音も聞こえて、雨が壁に打ち付けられている。
雨音と私たちの呼吸の音しか聞こえない。
アドニス様は静かに膝を抱えて座り、顔もその膝に伏せてしまっている。私も何を話すわけでもなく隣に座っている。
何か話しかけた方がいいのか。自分から話してくれるのを待つのがいいのか。わからない。
困っていることや苦しいことがあるなら、力になりたいとも思うし、話だってきく。でも、それを本人が望まないなら、無理やり聞き出しても仕方ない。
どれくらいそこに座っていただろう。
アドニス様が少しだけ顔を上げたような気がした。そして、響き渡る雨音に紛れるように掠れた声が聞こえた。
「ねぇ……先生は……」
聴き逃しそうになるほど小さな声。蚊の鳴くような声とはこのような声を言うのであろう。
「ん……?」
「……いえ、なんでもありません……」
私の返事にアドニス様はぶんぶんと何度か首を振って、また突っ伏してしまった。
反応、失敗したかも。高圧的に聞こえたかも。もっと、自然に言えたよね、私。少し自己嫌悪。
落ち込みつつも、そんな態度を表に出してはさらに萎縮させてしまうかもしれないと思い、努めて自然に返事をする。
「そう?」
それからまた沈黙。静かな神殿。雨が降っているからか少し冷えてきたかもしれない。
「……アドニス様、寒くないですか?」
「……」
無言で首を横に振るアドニス様。どうやら大丈夫なようだ。
少しの沈黙の後、アドニス様は少し考えるように目を左右にゆっくり動かしてから、また小さな声でこちらに呼びかけた。
「えっと……先生……」
「どうしたの……?」
私もアドニス様と同じように膝を抱えて座り、少しだけ目線をアドニス様の方へと向けて問いかけた。柔らかく聞こえたかな。
「……うーん……」
私に声をかけてからまた少し沈黙。そして、考え込んでしまう。
「ゆっくりでいいですよ」
「はい……」
そう返事をしたアドニス様。私は自分の言葉の通り、相手の言葉を待つ。
「あの……先生……僕、帰りたくないんです……。帰ったら楽しい時間が終わった感じがします」
ポツリとアドニス様が言った。やっぱり帰りたくなかったらしい。どこまで話してくれるかわからないけれど、頷いてみせる。
「そうなんですね」
また、アドニス様は言うのを躊躇うように視線をこちらに向けないまま静かに悩む。
「あの……その……えっと……この楽しい気持ちのまま……」
そこでまた少し躊躇って、そして、小さな小さな声で続きを言った。
「は……ははに……会いたくありません……」
「そうなのですね」
なんでもないことのように返事をしてあげる方がいい、と思った。気負わず話せた方がいいから。きっと、相当な覚悟を持って言ってる気がしたから。その覚悟を揺るがすように、大袈裟に反応したくなかった。
素っ気なくならないように細心の注意を払って、でも大袈裟にはならないように、受け入れるように返事をする。私にできているかはわからないけれど。
どうしてって聞いてもいいかな?
そう悩んでいると、アドニス様は今度は違う話を振ってきた。
「……先生は……嫌いな人はいますか?」
「そうですねぇ、気が合わないなって人はいますね……」
急な路線変更に驚きつつ返事をする。
あの元婚約者とか……
そう思っていると、アドニス様は、またあの脅えを帯びた瞳をゆっくりこちらに向ける。
「………僕はね、ぼくは……おかあさまが……きらい」
罪悪感を滲ませたような、頼りげない声。言ってはいけない言葉を言ったみたいな。自分の家族を嫌いだと言うのは確かにしんどいことだろう。デリケートなことだ。返事も細心の注意を払わなければ。
「そうなんですね。……それは、どうしてって聞いてもいいかな?」
アドニス様の方を見ながらそう聞く。すると、アドニス様の瞳から涙が込み上げてくるのが見えた。瞳の中におさまりきらなくなった涙がぽたりぽたりと頬を伝っていくのが見える。
聞いてはいけなかったかもしれない。
どうするのが正解で、どうしてあげたらいいのだろう。わからない。
だけど、心を守ってあげたい。
この子達と接する時にいつも思うことはそれだ。
「ちょっとだけ触れてもいいですか?」
「……うん」
アドニス様の返事を待った後、私はアドニス様に近づき、その小さな震える肩に腕を回した。そして、トントンと優しく何度かたたく。彼は元々小さいがさらに小さく見える。体温もどこか冷たい。
私はその背中を何度かさするように動かした。
それからアドニス様は肩を震わせながら、涙ながらに話始めた。
「お母様はなんだろう、自分の世界で生きてるんです」
「うん」
「……なんて言ったらいいか分からないんですけど、全部自分の思う通りだと思ってる。自分が感じることは相手も全く同じように感じるって思ってる。僕を自分の分身みたいに思っている……感じです。だから僕が思う通りに動かなかったら、僕の人格ごと否定される」
一度話始めれば、躊躇いも無くなったのか、涙声ではあるけれど、言葉はしっかり話せている。
「……そっか……」
返事をすると、
「ずっと1人で自分の話してるんだ。それを聞いてもらえていると思ってる。僕がへの問いかけとかに答えがなかったら、勝手に僕の答えを妄想して話を進めていくんだ。大体その妄想の答えは批判するような言葉で。そんなこと思ってないのに。それを受けて更に酷い言葉とか浴びせる」
話を続けてくれる。
「……うん」
「でも、答えたら答えたで乗っかってくる。それで、なんと答えても都合よく解釈する。聞いていてしんどい。もうずっとずっと話つづけるんだ」
「うん……」
「静かにしてって言っても人の話なんて聞きやしない。だから僕は耳を塞いで黙ってそれが終わるのをひたすら待ってる。だって話を聞いてるだけって、しんどいよね。それも人の愚痴だったり、僕への非難だったり、否定する言葉だったり、興味なんて全然ない話だったり」
「そっか」
「耳を塞いでいても聞こえてきて、もう、苦しくて、おかしくなりそうなんだ。心が重いっていうのかな。疲弊してる。急に喚き出したり笑いだしたりもする。ヒステリックになる。情緒不安定なんだと思う」
ああ、アドニス様の心が悲鳴をあげている。きっとずっとずっと抱えて耐えてきた苦しみが溢れている。
「一緒にいたら僕の方までおかしくなってしまう。上手く言葉にできないけど、もう我慢できないんだ。誰か助けてって思うんだ」