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翌晩。
母親と兄弟が寝静まったのを見計らって、レントはそっと家を出た。
悪魔のマントのような暗い夜空に、無数の星が浮かんでいる。
赤い月リアラと青い月アグナの二つの月がどちらも夜空から見えなくなるのは、年に三回。
今夜は、今年二回目の新月だ。
レントは小さく「よし」と気合を入れる。
まずは、父親の作業小屋へと潜り込んだ。父は二日前に山へ猟に出掛けて不在だ。
ここでしばらく母屋の様子を見る。
母も兄弟も起きて来ないのを確認すると、レントは夕方隠しておいた、狩猟用の服に着替えた。
猛獣対策の厚手の木綿のシャツと鹿革のベストは、山の夜でも夏は多少暑い、。馬革のベルトの真鍮の金具に、レントはダガーの鞘の紐を引っ掛けた。
背中には、自分用に、と父が用意してくれていた弓と、樫の枝を削った矢と、父から貰った、魔物用の軽鉄の矢一本を矢筒に入れ背負う。
準備が整うと、レントはそっと、作業小屋を出た。
急ぎ足で沢へと向かう。橋の手前でキーリと落ち合った。
キーリは木こりらしく、長い麻縄と小ぶりなダガー、それと片手用の鋸を持って来た。
「場所、見当ついてるか?」キーリが、父親のものだろう、羊皮紙に描かれた、この辺りの山の簡単な地図を開いた。
「……この、ミズナラの大木を抜けた辺りにちょっとだけ開けたところがあったろう。そこじゃねえかな」
レントの見当に、キーリも頷く。
『公爵様の別邸』のおおよその目星をつけた二人は、それぞれの荷を担ぎ直し、歩き出そうとした。
その背に。
「場所は、とんがり岩の真下のブナの木だよっ」
シェンの声がして、レントとキーリは驚いて振り返った。
「シェンっ!! どーして来たんだよっ!?」レントは、半分嬉しい気持ちを隠し、顔を盛大に顰める。
「そうだよ。『公爵様の別邸』探しなんかに一緒に行ったってバレたら、上級学校への進
学だって、ダメになるかもだよ?」
キーリも咎める。が、友達に咎められているシェンは、さも嬉しそうにニッコリと笑った。
「別にいいさ。上級学校へ入るのには、年齢は関係ないもの。来年ダメでも再来年に受ければいい」
「そんなこと言いやがって……」
友達の決断に、巻き込んでしまったことへの申し訳なさを感じながら、レントは口を尖らせた。
「とにかく、行こう。とんがり岩のブナの木に行けば、絶対、『公爵様の別邸』があるって」
先に立って歩き出したシェンを追いながら、レントは訊いた。
「その場所、誰から聞き出したんだ?」
「村役場の、郵便管理のエルゲンさんから。あのおじいさん、お酒を飲むとなんでも喋っちゃうんだ」
「えっ!? シェン、じーさんの酒に付き合ったのかっ!?」
まさか、フレアの居酒屋で郵便屋のじいさんに酒を飲ませたんじゃないだろうな、とレントが咎めると、「違うよ」とシェンは苦笑した。
「たまたま、今日父の都合で夕食を宿屋で食べたんだよ。その時にエルゲンさんと会って。何気なく訊いたんだ。そうしたら、教えてくれた」
シェンには母親が居ない。シェンが五歳の時に病で亡くなっている。
母がいない分なのか、シェンの父親は礼儀作法や言葉遣いなど、日常の子供達の振る舞いにとても厳しい。
「シェン……。おまえ、オヤジさんの前でよくそんなことが聞けたな」
普段は厳格な父親に従順なシェンだが、時折、父親の目を盗んで思いも寄らない豪胆さを発揮するのを、赤ん坊の頃からの付き合いのレントは知っている。
「父さんが手洗いに行った隙に訊いたんだよ」シェンは、にこっ、と笑って見せた。
「弟のリューンには黙っておいて、って釘さしておいたから。多分大丈夫だと思うけど」
「ほんと、俺らの中で一番気が強いのはシェンだな」
腕っ節には自信があるレントだが、頭の回転やいざという時の冷静さは、シェンには敵わない。
きっと、これから先も敵わないだろう。
微笑む友達の濃茶の頭を、レントは笑いながらくしゃっと軽く掻き混ぜた。
キーリもシェンに嬉しそうに絡みながら、殆どピクニック気分で橋から夜の森の中を歩くこと十分程度。
木の根のでこぼこに気を付けながら、三人はとんがり岩が見える位置までやって来た。
「今んとこ、牙コウモリも出て来ないし、助かったな」レントは星空を見上げる。
「けど、やっぱりあの岩の下のブナの木の側に、『公爵様の別邸』なんてでかそうなお屋敷がある訳ねえと思うんだけどなあ」
レントは、父と山へ入る時は、必ず戻り道の目印にとんがり岩とブナの木を探す。
山道はここから右へ大きく逸れるため、木の側へ近付いたことはない。
だが、遠目からでも、周辺に空き地がないのは分かる。
「……本当は、あの木の近くには行くなって、父ちゃんが言ってた。足場が全部岩で、めちゃくちゃ滑り易いんだって」
「キーリっ、それ知ってたんならもっと早く言えよっ」
いきなり出て来た残念な新情報に、レントはムッとなって仲間を睨んだ。
「でも、ここからでも、どうにかブナの木は見えるから……」
「見えるけど、頭だけじゃねえかよっ。もうちょっと側へ行かねえと……」
「あと少しだけなら、行ける道があるわよ?」
背後からいきなり登場したフレアに、レントとキーリは猫の子のように飛び上がった。
「どうしたのフレア? 宿の仕事は?」シェンが、冷静に問い質した。
「どーせあんた達、ここへ来ちゃうんだろうな、と思って、ちょっと前から待ってたの。宿の方はひと段落してたから、こっそり抜けて来たのよ」
赤毛のおさげをぶんっ、と振って、フレアは「道はあっちよ」と指した。
「なんで知ってんだよっ?」
フレアが指した方へ歩き出しながら、レントは訊いた。
「ウチは宿屋よ? いろんなお客さんが来て、いろんな話をして行くの。で、ある行商の人が、山で大雨に遭っちゃって、前も見えずに駆け出したら、あのブナの木の下へ行けたんだって」
「へえ。じゃ、ちゃんと道はあるんだ」
「でも、今は途中までよ。その雨の後、道の一部だった岩が崩れて、もうあそこまでは行かれないって」
「……しょうがないね」
膨らんだ期待を簡単にぺしゃんと叩かれ、あからさまにしょげたレントは、シェンに優しく背を叩かれて「仕方ねえ」と頷いた。
「危ないんだから、今回だけよ?」
念を押したフレアに案内されて、暗い森の中を歩いたレント達は、不意に岩道が途切れているところまでやって来た。
「ここまでよ。こっから先は、崩れて行かれない」
「あの先に見えるのがブナの木か。——おい、誰か来るぞっ?」
レント達は咄嗟に、近くの灌木が生えた岩陰へ入った。
隠れた直後、馬の蹄の音と、引かれる馬車の轍のような音が聞こえて来た。
「なんで、馬車っ!?」首を伸ばし掛けたキーリの肩を、シェンが押さえた。
レントは、岩と灌木の間からそっと途切れた道を窺った。
段々と大きくなる蹄の音は、途切れている道の上を、平然と通り過ぎて行く。
「——へっ!?」
レントは、あまりに不思議な光景に、見つかる危険も忘れて立ち上がってしまった。