その二
コツコツコツ、とフェニルの靴の音だけが石畳の回廊に響く。大陸のどこに位置しているのか、レイデンス王国からどれくらい離れているのか。そんなことはわからず、確かなのはこの場所が竜人の長の住む宮殿なのだ、ということのみ。
当然だがここにいる人間はフェニルしかなく、他は竜人。
十年前の事件が鮮明に蘇えってきた。母親を殺した奴らではないとわかっていても憎しみの感情があふれ出る。いっそ護身用に持ってきた細身の短剣で刺してしまおうかと何度となく考え、そのたび『無駄なことはするな』と己を戒めた。
(この……部屋かしら)
他の部屋とは明らかに違うとわかる豪華な扉。扉の端と端には兵士らしき男達が立っている、となればこの部屋に竜人の長がいるということだろう。
ちなみに今のフェニルは一人である。先ほどの馬車へ案内した竜人が職務を放棄した、という事ではなくフェニル自身が宮殿に着いた時点でここから先は案内などいらないと拒否したのだ。
軽く触れるとひんやりと冷たい扉。どきどきと心臓がなり、それをおさめようと大きく深呼吸をする。
不安か、それとも興奮か。自分でも気づけない胸の音が聞こえなくなった後、もう一度深呼吸をしてドアを開いた。
中は眩しいほどに宝石や黄金が使用された調度品。奥には玉座に座る者と隣に控える者の姿。おそらく玉座に座っている方がフェニルの夫となる男なのだろう。フェニルの立つ場所からはよく見えないが、きっとおどろおどろしい見た目の男に決まっている。などと勝手に推測する。
「もう少し近くに来ればどうだ」
と玉座に座る男が口を開く。
「言われなくてもそうするつもりですわ」
フェニルは男の言葉で自分が動いたわけではないのだ、と匂わせツンとした態度で言い返した。
「そ、そうか……」
驚いたのかどこか挙動不審になる男。竜人の長、なんて言ってもこれくらいで驚いているようじゃ大したことないんですのね、と口に出すことはできないので心の中で毒づく。
近寄ると男の顔がはっきりと見えるようになってくる。そして『あら?』とフェニルは首をかしげた。
(あら、あらあらあら?)
黒髪黒眼の玉座に座る男は息を呑むほどの美形だったのだ。
王太子と比べて? 比べられるはずもない。
王太子の美は美しいとはいえそれでも人の『美』だった。けれど男の美は神から愛された、という言葉が似合う『美』なのである。
「そ……その……何か怒っているのか?」
思わずじぃっと見つめていると、男が怖ず怖ずと言葉を発する。
「何故ですの?」
「いや、その……人間は目力で生物に穴を開けると聞いていたものだからな……。俺の顔に穴をあけようとしているのか、と……。か、勝手に呼び出してしまって怒っているのではないかと考えたのだ」
その言葉に我にもなく吹き出してしまった。
(人間が目力で穴をあけられるってどんな魔法かしら。それに怒っていたのも今は忘れていたし)
彼は竜人で憎むべき相手、そんな風に思っているはずなのに面白い人、とも感じる。二つの感情が同居している。何とも不思議な感覚だった。
「人間はそんな恐ろしい生物ではありませんことよ? それに私、怒ることも忘れておりましたもの」
ころころとフェニルが笑えばあからさまに安堵する男。
「そうか」
「ええ」
「これからよろしく頼む。フェニル」
自分の名を呼ばれ、我知らずフェニルは赤面した。赤面する理由などないけれど赤面してしまったのは、男が自分の名を知っていて突然口にしたから、とかなり無理のある理由付けをして納得する。
「……私の名。覚えていらっしゃったのですね」
「ああ。……至当だろ? 俺の妻となる人間だ。それに……絵姿がとても美しかったからな。忘れられるはずがない」
美しい、という台詞に覚えず熱くなった顔を誤魔化そうと「絵姿は美しかったのですね」と皮肉を言ったが「いや、実物はもっと美しかった」という余裕な答えにさらに顔が火照る。
「ありがとうございます、ジューク」
返す言葉が見つからず、もごもごとしつつ礼を述べる。つい名前まで添えてしまったので、あんたの名前なんて覚える気ないのよ、とも言えなくなってしまった。
「俺の名前も、覚えていてくれたのだな」
「当たり前でしょう。人間は頭がよいのです」
嬉しそうなジュークに、特別だから覚えていたわけじゃない、と弁解するが全く通じない。それどころか「人間は素晴らしい知性を持っているのだな」と感心する始末。
これに対しては後ろの執事(と思われる男)が見かねたか、ジュークに何やら耳打ちした。フェニルの言ったことを全て鵜呑みにするなとでも忠告しているのだろう。
ジュークの幼い子供のような様子に苦笑してからフェニルは自分が相当気を抜いていたことに気づいた。
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