その十
ほう、と息を吐く。
フェニルが思い出していたのは部屋を出て行く際のラフィットの台詞。
『明日の朝、日が昇る前に参りますので、それまでに心の準備をされるのが宜しいでしょう』
(心の準備ってなによ。死ぬ準備をしろ、とでも言いたいのかしら?
本当に食えない男! 必ず私の前に跪かせてやるんだから!)
というようにはじめは意気込んでいたのだが、暗い部屋に長時間一人でいれば心細くもなってくる。
今が何時なのか、それと視界が鮮明でないというそれだけで人は恐怖を感じるらしい。
だがフェニルはその恐怖をラフィットへの怒りで消し去った。
どれくらいそうして己の恐怖と戦っていただろうか。
体感ではもう二日ほども経ってしまったのでは、とも思えて来た頃のことだった。
錆び付いた蝶番がぎぎぃと音を立てて、扉が開く。
「ラフィット。ようやくあなたにひと泡吹かせることができそうよ」
入ってきたラフィットに毒を吐いた。その後に後ろからもう一人ついてきていることに気づくフェニル。
「……ジューク」
「心配だったからな」
言葉少なな台詞は、何かを隠しているようにしているように思えた。
(なにを考えているのかしら……)
「それではマルテリントカーメルを行いますので、移動いたしましょう」
「ええ」
軽くうなずき、部屋を出て行くラフィットとジュークに続いたフェニル。
着いたのは木でできた小屋であった。部屋の中には大きな壁のような……というか土壁そのものと、そこに埋め込まれて伸びているロープ二本のみ。
そこに貼り付けられて今から鞭で打たれる、と言われても不思議はない場所だろう。
まあロープが出ているのは踝ほどの高さなので鞭打ちには向かないが、などと考える。
「フェニル様。その土壁の前に立って頂けますか?」
どくんと心臓が跳ねた。とうとうマルテリントカーメルとやらをはじめるのだ。
今さらになってフェニルは後悔しかける。けれどもう、やると言ったのだ。
(私ならばなんだって平気ですわ)
そう自分を奮い立たせる。
「ええ」
努めて優雅に土壁の前へ。
(そうよ、私は公爵令嬢フェニル・エリツィン。私が失敗することなどあるはずがない。あってたまりますか!)
「それでは、失礼します」
土壁の前に立ったフェニルの足に、ラフィットはほどけぬよう硬くロープを結んでいった。
(足は全く動かせないわね)
これでは少しでも足を前に出せば体勢を崩してしまうだろう。
「それで、私はこの後どうすれば良いのかしら?」
「簡単です。
どんな方法でも構いませんのでそのロープを外す。それだけですよ」
ただし……、ラフィットはさらに付け加えた。
「今日、日が沈む頃にこの小屋に火をつけますのでそれまでにロープを外さなければあなたは炎にのまれますのでお気をつけを」
(だからジュークは反対したのね)
たしかに命がけだ。フェニルは納得する。
「わかったわ」
ラフィットは口元に笑みを浮かべ、しかし目だけは冷静にフェニルを観察すると、ジュークに向き直った。
「ジューク様。ではここを……」
おそらくこの部屋を出て行こうという旨を伝えようとしたのだろうが、ジュークがそれを止める。
フェニルは首をかしげた。
(なぜ?)
「……大丈夫なのか?」
「ええ……?」
思わず疑問形になる。
なにゆえそのようなこと、問うのだろう。
「震えているから、な」
ジュークの言葉で初めて気づく。
(ああ……)
怖かったのだ。
自分の感情がよくわかっていなかったがフェニルは恐怖を感じていた。
正直、強がっていても逃げ出せる自信はない。
ロープは硬く結ばれているし、壁を壊そうとてそんな力を持ち得ないのだから。
「まさか、震えてなどおりませんわ」
そううそぶくが、震えは一層ひどくなるだけである。
「……」
強ばった顔を見られぬよう、うつむく。
「……本当に?」
それでもジュークが問うてくるので、フェニルは半ばやけくそで叫ぶ。
「平気だと言っているでしょう!」
「嘘だな」
間髪入れずに反論が帰ってきた。
思わず顔を上げるとジュークと目が合う。
フェニルは焦って目をそらそうとしたが、ジュークの目に見つめられ何もできなくなってしまった。
「声が、震えていただろう」
「……よく気づきましたわね」
観念して涙目で睨む。
「手助けは、いるか?」
しばしの間悩んでフェニルは「いいえ」とはっきり口にした。
「……そうか。ならば餞別をやろう」
「……は?」
どのような意味か、と問うよりも前にフェニルは身動きが取れなくなった。
拘束されたわけではない。けれど心理的な意味で、身動きが取れなかった。
ジュークが触れたのは顎と、そして……唇だけ。
顎に触れたのは勿論手であるが、唇に触れたのは手ではない。ジュークの、口唇だ。
つまりジュークはフェニルに接吻をしたのである。
フェニルはそれを理解するとジュークをひっぱたいてやろうかと思った。しかし理由もなしに接吻などするだろうか、と考え直す。
大人しく力を抜くと、唇に何か鋭く尖ったものが当たった。
軽く口を開くと、鉄の味が広がる。別にこれは血の味、と言うわけでは無いだろう。
(なるほど、そういうことなのね。ラフィットに気づかれないよう私に何かを渡すにはこれしか方法がなかった……と)
ラフィットは他人からの手助けを禁じてはいない。だが誰かの手を表立って借りたのなら、ラフィットを筆頭としたフェニルに反発する者はフェニルを認めぬだろう。
まあなんとも、ここまで頭が回ったものだ。そうフェニルは舌を巻いた。悔しいがフェニルには決して思いつくことができない策である。
口の中にしっかりと『それ』……おそらくは鉄製のもの……が入ったのをフェニルが感じたところで、ジュークの唇が離れた。
フェニルは深呼吸をして、酸欠になりかけた頭に酸素を送る。
大きく息を吸った拍子に目の端でラフィットの姿を捉えた。
一瞬だけ目に入った彼は、蔑むような目をフェニルにだけ向けていた。
どんどん文章が崩壊していきます、すみません。……どうすれば……。