少女、憑かれる
2014年の秋くらいに書いたもの
『少女、憑かれる』
校庭の隅で、男子が集まっている。校舎の三階からだと何をしているのかよく見えないが、腕を振り回してはしゃいでいる。かろうじて、興奮した笑い声も聞こえる。
校庭は夏の日差しで乾ききって、少しでも風が吹けば砂埃が舞いあがった。周囲は桜の木で囲まれ、青い葉が心地よさそうな木陰を作っている。彼らはその木陰に隠れるようにして、残り少ない昼休みを過ごしていた。
「ねぇ、あれ何しているのかな」
窓辺で身を乗り出し気味に見ていると、不意に後ろから声をかけられた。
「何しているんだろうね。昼休みもあと、二、三分で終わるのに」
美代だった。肩口まで伸ばした髪を揺らし、僕の隣に並ぶ。頭一つ分小さい美代は僕につむじを向け、強引に脇から顔を突き出そうとした。
微かに、シャンプーの香りなのだろうか、甘いものが漂ってくる。僕は女子と体を密着させていることも相まって、耐え切れずにその場を譲った。
日差しは鋭く美代の肌を照らした。ほんのり日焼けした肌は、より一層、健康的な雰囲気を引き立たせ、周囲から活発な女の子と見られるだろう。しかし、彼女は外見ほど丈夫な体ではなかった。
「美代、あまり日に当たるとまた倒れるよ」
家が近いので、お互い、小さなころから知っているのだが、美代は何かと体調を崩しやすく、全校朝会では度々貧血を起こし、保健室のお世話になっていた。
「うるさいなー。健だって、前に私に助けられたでしょ。転んじゃって、泣きながら私の肩によりかかりながら帰ったくせに」
美代は窓から離れ、自分の席に戻りながらそう言った。
小さく、薄い唇を尖らせ反論する彼女は気だるそうだった。連日の暑さに体力を奪われているのだろう。
七月半ば。夏休みまであと数日。
僕は何の計画もなく夏休みを待ちわびていた。
「それ、一年生の時の話。もう六年生だよ。早く忘れてくれればいいのに」
席に座りながら下敷き代わりのうちわを取り出す。いや、うちわ代わりの下敷きか。暑さで頭がぼんやりする。ちなみに、僕の席は美代の隣だ。
「やだよ。健が大人になっても忘れないから。それより、私をあおいでくれない? 頭が痛いの」
机に覆いかぶさりながら、つぶやく美代を僕は仕方なしに涼ませてやることにした。
しなる度に陳腐な音を立てる下敷きは傷が付いていて、消しかすと共に些細な風を美代に送る。もしかすると、あおぐより黙っていた方が暑くならないのではないのだろうか。あおがれている美代には関係ないだろうけれど。
「そうだ、健」
頭だけを動かし、頬を机に押し付けこちらに視線を向ける美代は顔色が悪いようで、保健室に連れて行った方がいいのかもしれない。
「なに? 保健室行く?」
僕も授業など身に入りそうもないので、最初の数分だけでもさぼりたかった。
「違うよ。さっきの、木の下の人たち。紐みたいの振り回してた」
「へー。それで?」
手首が疲れてくる。うんざりし始めた僕は、風を送るごとに舞い上がる美代の髪の毛をぼんやり見つめ、背もたれによりかかった。
相変わらず、教室内は息苦しく周りのクラスメイト達もうんざりとしている。
「帰り、見に行ってみない?」
「いいよ」
正直、興味はなかった。無意識に言っていた。
「あと」
「うん?」
「ちょっと、寝てくる」
おぼつかない足取りで、美代は教室を出て行った。
僕はこの後も授業に最初から最後まできっかり出ることになった。付添いはいらないらしい。
さほど欲しくもない宿題が渡された。六時間目の終わり、担任の先生が息を切らしながら問題集の束を抱えてきた時、僕は消しかすを丸めながら床に落とそうか、ごみ箱に捨てようか迷っていた。
美代はいつの間にか、戻ってきていた。
「美代、ノート貸そうか?」
「うん、お願い」
体調はだいぶ改善されたようだった。
「ありがとう、返すのは明日でいい?」
先生は何やら語っている。きっと、楽しいことではないだろう。
「うん」
「あと、昼休みに行ったこと、覚えている?」
美代は僕のノートをめくりながら言い、字はもう少し綺麗に書いてくれれば嬉しいんだけど、などと付け加えた。
「たいした物はないだろうけど、覚えているよ」
紐みたいなものを振り回していたと、言っていたか。
「たぶんね、あれ、蛇だと思うの」
僕はただはしゃいでいるようにしか見えなかった。
「見えたの?」
「かろうじて」
春の視力検査では僕に、視力が二・0だと自慢していたことを思い出した。なら、本当に蛇でも振り回していたのかもしれない。
「あのさ、何で行ってみたいの? 何もないかもよ」
「まだ、落ちているよ。見えない?」
昼休みの、あの場所を窓ガラスごしに視線を向けても僕には何一つ、蛇らしきものも珍しいものも見えない。あるのは僕と違い暑さの中、気丈に振る舞う木々。人だったならばよほど凛々しい性格をしているのではないか。逆に僕が人外だったなら、湿り気を含んだ生ごみのように腐っているのではないか。そんな事を考えていると僕の前には宿題が置かれ、先生は既に話し終っていた。
「健、行くよ」
美代は僕のノートをうちわ代わりにしだした。
折れ曲がった僕のノートは、気を使ってもらえなかった。
結局、僕は教室を出るときに、消しかすを捨てることにした。
「美代、それ僕のノートなんだけど」
僕の言葉は美代には届かなかった。
駆け出した美代の背中を僕は追いかけた。
「ほら、あったでしょ」
蝉はまだ鳴いていた。数種類の鳴き声が混ざり、細かな種類は分からない。元々、鳴き声で判別が出来るわけではない。
「あったね。よく見えたもんだよ」
「でしょ」
誇らしいのか胸をはる美代。
「素手でやったのか。尻尾がつぶれているよ。ここを持ったんだろうね」
かがみこみ、少しも動かないそれを見つめた。
「僕は何か振り回しているなぁ、くらいにしか見えなかった。これだったんだ。叩きつけられたみたい。頭が潰れている。体もちぎれかけてる」
細かく観察し、美代に報告する僕はなぜかその死骸に釘付けだった。
「蛇。嫌いだったのかな。どう思う、健?」
美代は足元の砂を掘り始め、下の湿った土が露出している。誘ったのは美代なのに、次第に表情は曇り今にも泣きだしそうだ。
「面白半分でしょ」
昼休みに聞いた笑い声は、いたぶる快感に興奮していたのだろう。
「あとの半分は?」
晴れた天気とは裏腹に美代の声は暗い。
「半分……。半分かぁ。怖さかな」
「怖さ? 怖かったら殺すの?」
蟻が周囲に集まり、早くも食料に変わっている。
「ああ、うん、たぶん。でも、どうだろう。怖いのか、楽しいのか」
「どうだろうって? なによ」
「いや、怖さなんてなかったのかと思って。ただの、玩具ぐらいにしか思ってなかったのかも」
そう、遊び道具にしか思っていなかった。
笑いながら振り回し、いたぶりながら殺していく。そこには一片の慈悲はない。
蛇と子供の間には、大きな心情の食い違いがあるのだ。他方は暇つぶしの道具を見つけたと喜び、他方は逃げようと必死になっている。
「そっか」
掘った土を今度は埋め戻し、美代は駆け出した。
「どこ行くんだよ」
走る美代の背中に僕は叫ぶ。
「ちょっと、待っててー」
大方、予想はつく。穴を掘るものでも借りに行ったのだ。
四年生の時、道端で死んでいた小鳥を埋めてやった記憶がある。その他にも色々と土葬した。
案の定、美代はシャベルを二つ持ち走り寄ってきた。
「ほら、手伝って」
木の根元を掘ると、みみずが一匹這い出してきた。
蛇の死骸は地中で分解され、木の養分になるのだ。
「健はさ……」
「なに」
一瞬、ためらうように口をつぐんだ。
「健もやったことある?」
僕はそもそも触ろうとさえ思わない。噛まれたくもない。
「いや、やらないよ」
十分な深さになったので、シャベルで転がしながら穴に落とした。
さようなら。
「なんで私、こんなことしているんだろ」
僕が知っているわけがない。
かわいそうだから、穴を掘って埋葬しているのではなかったなかったのか。少なくとも、僕はそう思っていた。
「さぁ」
「別にかわいそうだからっていうわけじゃないんだよ。でも、ほっとけなくなるんだよ」
埋めた後を見つめる美代は、うわ言のように呟いている。
「なんでもかんでも埋めたくなるの?」
「とりあえず、見えるものだけ」
「いっぱい死んでたら、大変だね」
「だね。その時はどうするか考えないと」
唇を噛み、苦々しげに言い、美代はシャベルを返しに行った。
「健さ、私のこと嫌いになった? 気持ち悪くない?」
「いきなりなんだよ」
帰り道、亀裂が入ったアスファルトで舗装された土手を歩いていると、不意に美代は口を開いた。学校を出た時から、二人は一言も話さず、僕は気まずさを感じた。
「だって……」
「だって?」
「私、だめなんだもん」
「だめ?」
うつむき、歩調が遅くなり立ち止まった。
アスファルトはいくら擦っても掘れはしないのに美代の足は動き始める。
「だめなの。死んでいる動物を見るたびに、体がね、ざわざわする。痺れたみたいになる。胸も苦しくなるんだ」
「かわいそうだから、じゃないんだよね」
「じゃないよ。夜になると眠れなくなる。天井を見ているとね、昼間見た死骸が浮かんでくるの。怖くて、怖くて、頭がおかしくなりそう。布団を被っても、まぶたの裏に迫ってくる。どんなに強くつむっても、だめなんだ。私、だからいつも念じるの。ごめんなさい、ごめんなさいって。私はあなたを助けてあげられません、ごめんなさい……」
川のせせらぎが聞こえる。その音を背景に美代の声が響く。異様な声色は僕の体を硬直させた。さっき見た蛇の死骸に憑かれたかと思うほど、彼女は豹変した。
目はうつろで、視線をまったく動かさない。手を力なく下げ、足は相変わらず掘り続けた。
「ああ、ごめんね」
不穏な空気が一瞬にして解けた。
憑き物が落ちて、目覚めたような表情の美代。
「今日は、どう? 眠れそう?」
「たぶん、大丈夫」
僕が初めて見た美代の表情だった。僕が知らない美代の雰囲気だった。
なんと声をかければいいのか。気の利いた言葉が見つからない。ただ、安っぽい励ましはしたくなかった。
「あのさ、言わないでね」
「言わないよ」
「ありがと。ん、じゃ。また明日」
美代は僕を置いて行った。
乾いた足音が少しずつ、遠くなりやがて聞こえなくなった。
また明日と言いつつ、美代は熱でも出したのか学校には来なかった。
空は曇天で、灰色が一面に広がり雨粒をしきりに落とす。屋根を打ち、窓を叩く。時間が経つにつれて、雨脚は強くなるばかりだった。
「では、夏休みの諸注意をします」
先生はプリントを配り始めた。
僕が美代の家に届けることになるのだろう。前に行ったのはいつだったか。幼馴染だとしても、気恥ずかしく感じる。
ポストにでも入れておくか。しかし、気付かれなかったらまずい。やはり、直接渡すべきだろう。
「あら、健君」
呼び鈴を鳴らすと出てきたのは美代の母親だった。
「プリント、持ってきました」
「そう、ありがとう」
優しく微笑み、上がっていって、と言われたので僕はのこのこお邪魔した。無下に断るのも忍びない。
「美代、どうしたんですか?」
広いリビングに通され、白いソファーに座ると緑茶をすすめられた。
「体調が悪いって、言ってね。布団から起きようとしないの」
一口お茶をすすると、程よい苦みが広がった。冷えた体に、染み渡るようだった。
傘をさしてもズボンの裾は濡れてしまっていたので気持ちが悪い。
「そうですか」
「健君、そういえば久しぶりね。来てくれるの」
「はい」
「美代、寂しがってたのよ」
「知りませんでした」
たまに誘われてはいた。しかし、僕にはあまり寂しそうには見えなかった。
「あの子、意地っ張りだから。直接は言わないんだけどね」
くすりと笑った美代の母は、やはり親子だけあって美代にそっくりだった。
「さて、様子を見てこようかしら」
美代の母に僕も同行した。
「みよー。調子どう? 健君来たけど」
返事はない。
「寝ているのかしら」
「起きているよ」
ピンク色のパジャマを着た美代が横にいた。
僕は驚いて、後退ってしまった。
「トイレ、行ってた」
目は半開きで、だるそうに足を引きずるように歩いている。
髪は寝ぐせがそのままで、好きなようにはねていた。
「具合、大丈夫? これ、夏休みの注意」
僕はプリント渡した。
「ありがと。夏休みって、いつからだっけ」
「明後日、終業式だから明々後日から」
美代は軽く頷き、部屋に引き返した。
「ああ、ごめんね。無愛想で」
「いえ。じゃあ、帰りますね。お邪魔しました」
玄関に行くと、照明が点いていないので、薄暗い。
僕の影も薄まっている。
靴が湿っているので、履くことをためらった。
傘立てに置いた僕の傘は水たまりを作っていた。
「健」
僕はまたも、驚かされた。
いつ来たのか、美代が後ろに立っていた。
「私ね……」
「どうしたの?」
表情が暗い。頭が痛むのか、片手で押さえている。素足だったので寒そうだ。
「やっぱり、いい。明日、聞いてね」
「うん、いいよ。じゃあ、ね」
明日、来ればいいが。この幼馴染は突然、僕の前で姿を変え、そのまま消えてしまうのではないか。そんな予感がした。
消えることはなかった。
美代は眠そうにしながらやってきた。
相変わらず雨が降っていた。
「はい、ノート。遅くなってごめんね」
またも目は半開きだった。
「健、今日って、終業式?」
「明日。昨日言ったでしょ」
「そうだったね……」
気の抜けた声だ。まるで生気がない。
ぼんやりと教室の黒板を見つめながら、頬杖をつき、たまに深く息を吸っていた。
「昨日のこと、覚えている?」
「何か話したいことがあるんでしょ」
「じゃあ、ちょっと聞いてね」
朝の先生の話が始まる少し前。
美代は周りの話声で消え入りそうなほど、か細い声で話し始めた。
「あの蛇ね、埋めたでしょ。だから、気は楽だったの。夜は何も見えないだろうって。確かに、起きているうちはよかったんだ。でも、夢を見たの。蛇の夢。私が蛇だった。捕まえられて、振り回されて、頭を潰される夢。蛇を……私を殺そうとする人たちの笑い声がまだ頭から離れない。私は逃げようとするけれど、全然だめ。景色がぐるぐる回って、何度も堅いものに叩きつけられた」
私がもう、動けなくなると誰もいなくなった。私はしばらくそのまま生きていたみたい。辺りを見渡すと、遠くに私が立っていた。健もない? 夢で自分を見ること。蛇じゃない私はね、じっと蛇の私を見つめて、まったく動かなかった。急に羨ましくなったんだ。蛇じゃなかったら、こんな酷いことされなかったのかな、とか考えた。夢はそこで一旦、終わるの。
次に見た夢は、私は蛇じゃなくなっていた。私は、私だった。でね、一人でシャベルを持って穴を掘っていた。蛇の死骸を埋めるための穴ね。一応、掘り終わって埋めるんだけど、這い出してくるんだよ、蛇が。そして、そして……」
呼吸が荒くなっている。胸を押さえて、震えている。
「私の、腕に絡みつくの。油っぽくて、ぬるぬるしていた。その内、首まで巻き付いてきて、絞められるの。謝ろうと思っても、苦しくて……声が……出なかった。頭がぼーっとして、目の前が真っ暗になると……やっと……目が覚めたの」
言い切ると、美代は泣き出した。頬に一筋、涙が流れる。止めどなく流れ続け、最後は顎から滴っていた。美代の漏らす嗚咽は、教室へ徐々に広がりクラスメイトは黙り込む。さっき入ってきた先生も、言葉が出てこないようだ。
「先生、美代さんが具合悪いみたいです。保健室に連れて行ってきます」
僕は美代を立たせ、支えつつ教室を出る。
足がおぼつかない。なおも鳴き声はひっそりと響く。薄暗い廊下は湿気が多く、夏の熱気がほんのりとこもっている。
「健……大丈夫。あとは一人で行けるから」
「いや、でも」
「いいから。話を聞いてくれてありがと」
「そう」
しかし、僕はついて行った。
「もう、いいって言っているのに」
「気にしないで」
「気にするよ」
「少しでも授業に出たくないんだ」
保健室に着くなり、美代はベッドにもぐりこんだ。
「朝は見ないかも」
そう言いすぐに寝息をたて始め、僕は保健室にいる理由を無くした。たいした時間潰しにもならず、授業に出ることになった。
美代がその日、教室に戻ることはなかった。帰宅したらしい。空いた隣の席は、どことなく物足りなさを感じた。
放課後、蛇を埋めた場所に行った。
埋めた後すら見当たらず、本当にここなのか確信が持てない。
木の下にいると、若干雨の強さが弱まる。雨粒が当たると傘が立てる小刻みな軽快な音を立てる。地面はぬかるんでいて、一歩踏み込むごとに足跡が残った。あまり深く埋めていなかったので、このまま雨が続けば露出してしまうかもしれない。
美代は蛇の夢を見たと言っていた。もし、生きていたならば這い出しているかもしれない。しかし、あれは体がちぎれかけていた。頭も潰れていた。生きているはずはない。そう思いつつ、不安は拭いきれなかった。
念のため確かめてみよう。
僕はそれらしき場所を足で軽く掘ってみた。すぐに灰色の体が現れる。やはり死んでいるのだ。夢は夢だ。
だったら、美代はなぜ夢を見てしまったのだ。別に美代が殺したわけじゃない。蛇のことに限らず、美代の前に動物はどうして現れるんだ。
「もっと、生きたかったの?」
呟くが答えはない、あるはずがない。死んでいるのだ。
もう一度、埋めなおす。
息を大きく吸うと生臭さが漂っていた。
近くには、田畑や川が多い。周りを山々に囲まれた典型的な盆地構造のこの町は、整備された道路とそこを行き交う自動車によって生き物が死んでいることが多い。特に雨の日は蛙が潰されている。
やはり車道にはペースト状の元蛙がいた。歩道にはカタツムリが潰れていた。この雨が全部流してくれればいいのに。実際、こびり付いてとれない。
僕は歩くのに苦労した。美代はこれらを見てしまったのかもしれない。埋めることはかなわない。
「ああ、健君」
美代の母だった。黒い傘をさして、慌てているようだ。目線に落ち着きがなかった。白いロングスカートの裾は泥が跳ねている。思いがけないことが起こったのだろうか。
「美代が、いきなり家を飛び出したのよ。どこいったのかしら」
「さあ。帰る途中では、会いませんでしたけど」
「見かけたら、教えてね」
美代の母はどこかに行ってしまった。
もしかしたら、美代は埋めに行ったかもしれない。埋めるとしたら、この道路に散らばっている小動物たちか。
僕は駆け出した。
美代は近くにいた。
僕らが小さいころによく遊んだ場所。穴を掘りやすい場所。ペンキの剥げかけた遊具が幾つか立ち並んだ公園。
「美代、何やっているんだよ」
美代は公園の隅に立ち尽くしていた。ずぶ濡れだった。
「健、保健室で寝ていたんだけど……」
僕は美代の傍らに立ち、傘の中に入れてやった。
「また、見ちゃった、同じ夢」
「そっか」
「私、うなされていたみたい。気分も悪かったから、帰ることにしたの」
美代の母はまだ探しているだろう。伝えたほうが良いだろうけど、話を聞かないと美代は一歩も動かない気がした。
「家に着いてから、眠りたくなかったけれど、知らない内に眠ってた。雨の音って気持ちが良いでしょ」
美代の足元には何が何だかわからない、山積みにされたものがある。白や赤色が混じり、その中に灰色や緑色が見える。ああ、これは蛙なのか。目玉がこちらを睨んでいた。水かきもある。筋繊維がきれいな肌色をしていた。かろうじて原型をとどめているものもいた。
僕は吐き気をこらえた。内臓が散らばる様子は美代でなくとも、夢に出てきて苦しめられそうだ。
「出てきたんだ、この子たちが。私は知らない場所にいた。薄暗い森の中。近くに水たまりがあって、そこから逆に雨が降っているの。空に向かって雨が飛んでいってた。変だったよ。森の中にはね、その雨の音が響いているの。しばらく見ているとね、いっぱい蛙が出てきた。私に近づいてきて、はじけるの。ばーんて。これみたいに」
美代は指さし、残骸を示す。
「それでも進んでくるの。私の体は動かなくて、だんだん私の体に張り付いて、口の中に入ってくる。気持ち悪い。気付いたら、引きずられていて、水たまりの中に沈んでいた。夢はここで終わり」
想像しにくかった。気持ち悪さは、伝わってきたけれど。
「美代、帰ろう。その前に手を洗った方がいいね」
「汚れちゃった」
近くに水飲み場がある。
どうやら美代は素手で集めたようだ。
「美代のお母さん、探していたよ」
「うん」
二人でさす傘は狭くて、僕は身をずらし肩が出た。雨脚は弱くなったが、それでも濡れていった。
「ごめんね、健。寒いでしょ」
「いや、いいよ。それより早く帰らないと」
美代を家に届けると、ちょうど美代の母も一旦戻ってきた所らしかった。
泣きながら叱る美代の母とは反対に、美代の目はなんの感情もこもっていない。人形のように冷たかった。
僕は家に帰ると、服をとりかえそのまま眠った。僕は夢を見なかった。
美代は終業式に来なかった。
あれから、どうしたのだろう。
夏休みはそのまま始まり、馬鹿みたいに暑くなっていった。昼間は暑くて宿題が手につかない。去年は美代と終わらせ、美代の母がアイスを買ってきてくれた。おかげで、すぐに宿題は片付いた。
病弱だが、よく笑っている子だった。言葉使いがたまに乱暴だったけれど、根はやさしい子だった。たまに、どこか遠くを見るような表情をしていたことがあった。何を考えていたのだろう。
僕はいつの間にか美代の家に来ていた。すぐにリビングに通され、透明なグラスに入った麦茶を出された。
「すいません、美代どうしてますか?」
美代の母は明らかに疲れていた。頬は心なしかやつれて見える。
「ちょっとね……。健君に連れられて帰ってきた日からますます、言いにくいんだけど、その……おかしくなっているみたいなの」
声にも疲労がにじんでいた。
「いつも、怯えているみたいなの。わけを聞いても、何も言ってくれないんだけど。ご飯もちゃんと食べないの。昨日なんか、作ったものをみた途端に吐いちゃったの」
非常に悪化しているようだ。
「病院にも行ったんだけど、口を全く開かないものだからね……」
麦茶を一気に飲み干すと、香ばしさが広がった。
「健君、何か知らないかしら?」
「あ、えっと……」
言わないでね。
思い出した。美代はそう言っていた。
「僕は何も……」
「そっか」
美代の母はさほど期待していたようではなかった。聞くだけ聞いてみよう、そんな感じだった。
「美代には会えますか?」
「ああ、いいわよ。健君だったら、何か話してくれるかもね」
リビングを出るとき、台所には食器が山積みになっていた。
「美代、健君来てくれたよ」
ドアが開いた。
「健……入って」
僕は部屋に招かれた。美代の母は眼中にないようだった。
水色のパジャマを着た美代は、目の周りに薄らと、くまがある。眠れていないのか。
「まあ、座ってよ」
美代の部屋はカーテンが閉め切られ、隙間からは光が漏れている。夏場に閉め切っているので、熱気がこもっていた。この中で過ごすのは容易ではなさそうだ。
扉から正面の窓際にベッドがある。白いシーツはめくれて、しわだらけだ。薄い掛布団も同じように乱れていた。机はその左横に置かれていた。ランドセルが投げ出されたままで、宿題は手を付けられていないのだろう。
美代はベッドに腰掛けた。
「健、もっと早く来てくれるかと思ったのに……。夏休みに入って一週間経っているじゃん。私、頭がぐちゃぐちゃ。朝でも、たまにあの子たちが出てくるし」
幻覚が現れるのだろうか。僕は見たことはない。
「疲れちゃったよ……」
僕は床に敷かれたピンクのカーペットを指でいじっていた。
「あと、気付いたの。何だかわかる?」
「……さあ」
「道端に行かなくても死骸はあるの。どこだと思う?」
質問が多い。怯えた感じはない。投げやりな態度だった。
「知らない」
「健、さっきから素っ気ないね。まあいいか。どこかというとね、食卓だよ。毎日、規則正しい人なら三食見ている。そう思うでしょ」
「どうだろうね」
「殺したものを綺麗に調理する。どんなに隠しても、変わらないんだ」
「ああ、そう言われてみればそうだね」
「でしょ。あれってどんなに綺麗にしても、道端に落ちているのと変わらないんだよね」
寝ころび、布団ではなくシーツにくるまった美代は、僕をまっすぐと見つめた。
「で、だから食べたくないの?」
「そういうわけじゃないよ。見ただけで、現れるんだよ。もう何が何だか分からなくなった子たちが迫ってくる。どうしよね。おなか空いてるんだよ。だけど、怖くて見れないよ」
僕はポケットに入っていた飴玉を取り出し、放り投げる。
「あげるよ」
「ありがと」
包み紙を開き、ピンク色の飴玉を口に入れ転がしている。
「いちご味だね。私の好きな味。健知ってたんだね」
微笑んだ美代は力なかった。
「僕が飴を袋で買ってくると、いちごだけすぐに無くなるんだよ」
「そうだっけか」
「そうだよ」
「でさ、どうするの、これから。まさかずっと食べないでいられないだろ」
「どうしようか」
すっぽりとシーツを頭までかぶり、しばらくぴくりとも動かなかった。
「カーテン、開けようか」
「だめ、張り付いているから、あの子たち。私をずっと見下ろすの」
シーツ越しでくぐもった声だった。
「あの子たちね……。どんな姿なの?」
「死んだ動物たちだよ。潰れていたり、腐ってどろどろになったのとか。共通しているのは、目だけがぎょろぎょろしている。睨むんだよ。夢にまで出てくるんだから、ゆっくり眠っていられないの」
飴をかみ砕く音がした。
「あーあ、噛んじゃった。健、もう一つない?」
「ごめん。たまたま入っていただけだから、もうない」
「残念。……健さぁ、五年生くらいになった頃だったかな、あまり相手してくれなくなったよね。一緒に帰ろうって言っても、断られる事が多くなったし。家に呼んでも来てくれないし。あ、夏休みの宿題は一緒にやったね」
「今来ているじゃん」
「こんな時だけね。私が変になったからだね。……まあいっか。来てくれるだけでも良かったよ」
僕は気恥ずかしく感じることもあって、距離を取ろうとしていた。女の子だと意識してしまう。だが、虚弱な美代をほっとけない気もしていた。だからたまに一緒に帰ったり、たまに遊びに行ったりした。
「健、私思うんだよ」
「どんなこと?」
「私、あの子たちに恨まれているんだよ」
美代は顔を出した。
「だから、見えるんだよ」
「別に美代が殺したわけじゃないでしょ」
「そうだけど……、私は気付いたから、集まるの。ほかの人は気付いていないだけ」
「僕は、気付いていないだけ……」
「うん、そうだよ。でも、健は見えてなくていいよ。疲れるんだもん」
「僕も見えてなくていいと思う。美代も早く、見えなくなればいいのにね」
口にしてから、無責任だと思った。
「なんか、すごく寒い」
「風邪ひいてるんじゃない?」
「どうだろ」
美代の額に手を当たると、ひんやりとしていた。心地が良かった。
「冷たいね」
「健の手はあったかい。ねえ、私もう、だめだ」
「だめだって?」
「あの子たちに呪い殺される」
「そんな大げさな」
「大げさじゃないよ」
美代の表情はなおも変わらず、表情がない。
「感じるんだ。私、あと少しで死ぬの」
「そりゃ、ものを食べないとね、死ぬでしょ」
「それが呪いなんだよ。寒いよ、健。手を握ってよ」
美代は細く小さな手を差し出す。僕はためらいがちにその手を包んだ。冷たかった。
「ありがと」
深く美代が息を吸うと、包まったシーツが大きく上下した。
「頼んでいいかな、健」
「どんなこと?」
「私のこと、殺してよ」
飴が食べたいよと言うのと同じように、殺してよと頼まれた。僕は握る手に力を込めた。
ベッドに寝転がる美代の顔には幾本かの髪が降りかかり、カーテンから漏れる光を反射し鈍く輝いている。しばらく日に当たっていないのか、それとも具合が悪いのか肌が病的に青白かった。薄い唇は半開きで、わずかに空気が出入りしているのが分かる。歯並びが綺麗だった。
「いきなり、何を言い出すんだよ」
「もう、だめ。うんざり。私の頭の隅々まで狂っちゃう前に、殺してほしいの」
「出来ないよ」
「お願い」
いつの間にか僕は部屋の暑さを忘れていた。美代のすがるような目が、僕の感覚を麻痺させた。
「美代……、外に行こうか」
「やだよ、あの子たちがいるもの」
「大丈夫、僕がそばにいるから。きっと寄ってこないよ」
「……手、つないでくれるならいいよ」
ほんの一瞬、僕は迷った。クラスの誰かに見られたら、どんな噂をたてられるか。
「しょうがないな」
いいか、別に。
「じゃ、ちょっと待ってね。着替えるから」
僕は答えを先延ばしにした。このまま、うやむやになればいいのに。
部屋を出ると、幾分か涼しい。
数分の後、美代は白いワンピースを着てきた。
「お母さん、ちょっと出かけてくるね」
美代の母は食器洗いをしていた。
「え、ああ、そう……」
驚いた表情に心配の色が混ざっている。
「帽子持った?」
美代は水色のリボンが付いた麦わら帽子を掲げた。
「あまり遅くならないようにね」
「うん、行ってくるね」
外はとろけるような暑さだ。攻撃的な太陽の光は肌を切りつけるようだった。風は微塵もない。空気が揺らいでいる。
不思議と汗は流れなかった。握った美代の手は冷たい。肩に、美代の麦わら帽子がかすった。
「健、空が青いね」
「そうだね」
ぽつりと呟いた。会話はあまり繋がらなかった。
「どこ行くの?」
「行きたい所、ある?」
何も考えていなかった。考えがまとまらなかった。取り留めもないことばかり、頭に浮かんで消えていく。
「決めてないんだね」
「うん」
当てもなく、僕らはさまよった。
今更だけれど、美代の体調は大丈夫だろうか。
「そうだ。あそこに行こうよ」
「いいよ」
美代の指さした先にあるのは、街はずれにある森林を切り開いて作った展望台だった。さほど手入れがされていなく、雑草で半ば埋もれかけている。登るための道も、木で組まれた簡単な階段があるだけだ。
「最後に行ったのはいつだったろうね」
「忘れたよ」
「けーんー。さっきからつまんないよ。もっと言葉数を増やして。誘ったのは健でしょ」
握られた手を大きく降り出した。振り子のように規則的ではなく、振れ幅が多くなったり、小さくなったり。
「美代、見える?」
「見えるよ。でもね、健がいてくれるからかな、近づいて来ないんだ。だから、あまり怖くない。離さないでよ、手」
「話さないって」
帽子で顔は見えないけれど、笑っているような気がした。
「ほら、早く行こ」
美代は不意に走り出す。
僕はより一層、強く手を握った。気を抜けば、離れてしまいそうだ。
思った通り、丈の長い雑草が生い茂っていた。人一人がやっと通れるような細い道は、木々の作った陰によって、地面が湿っている。足元には、冷気が流れているようだった。柔らかい影が僕らを包み、程よく日差しから守ってくれていた。
「土の匂い、気持ちいいね」
「匂いが、気持ちいい?」
「こう、頭に回ってくるというか」
美代は片手で円を描く。
ここは大体、二十分くらいで登り切れる。さほど、きつい登り階段でもないので美代の舌はよく動いた。息ひとつ切らしていない。
「気分がいいよ。あの子たちが、来ないんだもん。それどころか、薄くなっていくみたい。やっぱり、もっと早く健が来てくれれば良かったのに」
そう言い、腕に絡みついてくる。
「あまり、くっつかないでよ」
「しょうがないでしょ。道が狭いんだもん」
服越しに、美代の体温が伝わってくる。相変わらず、冷たい。
「急に、元気になったよね。正直、驚いているんだけど」
「いいじゃん、別に」
「まあ、元気になってくれたのは、良かったよ」
何度かつまずきそうになった。その度に、美代も体制を崩した。
蝉がやかましく鳴いている。そこかしこに、張り付いているのだろう。
登りきると、腐りかけた木の柵と、四本の支柱に支えられた粗末な屋根が僕らを待ち受けていた。屋根の下には今にも崩れそうな、木製ベンチがあった。
草木が額縁のように街の景色を切り取っている。住宅地の家々が規則正しく並んでいた。川を挟んだ向こう側は、まばらにビルが建ち、合間に様々な店があった。窓ガラスが日光を反射し、幾つかの場所で輝いていた。もっと向こうには、空を区切るようにして山脈がそびえる。
「本当に久しぶり、ここは」
僕は深呼吸をした。青葉と土の匂いが一気に体中に広まる。息を止めると、少しだけ宙に浮いたような感覚がした。
「ほら、座って、健」
美代はベンチの汚れを払い、華奢な腰を落ち着ける。
「二人乗ったら壊れないかな」
「大丈夫だよ」
軋みながらも、僕は何とか座ることが出来た。
「はぁー、楽しい」
よく笑っている。こちらまで釣られて口が緩みそうだ。
「さて、聞かせてよ。健の答え」
「忘れていると思ったのに」
なおも微笑み続ける美代。
「頭が空っぽみたいに、言わないでよ」
「楽しそうにしているじゃないか」
「今はね。ちょっとは、やっぱりいいかなぁ、とか思ったよ。でも、違うでしょ。健がいるから、健が手を繋いでくれるから、安心できるんだよ」
自然と口調が早まっていた。
「健がいなくなったら、どうなるの? 今更、また戻りたくないよ。楽しいまま、殺してよ。一分、一秒、片時も離れないでくれるの?」
「それは……」
「無理でしょう」
雲が一つ流れていた。手のひらに収まりそうな大きさ。きっと、つかめないだろうけれど。
「だから、僕に殺せって?」
「ごめんね」
重い、僕には重すぎる選択。だからといって、誰にも託すことが出来ない。そもそも、美代が死んでしまう以外に答えはないのか。あるべきだ。
「考えよう、他の手段」
「一つ、一つ、見える度に埋めていくの? きりがないよ……」
「そうじゃなくて、別の方法」
僕は何も思いつかない。
美代はうつむき、帽子で顔が隠れてしまった。
「もし、僕が美代を殺したとして、僕は犯罪者だよ」
結局は逃げるしかない。
美代は喋らなくなってしまった。何と言葉をかければいいのだろう。悲しむ、この少女に何が出来るのだろう。
「美代……」
その先が思いつかない。
「分かった……健。悲しい顔、しないで。無理、言ったね」
肩が震えていた。泣いているのか、美代。
僕は美代の帽子を取った。髪が風でなびく。
悲しい顔をしているのは、どっちなのだ。
涙が頬を伝っている。笑ったまま。
「あのさ、何も思いつかない。だけど、思いつくまで……」
思いつくまで? 一生思いつかないかもしれない。
僕は指で美代の涙を払った。頬は柔らかかった。
「一緒にいるから」
聞こえはいいが、僕は何も選んではいない。やはり、先延ばしにしているだけなのだ。
眠りから覚めたように、はっとした顔になる。目は見開かれ、時が止まったかのように硬直する。
「絶対に? 嘘をついてない?」
「うん、絶対に」
風が吹き抜けた。木の葉が揺れる。
美代の顔が近づいてくる。腕が首に回される。そっと、僕は引き寄せられた。
「絶対、絶対だよ」
美代は抱き着き、僕の服を涙で濡らした。
日が暮れ始め、薄暗くなってきた。
美代は眠っている。僕の肩にもたれ掛り、死んだかのように動かない。
起こすのもかわいそうだ。
なるべく静かに美代を背負い、引き返し始めた。
森は暗く、薄気味悪かった。足元がおぼつかない。滑らないように気を付けながら降りるのは、神経を使わされた。
さて、どうしたら良いのか。さすがに、四六時中ついていられない。
うなだれた。
美代には見えているものが、僕には見えない。逆だったならばどうだったろう。僕も泣いたりしただろうか。
分からない。
とにかく、帰ることだけ考えよう。