第88話「恐れ、待ち焦がれていた再会―1」
本戦闘配備という正真正銘の戦いの最中、ナオトはホエールの廊下をただ緩慢に歩いていた。
今、外で繰り広げられている戦闘には自分も参加するつもりだった。唯一出来る事を果たそうとしていた。それなのに――。忸怩たる思いが胸中を支配する。戦闘に備えて着込んでいたパイロットスーツの重さが、悪意でも含んでいるかのように身体にのしかかって来る。不意の衝突に備えてスーツの各所に仕込んであるプレートも、衝撃に反応して硬化するゲルを封入したパックも、パイロットとして戦闘に出なければただの重り以上の意味は持たない。
戦闘待機を命じられたナオトに、自身が行くべき場所は見えない。ただし、部隊長からの命令という明確な形で示されてはいた。体調は戦闘に耐えられるほど回復してはいないから、応急医務室で待機していろ、と。戦闘要員としてパイロット待機室にすら居させてもらえない我が身を省み、彼は自分がここに居る事さえ許したくは無かった。なにも出来ないのに、トールのパイロットとしてしか生きる道は無いのに、戦うという手段すら放棄せざるを得ない状況が悔しかった。吐き出しようもないやり切れなさを押し込めて、廊下に立ち並ぶドアーの一つに手を掛ける。
ここはホエールにおいて最も深い区画の一つ、付近には艦長室もあるという場所だ。ちょうど手を掛けたドアーの向かい、まさに応急医務室と示された部屋に入らんとするナオトの後ろにも、もう一つ似たようなドアーがある。ただし、そこに入る状況というのは出来るだけ想像したくは無かった。即ち、もはや喋る事も動くことも無い入室者たちが、氷室の中で眠りについている筈だったからだ。廊下を挟み、対を為して設置された二つのドアーの間隔は、この時のナオトには意外と狭く感じられていた。生者と死者とを分ける国境の幅は、たかだか数メートル。さほどの距離も無いのだ。
ホエールに来た当初は、遺体安置室をわざわざ医務室の向かいに設置している理由が分からなかった。だが、先の撤退戦において、応急医務室から向かいの安置室へ移された者も少なくなかったというから、非情な設計の思わぬ合理性に気付かされる事となってしまった。どこか納得できない部分も無いではないが、ここが戦場の只中だという事実――命の価値がただ一発の砲弾にすら及ばない場合があるという事実を、再認識させてくれる。何か月もホエールに乗り込んでいれば、こんな事も初めてでは無い。時に、常日頃過ごしている場所で、不意に見つけてしまう死の影もある。たとえその日常を過ごしている場所が軍隊であれ、殆ど装甲越しにしか戦場を見ない立場なら、その理解が今更ながらに恐ろしかった。遠方からのくぐもった砲撃音が、無視できない塊として廊下の向こうから押し寄せて来る。びりびりと不穏な振動音を発して、目の前のドアーを収める枠組みまでもが震える。
しばし掛けっ放しだった右手にも、それは伝わって来た。思い出したように軽く力を込めれば、それだけでセンサーは反応したようだった。清潔さを第一とする室内の光景が、スライドするドアーに合わせて彼の視界に飛び込んでくる。
「ナオト=オウレン少尉です。待機命令を受けましたので、失礼します」
言いつつ、彼は応急医務室の中へと足を踏み入れた。つい昨日出て来たばかりの部屋に再び足を踏み入れるというのは、どこか気恥ずかしくもある。だから幾度も訪れている場所であっても、堅苦しいと言われるような所作はなかなか抜け切らない。
それは普通咎められるような性質のものではないが、医務室の主たる軍医――つまり〝先生〟はどうやら気にするらしい。パイロットであれ調理担当の兵卒であれ、怪我持ち・病気持ちとして訪れたなら患者は患者。あくまで医療に携わる者としての立場を取る軍医の性格を、ナオトは既に学んでいた。それでも、「別に構わんのに」と苦笑する声の聞こえて来るまでが、毎回繰り返される入室の手順となってしまっていた。言葉通りに堅苦しさなど微塵も感じさせない表情が、白衣姿の上にある。
「報告は受けているよ、ナオト少尉がここに出戻りだとね。歓迎するよ」
細い縁の眼鏡の影で、含むところの無い目がゆったりと据えられている。頭頂部を白く飾るだけとなった髪は、無造作にほぐされた綿毛を連想させる。使い込まれて固さの取れた白衣も相まって、どこかくたびれた少年を想起させるような風貌が、〝先生〟と呼ばれる軍医その人の常だった。今はただからかうように笑い、まさに出戻りの体となってしまったナオトを椅子に座ったまま迎え入れている。
だが果たして、歓迎すると言ってみせた意図はどこにあるのか。きっと含んだ意味合いなどは無くて、ただ予備休息期間を切り詰めた事を指しての冗談なのだろうと――。そう、いかにも冗談めかして言って見せた様子が、却って重大な事実を内包しているように見えてしまった。この穿った見方をただの考え過ぎと一蹴するには、あまりに状況が悪い。指で座るよう示された椅子へと腰を掛けながら、ナオトは内心に軽い疑心暗鬼を募らせていた。
「次に自分が入る時は、療養室の方になりますか」
「隣のあれかね。あれは長期療養の必要な……とはいっても、実質的に治療のしようがない患者も多くいる部屋だ。重度の戦闘神経症にでもなった、というなら別だろうがね。腕の一本や二本が取れない限りは入れさせんよ。少尉は入りたいか?」
「いえ、この間の検査が応えました。出来る事ならもう、ここのお世話には……」
「そうかそうか、それでけっこう。健康な人間ならそう反応して然るべきだ。ただし、トールに乗っているなら定期的な心理検査はしてもらわないと。軍規定だからね。尤も医者としての立場から言わせてもらうなら、君にはもう少し安静にしていて欲しかったのだが――」
ナオトを見据える軍医の目が、にわかに鋭さを帯びる。ここには最低限の人員しか、本戦闘配備中は待機していない。
「検査の詳細な結果は、もう教えてくださいますか?」
「そう焦る事は無い。精密な分析にはもう少し時間が掛かると、少尉には伝えたはずだがね」
話題がなんでもない事であるかのように振舞い、軍医はさらりと視線を逸らした。こうも意識してはぐらかされるような態度で居られては、それ以上突っ込めないのがナオトという人間の本来だ。軍医が何かを確実に掴んでいるという確信を持ちつつも、相手がそうすべきと考えているならその配慮を優先させてしまう。きっとこの場合も、自分には伝えるべきでないという配慮があっての行動に違いない。そう考えているならば、ナオトが無理にでも検査結果の詳細を聞き出せるはずは無かった。
だが、それではいけないと直感する叫びがある。胸の中で膨らむ焦燥感は、彼自身に関する不穏な予感と言い換えることも出来るものだ。平静を保って目を逸らし続ける軍医を前に、あとは正面切って問い掛けるだけの勇気があれば良い。
「それでも、お願いします。これから俺がどれだけパイロットを続けられるのか、それを知りたいんです。でなければ、こんな精密検査までするなんておかしいでしょう?」
ナオトの率直な物言いに少し意表を突かれたのか、軍医の振る舞いに僅かばかりの動揺が走る。手近のカルテを手に取って目を通しているらしいものの、視線は少しも内容をなぞろうとしていなかった。意外と分かりやすい反応を前に、ナオトは幾ばくかの手応えを感じた。同時に、軍医という立場の人間からはっきりと事実を示されてしまうことに、今更ながら怯むような気持ちが芽生える。だが、彼にとっての幸運は、既に発破されてしまった勢いが止まらないという点にある。一思いに言い切ってしまうまで、畳み掛ける言葉は止まらない。
「いきなり倒れたり、相手の動きが分かってしまったり、そんなのはどう考えても普通じゃない。ただの幻覚がたまたま役に立つ方向に現れただけだって、無理矢理考えていた時もありました。けど、それだって自分を都合よく騙そうとしているに過ぎないと思うんです。だから先生、本当に何が起こっているのかを教えてください。そうでないと俺は、自分自身すら信じられそうにないんです」
自分の中で凝り固まっていた心情を整理し、そのまま吐き出す。言い切ってしまえばなんという事は無かった。ややあって、しばらく黙り込んでいた軍医が顔を上げた。「分かっている事は話そう」と、どこか生固い視線がナオトに向けられる。
「何を以て異常と診断するかにもよるがね。少尉の状態は、初めてここを訪れた時よりも悪化している。もっと言うなら前回訪れた時よりも悪化しているようだ。確実に、だよ」
断言という行為の持つ重みが、ずしりと胸に落ちて来る。やはりという予感と共に、指の一本に至るまでがじわじわ硬直していくようだった。それでも彼は、最後まで聞かねばならないと覚悟し直した。
「……続けてください」




