第80話「それもまた一つの日常―1」
「ったくさ、どいつもこいつも酷い顔しやがってよ」
当直明けで死にそうな顔を浮かべている艦内要員の顔、顔、顔――。見ているだけで気分の滅入りそうなそれらを眺め、朝の艦内を歩いて来なければならなかったルーカスの気分は、酷いものだった。なにもかも、いつ敵が迫って来るともしれないこんな状況が悪いのだ。フェンリル、あるいはゲルバニアン軍の追撃を恐れ、過剰とも言えるほど敏感に索敵網を張り巡らせる様などは、まさに命からがら敵勢力圏における撤退を続ける艦のそれに相応しい。必要最低限の艦内維持という以上に、いつ敵が仕掛けてきても対応できるようにと無理矢理増員された当直要員は、ホエールの腹を満たす刃物のような緊張が生み出した産物だった。ただし、彼らとてそれぞれに本来の任務が有り、精神的にも体力的にも既に限界は近いと見える。
「艦の足もすっかり遅くなっちまって、どうせ敵が来たって逃げきれないだろうに」
狭い通路を行き過ぎる、疲労の色を全身に宿した艦内要員の一団とすれ違い、ルーカスは間違っても彼らに聞こえぬよう呟いた。普段なら彼の愚痴や軽口を受け止めてくれるであろう同僚は、今は隣には居ない。いや、ここ三日間その姿を見てはいなかった。不用意に面会しようとすれば脳波の鎮静化にとって悪影響が出るかもしれない。くれぐれも検査後の予備休息期間も含めて会うような事は控えて欲しい。軍医からの忠告という体でそんな伝言が彼にもたらされれば、無神経にも見舞ってやろうなどという気持ちは起きないものだ。
四日前、同僚が最後に見せた苦悶の表情。半ば担ぐような形で医務室に運び込んだ時は――。固く目を閉じ、頬の筋肉を痙攣させてうわ言を呟き続ける様は、ルーカスにとって正直ぞっとするものだった。だが同時に、ナオトが必死に何かに抵抗しているように感ぜられるものでもあった。それが何を意味しているかなど、軍医に分からなければ彼に分かる道理は無い。「それにしても」と、脳裏に張り付く凄惨な苦しみようを振り切るように、一連の回想はこう括られる。
「メイカって……どこの女のことなんだよ」
うわ言の中でナオトがそう呟いていたのだった。昔の女の名前か何かだろうか。外野ゆえの気軽な発想で彼はまっさきにその可能性を思い浮かべてみる。しかし次の瞬間には「まさか、あのナオトがな」と、ルーカスは無責任にも結論付けた。無駄に真面目なところといい、駆け引きといったものと全く知らない辺りといい、戦場における姿勢がそのまま女性関係にも当てはめられるのならば、ナオトが女の一つも作っていたなどとはとても考えられないのだ。自身の事は全く省みる事無く、あくまでルーカスは友人でもある同僚の有り様を嘆く。思わずため息をつき、ちょうど一人通り過ぎた艦内要員に奇異の目で見られた頃、彼の目的地たる艦内の大食堂入口は見えて来た。
戦闘時を除き、滅多な事では閉鎖されない金属ハッチが併設されたドアーを通れば、その先には広々と確保された食堂スペースがある。複数の列に置かれた椅子やテーブルが並ぶ空間には、それ相応に大人数の軍人――やはり疲労の色を拭い切れない顔が多い――が顔を並べている。だが、彼らが示し合せでもしたように黙々と食事にのみ注力する様は、平常時のそれとは全く違う様相を空間に作り上げている。ここまで辛気臭い顔を並べられると食事までまずくなるのに。やはり間違っても彼らには聞かせられない言葉を胸中に留めつつ、ルーカスは一つだけ、陰鬱とした空気には沈み切っていない顔を集団の中に見つけた。尤もそれとて活力に満ち溢れているとは言えない様子だったが――。焦る事無く自らの食事をプレートに確保したルーカスは、早速、その正面の席へと腰を落ち着ける。脱ぎ置かれた軍帽が一つ、テーブルの前には置かれていた。
「中尉殿、今日はここで朝飯ですか」
「お、そりゃ格納庫にこもって整備員用の食事ばかり食べる訳にはいかないだろう。ただでさえ、あれから整備班のほぼ全員が缶詰状態だっていうのに」
現在、格納庫に広がっている息も詰まるような混沌具合を思い出し、ルーカスは口を噤んだ。文明に生きる人間として最低限の生活規範が守られているとはいえ、なにも好んで食事時に思い出したい光景では無い。それも全身に創傷の如き損傷を受けた全機、あるいは中破に近い四号機の応急修理が終わるまで、解消されない事が確実なのだ。わざわざ調整に呼び出されるほど三号機が損傷していなくて良かった。不純ここに極まれりといった調子で愛機の無事に安堵するルーカスも、決して非難を受けるべき思考回路をしているとは言えない。尤もそんな見方があろうと無かろうと、既に開き直っている彼にとっては関係の無い事だった。まずは一口、ほぼ半分程度食事を終えているリーグの前で、朝食たる軍隊独特の高カロリーメニューを口に運んでいく。まずいとは言わないが、美味くも無いな。そう感じたのは、なにも食堂を満たす陰鬱とした空気のせいだけでは無い事をルーカスは自覚していた。「別に文句を言う訳じゃないが」と、食事の手を止めて語り掛けて来るのはやはりリーグだ。
「そろそろ、どこぞの基地の特別支給食でも食べたいものだな」
「やっぱそう思いますか、中尉殿も」
「せめて食事くらいは、って事だ。こんな状況でホエール自慢の調理設備の大半が使えないんじゃ……というよりも、ロクに補給を受けられない状況で使っても仕方のないものだがな、あれは。このところは調理担当もいかにも暇そうにしているよ」
リーグが親指でそれとなく指し示す先には、配膳用の窓口があり、その奥で大きな欠伸を隠そうともしない若い調理担当要員の顔が見える。今や下手なファストフード店と変わらなくなった任務内容は、彼の矜持を腐らせるには充分だったのだろう。直後には、調理担当要員をまとめ上げる古参兵の叱責が飛んでくるに違いないが。と、ぼんやりした頭で予想したのも束の間、まさに思い描いた通りの光景が視界の先に展開され、ルーカスはにやりと口を歪ませた。しかし、それも仕方のない事だと一定の理解を示す自分も居て、敢えて怒声の方へ視線を向けないリーグも同様の心境なのだと知る。
敵勢力圏への単艦進出という任務の性質上、元より補給の受けられない状況下が想定されていたホエールではあるが、予想外の事態が立て続けに起こった事がここになって響いていた。目標地点に敵基地が存在し、任務遂行の為には攻略作戦の実施が不可避と判明した事が一つ目なら、それが狼煙となって国境パトロール部隊の伏撃を受けてしまった事が二つ目。今やクルー全員の知る所となったフェンリルの襲撃を除くとしても、想定される追撃部隊の目をくらます為、本来の撤退ルートより遠回りで帰途を消化しなければならなくなった事が三つ目だった。加えて、戦闘で受けた損傷により艦の巡航速度が落ちた事で、結果として本来のスケジュールを大幅に逸脱する形で撤退作戦は進められている。それがホエールの現状だった。当然クルーへの食事といった物資も、撤退の具体的な見通しが立つまでは不用意に消費する訳にいかず、ホエールの調理設備の大半を眠らせたまま、こうして簡易の食事が提供されているのだ。作戦スケジュールを狂わせた数々の要因を恨みこそすれ、調理担当班を責めて良い話では無い。だが、クルー達の鬱積しつつある不満が食事ですら解消されないとなれば、これもなかなかに深刻な問題となり得るのだから、厄介としか言いようが無かった。
戦場で命のやり取りをする軍隊だからこそ、生に直結する問題というのは噴出し易い。だからこそ食える時にはちゃんと胃に収めておけ。でなければ正常な判断力は――。続きはなんだっただろうか。ともかく、前に隊長殿からそんな事を教えてもらった気がする。そう、普段は気にも留めない上官からの講義内容は、今や生々しい実感を伴って彼の周囲に展開されている。笑うにも笑えない頬を若干引き攣らせつつ、ルーカスはまた一口食事を胃に収めた。リーグも同様の訓示を受けたのかは定かでないが、こんな状況だからこそ食事というものに気を回していたに違いなかった。
「まあ、これでも点滴打たれて食事抜きよりかはマシってもんかな」
「ナオト少尉の事か? そういえば今日、とりあえず現場に復帰出来る予定だと聞いたな。朝でないなら、昼頃かもしれない」
「へえぇ、本当ですか」
「バルト大尉がそう言っていたんだから、艦長も含めてそういう合意があったんだろう。これでも短く済ませた方だ。敵追撃部隊に対処できる人員は確保しておかなきゃいけないっていうんで、出来る限り回復に掛ける時間は切り詰めたらしい。それで患者がガタガタの状態になっちゃ意味が無いと言って、軍医の先生は粘ったようだが」
「それこそナオトと四号機が抜けて、艦が沈んじゃ意味ないだろうになぁ」
「たとえそうだと分かっていても、病人、怪我人と分かれば下界には帰したくないのが医者なんだよ。でなければ、プロとしてはやっていけない。俺たちがパイロットとしての務めを果たせるよう願うのと同じで、先生も医者としての務めを果たしたいのだろうさ」
「そういうもんですかねえ、医者っていうのは。ま、会った時にナオトが回復してればそれで良いんですけどね」
「それはそうだが、ルーカス。そろそろ急いだ方が良いぞ」
ふと、脱ぎ置いていた軍帽をきっちりと被り直し、視線を伏せたままにリーグは告げる。
「なにが?」
思わず間抜けな声を出してしまったと自覚しつつ、ルーカスは周囲に目を向けてみた。所々、既に食事を終えたと見える者達が少し慌てた様子で、席を立っていく。次いで食堂に掛けられた大時計が示す時刻を確認すると、彼にもリーグの発した言葉の意味が理解出来た。準戦闘配備中でタイムスケジュールが平常時のそれと異なるとはいえ、艦内のあらゆる任務が始まる時刻というものは概ね統一されている。それはホエールの中にあって、一日の始まりとでも言うべき時刻で、ルーカスたち試験先行運用部隊のパイロットの面々であってもそれは変わらない。ちょうど、戦闘待機命令に従ってパイロットは所定の待機所に居なければならないと、そう定められていた時刻がまさに近付いていた。慌てて残りの食事をかき込みだすルーカスに、とっくに空のプレートを持って立ち上がるリーグ。多くのクルーが持ち場へと移動する波に紛れ、二人が食堂を出たのはそれからすぐの事だった。




