第60話「左手が最後に掴むモノ―1」
旧研究所内の廊下は、有機的なともすれば生々しい異臭で満たされていた。
無機質さを感じさせる施設内において、その生々しさは汚点とも言うべき存在感を放っている。生物としての柔らかさを帯びた妙に鉄臭い香り。それが人に忌避感を感じさせるのは、生物としての本能であろう。そうでなければ、無機的な潔癖さが汚されるのを反射的に避けているのかもしれない。つまり調和を乱す存在を嫌っているのだと、言いかえる事も出来る。
その点においてテトルは異物そのものであった。廊下や壁の徹底的な白さにあって、テトルが身に纏う軍服の黒さは汚点でしかない。その軍服さえ赤黒い何かに塗れているとなれば、猶更の感である。
「……くそっ! D班も全滅だと!?」
膝を折ったテトルの前には、床に倒れ伏す副官の身体が在った。つい数十分前まで動いていたはずの身体は、もはや只の肉塊へとその存在を堕落させている。首元へとあてた右腕の先で、その冷たさはリアルであった。既に脈打つ事を止めた副官の心臓は、いささかの鼓動をもテトルに感じさせることは無かったのである。
そして、同様の死体は一つや二つでは無かった。たった今テトルが確認したものだけでも4つ。既に確認してきたものも含めれば、その数は20近くに上っていたのだ。いずれもが施設警戒の任を与えた部下たちであり、よく訓練された実働部隊の隊員たちである。タレー特設基地制圧時の鮮やかな手口によって、彼らが持つ実力は証明されているというものだ。
しかし彼らは殺されていた。目の前の副官たちと同様に、綺麗な手口によってである。
「それぞれに一発ずつ頭を撃ち抜かれている。抵抗も無しに殺されたというのか? これは異常だ……」
事の発端はつい二十分ほど前の出来事に在った。それはまさに、テトルが情報保管庫にて研究成果を探っていた時刻と重なる。構想駆動炉について更なる探りを入れようとした時、彼を地鳴りのような振動が襲ったのだ。旧研究所内部でも比較的深い区画に位置する情報保管庫である。そこですら振動を感じるとなれば、原因は自ずと限られていた。
例えば、大型兵器による施設の攻撃である。
テトルが真っ先にその可能性を考えたのは、軍人としての訓練の賜物であろう。彼は状況を確認する為、あるいは部下へ指示を与える為にすぐさま情報保管庫の外へと飛び出した。しかしその直後、彼は「何かがおかしい」と直感したのである。
数分経過した後も、彼の端末には部下からの報告が一つも届かなかったのだ。本来なら振動の原因が何であれ上官に対する状況報告はあって然るべきである。部下達がまだ事態に気付いていない、もしくは状況を把握し切れていないという可能性もこの時点では捨てきれなかった。しかし施設内に分散配置された警戒班の全てがそうである、というのは余りに不自然な解釈だ。
「警戒班の全てが、何らかの理由で報告出来ない状況にある」という方が余程有り得る事態である。少なくともテトルが考えていたのはその可能性であった。それならば確認する必要があると、部下たちが配置されていた地点へと向かったのだが
そこに広がっていた光景は、どの地点もほぼ同じものであった。さしたる抵抗の跡も無く殺害された部下たちが各地点に転がっていただけである。
そして目の前に横たわるD班こそ、テトルが最後に確認するべき班であった。もはや、彼の他に生き残っている者は居ない……襲撃者を除いては。
果たして相手が正体を隠す意図があるのかどうか、それは分からない。しかしテトルは確信と言って良いレベルで、その正体が何であるかを予期していた。
「フェンリルか。俺にも来るべきものが来たか?」
テトルはカチリ、と手にした通信機のスライドスイッチを切り替える。
彼が限定交信に代わって起動させたのは通常交信モードであった。これは通信容量の大きさ・安定性に優れ、非戦闘時の交信に使用される事が多いモードである。反面、端末自体が積極的に電磁波を放出してしまう性質から、戦闘時の使用は戦闘規則で厳しく禁止されている。それは敵に電磁波の発信元を辿られ、居場所が探知されるリスクを鑑みての措置だ。特に隠密行動が求められる局面において、居場所が割れることは即ち死に繋がる。
テトルはそれを十も承知の上で通常交信モードを選択した。その行為は自らを餌としているも同然である。そして餌が撒かれるからには相応の理由があった。テトルにとってそれが自らの命となれば尚更だ。
「すまない……使わせてもらう」
ゆっくりと立ち上がったテトルの手には、部下達が握っていた武器〈アサルトカービン〉が握られていた。すっかり久しくなっていた銃の感触に、テトルは自嘲の色を隠せない。
……少佐になってまで自ら突撃銃を握る羽目になるとは。
自分の人生とは何だったのだろうか、とこんな時になって思う。左腕を失い、パイロットという未来を失い、挙句こんなところで最後に失うものは何だろうかと。
左手に収めた通信機からはテトルの名を呼ぶ声が鮮明に聞こえていた。それは通信の途絶えたテトルに対し、バルトが必死に呼び掛けを行っているものだ。テトルはフラグマの出現など知らないし、バルトが彼を助ける為に旧研究所に向かおうとしていることも知らない。しかし仮に知っていたとしても、彼が繋ぐ通信先の選択に変わりは無かったであろう。
特殊情報局責任者という立場を持つテトルである。彼の立場を考えれば、この異常事態を報告すべき相手が他に居ることは明白だった。彼もそれを理解していなかった訳では無い。理解していればこそ心中では自分の行動を非難もするし、自分が軍人としては失格だとさえ考えているのだ。
しかし自省はしない。反省という行為は失敗を次に生かす為に存在するのであって、彼はそれが既に意味を持たない行為だと分かっていた。
「バルトか」
『テトル……!? お前は今どうなっている! どうして今まで通信に』
「聞け! 俺はこれからフェンリルをあぶり出す。その上で引き出せる情報は引き出すつもりだ……お前はそれを聞き届けろ」
『お前はどうなる! 死ぬつもりならよせ!』
「いや」とテトルは否定した。俺は死にたいからこんなことをしているのでは無いと。
「俺は……ただ引き返せないのさ。何故だろうな。もう何のためにここまで真実を求めるのかは、自分でもわからん」
それは彼にとっての真実であった。「事故の真相を知りたい」と考えていたことは間違いでは無い。初めはそうであったのだ、と今更ながらにテトルは思う。しかし真相を求めるという大義の下で、求めるものはどうしようもなく変質していった。彼はいつの間にか真実へ迫ること自体に取り込まれていたのである。
そうと気付いた時には既に遅かった。今まで費やしてきた全てが、彼自身に引き返すという選択を許さないのだ。
もはや目的を果たした先の事など、テトルには見えない。それは呪縛とも言えるものだ。
「ただ、一応伝えておく。俺が戻らなければ、特殊情報局の管理サーバーを探し当てて、最も緩いネットワーク領域から入り込め。それさえ出来ればあとはルーカス少尉にでも任せれば問題無いはずだ。階層はTE5934、SS2998、後は連鎖解析でも何でも使って突破しろ……そこに俺が集めた情報の全てがある」
逡巡の後、更に言葉を続ける。
「お前が求めるフェンリルの情報も、だ」
バルトが息をのむ様子が伝わって来た。それはそうだろうとテトルは思う。バルトがフェンリルに対して抱く復讐心を利用しようとしているのだから、それはあって然るべき予感だった。
……俺はバルトさえ利用しようとしている。こんなことに価値はあるのか?
友さえ利用しようとする行為はさすがに応えるものがあった。しかし引き返す事の出来ないところまで来てしまった、という事実が彼に言葉を紡がせる。
「後は任せた」
それは友を縛る言葉になるだろうという予感はたしかにあった。同時にそれがバルトとの最後の会話になるだろうという予感も
鋭い銃声と共に銃弾がテトルのすぐ横を掠める。それは旧研究所内最後の銃撃戦の始まりであった。
発射元を見極めるよりも先に、テトルは通路の曲がり角へととっさに身を隠す。射撃装備は両手で抱えたアサルトカービン、腰ケースに収められたハンドガンの二つ。それらは小回りの肝心な閉鎖空間での戦闘において過不足無い装備と言えた。しかしそれだけで敵をあぶり出すことは出来ない。
手りゅう弾のピンを抜き、敵が居ると思われる通路へと転がす。敵がそれを視認しているなら別の通路へと咄嗟に退避する可能性が高い。そして施設内の構造を把握しているテトルにとって、敵が次にどこへ移動するかを予測する事は容易いことだった。
手りゅう弾が床を幾度か跳ねた後、鼓膜を破らんばかりの爆音が鳴り響く。軽い牽制射の後、角を回り込んで来た爆風の残滓に逆らってテトルは通路へと飛び出した。アサルトカービンによる連射が白い壁を線状に穿っていく。しかしそこに人の影は無い。駆けていく足音だけがその存在を知らせていた。
「そうでなくちゃ困るがな!」
敵が逃げたであろう通路へ辿り着くや否や、曲がり角から銃のみを突き出して牽制射撃を行う。このような場合において手りゅう弾の制圧力は魅力だが、いかんせん持ち合わせが少ないのだ。有効な装備であるだけに使う機会は見定める必要があった。
こちらへ飛んでくる牽制射は一旦止んでいた。テトルがトリガーを引けば、それと同じだけの硬質な着弾音が通路越しに響いてくる。それは通路に何の遮蔽物も無い事を意味していた。敵が既に退避したと判断したテトルは、先程と同様に遮蔽物から離れ次の通路へと向かっていく。しかし向かった先でも姿は捉えられず、互いの銃弾による応酬が壁を抉るばかりだった。通路へと追い詰めた分だけ、テトルがそれに追い縋る分だけ、弾倉が何の戦果も無く消費されていく。
だがテトルに焦りは無い。敵が退避していったであろう通路は、悉く彼が誘導したものだったからだ。それらはある地点へと繋がっている。テトルの見立てが外れていなければ敵は既にそこへ追い込まれているはずだった。
「ここだ……!」
テトルが通路を駆け抜けた先には旧研究所内で最も広いスペース〈中枢コンピュータ制御室〉が広がっていた。そこには大小様々な統合演算機が古代神殿の柱よろしく林立している。それらは有機的な印象からは程遠く、むしろ人工物の傲岸さを感じさせるものだった。しかし、不必要とさえ言える高さの天井によって圧迫感だけは打ち消されている。だがそれ以上の詳細な観察をする前に、残響を伴う銃声が耳朶を打った。
着弾の火花が足元に咲く。やはり同じ部屋へと追い込まれていた敵からの銃撃だった。それを確認出来た事に感謝しつつ、テトルは手近な遮蔽物へと転がり込む。そして切れる息を抑えながらもテトルは叫んだ。
「貴様はフェンリルだな! 俺はテトル=エリック。貴様らが狙っているのは俺だろう!?」
あまりに無機質なスペースに張り上げた声のみが反響する。部屋が広いとはいえ同じスペースに居る以上、敵に聞こえていないはずは無かった。




