おとぎ話から外れた人魚皇子
海底に三人の人魚皇子がいた。
何せ姫ではないので、陸の上の王子様には、恋なんてしない。
人魚姫の方は、何百人もいて、隣の珊瑚の城にひしめいていたが、海底を這いずるだけで、泳ぐことなどは、出来なかった。
そもそも、三人はお互いの事を、喰いがいのある獲物のひとつぐらいにしか、考えていなかった。
人魚の皇子達は、共食いをする。
全ての人魚姫を手に入れる為には、相手の存在意義なぞ、ワカメの端っこ以下なのだ。
海底には時々、上からの落し物が、やってくるが、たいがい、使い物にはならない。
テレビや冷蔵庫や沈んだ船なんかは、新しい居住区や迷路になり、魚とも遊べるが、そもそもテレビは、映らないし、冷蔵庫なんか無くても、日の届かない海底は寒い。
冷たい海流に、身を任せながら、タップリの食事をとれば、むっちりと脂肪がまわる。
三人はお互いの旨そうな尾について、考えを巡らせた。
三人にはそれぞれ、逆鱗が1枚ずつあった。
1人は腰のあたりに。
1人はヒレの下に。最後の1人は、尾の先に。
お互い、その鱗だけには、ちょっかいを出さなかった。
狂ってしまうのだ。
見境なく、人魚を襲い、姫達を絶滅させたら、取り返しがつかない。
共食いも、逆鱗だけは、残す。
尾の先に逆鱗が、ある皇子は、工夫を凝らしていた。
難破船から拾った物で、鱗を守りながら飾るのだ。
間違っても、鱗を剥がしてはならない。
五千人いた皇子達の中から、共食いし生き残って、今まで命を紡いで来られたのは、ただ1枚の鱗のおかげだった。
珊瑚で飾られた城の中で、微動だにしないで睨み合ってる二人を、残して、尾の先は、新しい難破船を探しに、三つの温度の違う海流が流れている火山の前に来た。
海流に流されて、元の城に戻るまで、110日旅をした事もあったが、その時も帰ってみると二人の皇子は、同じ姿勢で、睨み合っていた。
一時も眼を離さず、時々の休戦以外、そこに二人は居た。
眠る魚もいるが、人魚は寝ない。
そして、喰われなければ、寿命は、長いのだ。
尾の先は、本が好きだ。
海水で、駄目になる前に、探してみる。
細い虫がグニグニとついている所は飛ばし、絵や写真を見るのだが、誰も絵や写真について、教えてはくれない。
そもそも、声が無いのだ。
声が無いから言葉も無い。
眼と眼が合ったら、喰う。
それだけが、ルールだが、逆鱗の為に、尾の先はこんな暇つぶしをしていられるのだ。
あの睨み合ってる二人の決着がつけば、どちらかが尾の先に喰いついて来るはずだった。
だいたい千年ごとに、王が生まれて姫たちと結婚するが、今は約束の時を越えつつあった。
暗い海底から、日の光のさす場所まで、本を抱えて泳いで上がると、頁を開いた。
人の姿は、変だ。
四本のつっかえ棒を曲げたり広げたりして、写っている。
腕があるから、腰から下にも腕をつけたのだろうか?
下の腕の指は短く醜い。
パッとしないのに、やたらと出している。
色とりどりの海藻や珊瑚で飾り立てる人魚姫は、海にも居たが、肉ずきの悪い4本の腕を振り回す生き物は何処にも居ない。
暗い海底では、眼はほとんど物を見るのに役立たないので、わざわざ上に泳いでくるのだ。
それにしても今日は海面に近い。
ふと見上げると、クラゲが群れで泳いでいる。
海面から、顔を出す気になった。
一瞬出したが直ぐに引っ込めた。
陽の光が強すぎて、物がボンヤリと、霞む。
まるで嵐の波の中で、物を見ている様だ。
腕から本の幾つかが離れ、漂い出した。
気に入った本が流されていく。
気をとられていた時、尾の先は、網の中に、クラゲと共に捕らわれていた。
魚の眼には見えない、水の様な網が、彼の体をガッチリ押さえ込んでいる。
尾の先に巻いていた逆鱗を守る飾りが、剥がれて目の前にあった。
自由になる腕の一本でそれを辛うじて掴むと、そのまま尾の先は、激痛の中、気を失った。
その頃、甲板では、船を引きずる様な暴れまわる魚の尾に、モリを打つか、網を切るかでもめていた。
船は水族館がクラゲを捕獲する為に雇ったものだった。
船を引きずる様な魚も、欲しいし、時々水面を叩く尾に、期待感が膨らむ。
「人間だー⁉︎」
尾の先の頭が水面に出たのだ。
クラゲを無茶苦茶に叩き潰した尾の先から、逆鱗が、剥がれて落ちていった。
静かになった網の中で、金の髪と白い上半身が浮かんでいる。
暴れまわった尾は、網の中に沈んでいた。
嫌な臭いが辺りに漂い出し、網の中が濁り始めた。
赤黒い腐敗臭を漂わせるそれは、ヌメヌメと船の周りに取り付き出していた。
網を引き上げることは断念し、ボートを出して、尾の先を拾い上げ、網を切ると、船は水族館のある港に向かった。
網に絡まったあの嫌な臭いの塊は、網ごと海底に沈んでいった。
その臭いが、二人の皇子に届いた時、二人は決着をつける為、寄りかかっていた珊瑚の岩場から、お互いに向かって、突進していった。
尾の先は、死んだのだ。
尾の先の身体が腐って知らせてくれたのだ。
決着は一瞬にして付き、腰に逆鱗のある皇子が、相手をむさぼり食った。
食い終わると、姫たちとの結婚が死ぬまで続くのだ。
そして、千年先の人魚の王国を支えるのだった。
船の上の尾の先は、臭かった。
息もしていない。
脂肪の塊が取れた足は、白く美しかったが、1番臭いがひどい。
救命手当が行われ、兎に角、身体が洗われた。
浅い息を確認すると、岸壁で待機していた救急車に、乗せた。
この救急車はのちに、スカンクとかイタチの屁とかの陰口を半年間言われる事になるのだが、今は人命優先だった。
尾の先は隔離された。
匂いが、ひどいすぎた。
臭いが外見は美しい。
鼻をつまんだ看護士や別の階の患者たちまで、尾の先の病室の前をウロウロした。
腐った脂肪と共に、エラやヒレが溶けて流れていったが、海からの漂流者に、魚臭いゴミが、ついていても、誰も気に留めなかったので、すっかり清められた後の尾の先は、眠れる皇子様だった。
浅かった息もしっかりしてきたある日、尾の先は目覚めた。
すでに1年が過ぎ、季節はまさに春爛漫。
病室の窓から、薄桃色の早咲きの桜が、海からの風に重たい花を枝いっぱいに咲かせていた。
海から離れて2年。
逆鱗を飾っていた装飾品についていた宝石が、入院費をまかなってくれていた。
身体はスッカリ人間で、尾の先には、歩く練習が待っていた。
「立花さん、行きますよ。」
仮の名前は、立花龍介。
言葉は憶えたが、尾の先の舌は、アーとかウーぐらいしか言えなかった。
だが、美しい顔でニッコリすれば、大抵の事はそれで済んだ。
車椅子から立ち上がると、龍介は、滑るように歩いた。
実際、ほんの少し、浮いていて、足は滑りながら、進むのだ。
人との暮らしに慣れたが、陽の下での活動は出来なかった。
直ぐに発疹が出き、眼も開けてはいられない。
尾の先は、生活の場を夜の世界に求めるしかなかったが、建物の中から、外を眺めるのは自由に出来た。
やがて、北の港町に1人のバレエダンサーが生まれた。
踊るのは室内か陽の落ちた後の野外ステージだけだったが、日差しに弱い、リュウノスケ・タチバナは、サングラスと、顔を覆う大きなマスクごと、世界の人達に愛され出していた。
龍介の白い肌と深い灰色の瞳は、時々、鏡の中で、海の城を探していた。
人魚皇子は人魚しか食べない。
チョコレートをつまみ、アイスラテを喉に流し込みながら、今の暮らしも悪くないと、ニヤリと笑った口元に、魚の様な歯が、並んでいた。
今は、ここまで。