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みがわり母さん

作者: 夏木結

 一段の弁当箱はよくご飯におかずの水分が浸食する。悪くはない。美穂はふりかけをかけたりしないからいい味付けになる。おかずはあっても白米に梅干しだけではちょっと物足りないのだ。

「きょうも弁当か」

「そうだけど、なんだ?」

 レジ袋を投げるようにしてテーブルに置いた林田は不機嫌に腰かける。エナジードリンクに菓子パンは見飽きた取り合わせだがまだ学食が空いていない以上、安さと腹が膨れる両方をとればその選択になるのは仕方の無いことかもしれない。

「おまえさー、カノジョいるっていう厭味かまったく」

 卵焼きをきっと洗っていない手で攫われて思わずむっとする。

「だ、か、ら、妹だって何度言えばわかるんだよ」

 さっと箱を持ち上げ隠す。

「これうまいし。ぜったい慣れた味じゃん」

 側面の巻いて渦巻いた切り口からは緑と黒の二色が地の黄色に映えている。紫蘇の葉と海苔の佃煮でも合わせたか、と予想をつければ当たっていた。

「何年もやってれば上手くなるさ」

「そうか? 俺んとこなんてばあさんのほうがよっぽどうまいけどな。母さんなんてもう全然むり」

 中学のときにスパゲッティ―を弁当にされてから買っている、と話していたのを思い出して、たしかにあれは麺同士がくっついてどうしようもなくなるから分からなくもないが、それでも無理というほどの代物でもない。よく我侭が言えたもんだ。

「あのな、それを年季が物を言うっていうんだろ。得意不得意の前に作ることがそれなりに好きじゃないとうまくなりはしないさ」

「んー、じゃあ無理だわ。母さん食べる派だし」

 どちらかといえば父さんが、と続ける林田に「手作りがいいなら握り飯でも持って来いよ」という。

「作ってもらったメシ食ってるやつに言われてもな」

 説得力に欠ける、と膨れられては返しようがない。ひとには向き不向きがある。

「なあ交換しないか?」

 一杯目の酒奢るから、の文句だけでは揺れない。盗られる前にと掻き込んで食べ終えれば復讐のつもりなのか、しこたま飲まされる羽目に遭った。


 寝たのは二時過ぎていたからもっと遅くまで寝ていてもよかったのだが、結局いつもと同じ七時すぎには起きている。

 飲んでばかりでろくにつまみも食べなかったせいか、ひどく腹が減った。きっと胃の中はからっぽだ。酒臭い口をうがい薬ですすいで、寝間着からポロシャツとジーンズに着替える。居間へ行けば広がる光景に目を疑った。

「なんだ、これ」

 豆腐となめこの味噌汁に、鮭の切り身の照り焼きの二品を除いても茄子のみそ炒め、ほうれん草のおひたし、きんぴら牛蒡と小鉢が三つも付いている。行事もない単なる平日の朝食にしては品数が多すぎだ。常は味噌汁とご飯にもう一品追加される程度で、おかずはこの半分もない。

「朝っぱらからいやに豪華だな」

 寝間着のうえからエプロンをつけた美穂に、おはようの代わりを言う。

「ストックを無くしたくて」

 美穂は応えると、味噌汁を温め直してお椀へ、茶碗には白米と、おれの分をよそってから腰をおろす。自分のものは湯気が立ってすでに待っているのに表情ひとつ変えずやるから、せめてお茶は二人分淹れた。

「いただきます」

 言ってすぐ箸をのばすおれと対照的に、美穂は律儀に手をあわせ食べ始める。鮭を一口つまむと味が気に入らないのか顔をしかめた。食べてみると、たしかに塩辛い。

 そういえば、ちょうど良い頃合いの照り焼きが二日前の晩の主菜だった。小鉢の副菜も考えてみれば五日間の間に食卓へのぼったもので一掃するといったところか。前に付き合ったのは先週だから、足りなくなる頃だ。

「おい、今日まとめて買いにでも行くか?」

「あ、うん。そろそろお米も切れそうだし、調味料も買い足したいから。青魚安くなるから欲しいんだよね。チラシ入ってたの」

 じっと、美穂は上目遣いで訴えてくる。

「わかったよ、車だせばいいんだろ?」

「やった!」

 かるくこぶしを握りガッツポーズして美穂は次々欲しいものを並べる。片手を越えたところで「待った」をかけた。

「あのな、なんのためにメモがあるんだ」

「えー、がんばって覚えてよ」

 言いながら冷蔵庫にマグネットで貼り付けてある用紙を示すといそいそと持ってきて、紙の表面を簡単に埋め、「じゃ、頼んだ!」と手渡せば満足そうに味噌汁をすする。

「ちょっと待て、ひとりで行けっていうのか」

「だってあたし忙しいもん。明日の料理もしなくちゃいけないし」

「明日?」

 特別なことでもあったかと頭の中を探るがすぐ出てこない。

 明日は九月十四日。敬老の日はあさってだ。祖母宛てには好きな栗の和菓子の詰め合わせを配送込みで頼んでおいたからやることもない。電話はあさってすればいいし。

「覚えてないの?」

 あきれたように美穂が言う。

「父さんの誕生日だって」

「……そう、だったか」

 忘れていた事実より、美穂の口からその言葉が出たことに驚いた。

 だって親父とはもう一ヶ月も、妹は必要以上の会話を求めなかったから。


     *


 話し出すとしたら生まれた頃まで遡るのは、親父のせいだろう。

 おれが初めての誕生日をむかえて二年後の秋に生まれた妹は、美しい稲の穂、と書いて「美穂」と名づけたのは母なのだと、酒を飲めるようになってから何度聞かされたかわからない。素面で扱うには惑う親父に対抗して飲むと繰り返して、しかも肝心の美穂には名の由来なんて言わないから代わりに覚えてやるしかない。もっとも、いつ教えられるかは測れないのだが。

 母さんは有名な米の産地の生まれで、これまで目にしたなかで一番きれいだと思う光景を娘の名前にしたくて名づけたという。可愛らしく美人で、まっすぐな女の子になってほしいと願いを込め、その通りに育てようとしたのだと。

 誤算だったのは、九つになったおれが親父の好きなサッカーを選んではじめたせいかもしれない。美穂はクラブチームの試合についてきたし、放課後リフティングの練習をすれば真似してやってはいっしょになって汚れたものだ。

 母さんは止めさせたがって、あえてフリルのスカートを着せてみればクラスの女の子ばかり遊びに呼んだりもした。しかし、美穂は気に入らないものを易々とあきらめ受け入れるようなやつではない。

 与えられたばかりのスカートに自分ではさみを入れておきながら木登りをして破いたことにしたし、長い髪にわざと噛んだガムを貼り付け、ショートヘアにせざるをえない状況をつくりだしたこともある。

 毎度、故意ではないと証明する裏工作の役回りにおれは付き合わされた。

 文句を言ったことはない。

 おれの試合する姿をみて、

「お兄ちゃんみたいになりたい」

 と追いかけてくる妹は正直にかわいかった。子ども心にあからさまに嫌がっているとわかるのに無理に強要する母さんのほうを、見苦しく思ってきた。


 協力者を得た妹は、中学にあがるとより大胆なことをやるようになる。

 制服にスラックスを選択できると知れば、

「お願いがあるの」

 と近所の洋品店につきあわせ、おれの貸してやったバイト代を使い内緒でスカート以外に一着作った。手を貸してはやったが、さすがにクラスで浮くだろうともちろん心配もした。

 無用だったけど。

 それなりに目鼻の整った顔立ちに中学一年の女としては高い身長、運動で培われた細身で女性らしい曲線を欠いた体型(中坊で付き過ぎていたらおかしいけれど)は異性寄りの格好がよく合っていた。二年と経つころに背丈は百七十を越えて、ほんとうに男と間違われて手紙をもらうこともめずらしくなかった。

「母さん抜きにすれば可愛いものは嫌いじゃないの」

 そう美穂が邪険にしないものだから尚更だ。

 少しはわけてくれ、と言いたくなるのを兄としての威厳でなんとか抑えたのは恥ずかしい記憶の箱のなかに仕舞い込んである。もちろん、明かすつもりはない。


 そうだ、慕ってくる後輩の一人を家につれてきたことがある。

 たしか中学三年のころだ。季節は忘れたが暖かいころだったんだろう。名前は忘れたが膝丈の花柄のワンピースを着て中学生のくせに化粧もしていたから覚えている。手土産に自分で焼いたというクッキーを携えてきたっけか。まさに女の子然とした雰囲気に圧倒されながら眺めたものだ。それだけにしておけば良かった。

「なあ、母さん」

「なに俊、あんたは部屋行ってなさい」

「あのさ」

「あとで聞くから。せっかく、美穂に女の子の友達が来ているのよ」

 いやに機嫌のいい母さんを無視する。

「もしこういう子とさ、美穂を交換できるって言われたらどうする?」

 母さんは寸の間真顔になると、

「なにばかなこと言っているの」

 と返した。唇の両端はあがり、笑う顔をつくっていても違う動揺があった。



 今でも悔やむ。

 母さんを困らせたことに? 違う。

 妹を友達と天秤にかけたことに? それも違う。

 馬鹿げている問いかけで、本音の部分で母にとっての妹の価値を測ろうとしたことを、これまでずっと母親が妹ばかり気にかける真意に、単に望む子どもがほしいというだけなら浮かばれない。美穂だけじゃない。自分も。いや、自分こそ。



 結局、母さんの思うことはわからないままだった。

 美穂が高校に、おれが大学へ入学する春、母さんはあっけなく事故で死んだ。


 経験したくもない事実がふってきたとき、どうするのが普通なのだろう。正解なんて有りはしないけれど、我が家の三分の二が出した回答が違っているくらいわかる。

 いい大人とハタチ目前の男二人が雑事を丸投げするように、よく面倒見てくれたとはいえ伯母にまかせ家を空けるばかりになったのは褒められたことじゃない。

 たしかに母さんとの記憶の色濃い「家」に寄りつかないのを大目にみてほしい、と口に決してだせない理由づけをしたかった。

 それでも、一番近い距離感でやりあっていた美穂が留守を預かっているのだという現実を、よく考えてやるべきだった。自分以外のことを汲める余裕なんて無かったとしても。


 大人なのは美穂のほうだ。

 四十九日を終えたときの夜、しばらくぶりに同じ時間にそろって食卓を囲み、会食で残った料理と、伯母の用意してくれたごはんを食べる。

なかに、覚えのある味があった。

「うちの味付けだ」

 親父は言った。「母さんの味」とは表現しなかった。

 誰が作った、と予想される問いかけが発せられるまえに美穂が口を開き、

「あたし調理部に入るから」

 と宣言する。

 伺いをたてる、のではなく決定事項を報告するといった体で、入部届の用紙を出してその場でサインを求めた。強い言葉に圧倒されて親父は珍しく何も言わずその通りにする。どうするのか、とみていれば美穂の制服は相変わらずズボンのままのくせに、母さんの反感を得てまでも六年続けたクラブチームは入部届を出すや否やあっさり辞めてしまった。

「ほんとうに、サッカーはやらなくていいのか?」

 キッチンへ立つ妹に向かって何度も問いかけた。

「相棒が変わったの」

 美穂はわざとらしく笑ってその度にフライパンを掲げてみせた。

 目玉焼き、炒り卵、それからスクランブルエッグに、厚焼き卵、オムレツと徐々にできることは増えていく。満足のいくまで同じものばかり作るために、朝食は来る日も卵ばかりで食傷ぎみになりはした。

 だが、文句は少しも思わなかった。自分のセンスはわかっている。できるのは料理にあわせて八枚切りの食パン買ってきて、あとは片付けを済ませることだけだ。その微々たる応援が効いたのか、美穂は夕食も伯母といっしょに作るようになって、まえは朝に食べていた味噌汁を夜に並べるようになった。

 夜遅く帰っても、親父は味噌汁だけは必ず食べた。


 新盆が過ぎる。

 卵づくしの次は炒め物づくしへと変化して丸一ヶ月が経つ休日に、美穂はクッキーを焼いた。どこにしまわれていたのか、母さん愛用だったティーカップとポットを取り出してきてパックの紅茶を淹れる。日東紅茶、と書かれた箱を見るに意気込みは強い。普段愛飲しているのはリプトンだ。

「伯母さんにずっとさ、手伝ってもらうのはおかしいと思うんだけど」

 やっぱり。親父を呼んでこさせるから何もなくはないとは踏んでいた。

 しかし妹よ、紅茶が煮出すまで待てないか。せめてあと二分。

「ねえ、どうなの?」

 美穂はまっすぐに親父をみて、それからおれを見つめる。途端にわかりやすく親父は不機嫌になった。

 自分のほうが正しく、父が間違っていると断定づけする調子のせいもあったろうが、わかりきった問題をまだ十五の娘に指摘されるなんて気にくわない、という親父の考えは容易に読みとれた。おれにできても、妹にはそこまで汲み取るだけの経験値はない。母さんとは大小問わず喧嘩寄りであれ会話を重ねているだろうが、親父との話に至っては、進路選択が知る限りで真面目な話をした初めてのときだろう。

 だから、怒らせずに考えをそれとなく受け入れてもらう術を、まだ美穂は身につけられていない。

 親父は実にめんどうだ。自分自身の文句で説明できなくて納得してくれることはまず、ない。顔を赤くして眉尻をあげ、強い口調を用いるときがあったとしても、ぜんぶが全部怒っているわけではない。戸惑いも、焦りも、いっしょくたになっている。

 おれは、そんな親父を嫌いではない。

 懸命に取り組めば一応のところ好き嫌いは抜きにして、文句は重ねたとしても応援してくれる。母さんに美穂の格好を頷かせたのも、結局のところ親父だった(もっとも母さんほどではないにしろ、本音としては娘には娘らしい装いを望んではいたようだが)。

「料理なんて、できないぞ」

 わざなのかと指摘したくなるほど親父は仏頂面で答える、おれに目をむける。

「ちょっと待ってくれ。たいしてやれないの知ってんだろ」

 慌てて首をふる。続けて美穂に視線を向けようとし、やめて注いだばかりのお茶を飲んだ。美穂がじれる。

「だからあたしがやったらどうかって言ってるの。朝しばらく作ってみたけど毎食じゃなければやれないことじゃないし」

 そこまで一息に言った。

「当然、今までにくらべたらまずいばっかりだと思うけどさ」

 卵づくしと、このごろの炒め物づくしを思う。

「どうなの、父さん?」

 眼をそらさず親父の顔を見た。

「いないとなにもやれないって思われるのはいやだし、あきれられるのも勘弁だよ」

 誰に、とは訊かなくてもすでに居ないひとと分かった。きっとおれだけじゃない。親父は黙々と菓子を食べてしっかり紅茶も飲み干して、

「まずまずうまい」

と言い置いて部屋に行ってしまった。

「どっちなの、あれ。いいの? それともわるいの?」

「さあな」

 確証のもてない回答はあえて出さずにおいた。


 翌朝、親父がでかけたあとの食卓に役割分担表と書かれた結果が置かれている。

「部屋の掃除は各自で。

共同スペースは父と俊の交代制。

ごみ出しと洗濯は父、食材の買い出しは俊、料理は美穂」

 と役がふられていた。注意書きに「俊は美穂を手伝うこと、美穂はむりをしないこと」の二文で締められている。思った通りに反対はしていない。

「直接言えばいいのに」

 むくれる美穂をみて、おれは笑う。

「父さんはむずかしいんだ」

 兄として批評してみせた。


 美穂は伯母と調理部の顧問を講師に、母さんの使っていた本に献立帳やオレンジページを教科書に作り始めた。サッカーをやっていた時期と変わらず、ひとつのことに打ち込む力には長けていたから、手先が器用ではなかったものの、一年経つころには朝夕作ることに慣れた。

 二年目は魚を手ずから卸すようになり、三年目には唐揚げに天ぷら、かき揚げの油はねに苦戦しつつも挑戦を重ねた。四年目になるともともと組み立てておいた献立を変更しなくてはならなくなっても慌てなくなり、五年目――シンクの高さを背丈に合わせて変え(母は百五十にも満たない小柄だったのだ)、さらに手際が良くなった。時間ができたから、と三人分の弁当まで拵えるようにもなった。一人作るも三人作るも同じだという。

 調理器具も食器も美穂の使い勝手の良いように配置されたキッチンには、もはや母さんの痕跡はない。当然のことだ。美穂が自分で作り出してから五年経つというなら、同じだけ母さんの居ない年月が過ぎている。来年になればもう、七回忌の年になる。

 お盆には三人で墓参りへでかけた。

美穂はスカートを履いて、日傘をさしていた。

 薄く化粧をして頬紅をいれた顔をおれは知らなかった。制服を着ていたときは男のように思えたからだ。大学に入ってもなお同性から誘いをかけられた話をする頻度の高かったことにもある。

妹はいつ違和感のない女になったのだろう? 覚えはない。

 親父も同感のようで、普段出かけるときはたとえ道がわからなくても先陣を切るくせに、なぜかしんがりとなって後ろからついて来ている。

 まあいいや、と放っておいて寺を出てからは駅まで戻ると、お参りしたあとに行くのが習慣となっている釜めし屋に聞きもせずに入った。ハズレではなかった。親父はビールを頼んで、釜飯を待つあいだにつまみとなるものをいくらか注文して、特に話すでもなく向かいに座る娘をじっと眺めている。ビールのジョッキをひとつ空けると日本酒を追加でとって、なめるように飲みながら、ふとつぶやく。

「母さんの望むように、なったなあ」

 聞いた美穂の顔が瞬時に色を変えたのが、わかった。

「なに言っているんだよ」

 とフォローしにかかったとしても裏目に確率のほうが高いから何も言えなくなる。見る間に、美穂の利き手が固く握られ、小刻みに震えている。

「お茶でも飲むか」

 グラスを向ければおれの二杯目の来たばかりのジョッキを奪い取り、一息に半分以上飲み干し、青くなって、

「ちょっとお手洗い行ってくる」

 と出ていったきり十分が経過した。合間にたのんだ天ぷらがきて美穂を待つと冷めた。親父の天つゆだけが大根おろしで濁っている。

「ただいま」

 まだ顔色のわるい美穂に、今度こそお茶を飲むようにうながす。外でも内でも関係なく飲みに誘われらまだ未成年だし、と固辞して飲まないくせに調子にのるからだ。たちの悪いことに下手人たる親父殿は自らのしでかしたことにはまるで気がついていない。

 毎回の食事に影響すると知っていたらもっと、いや、口をまともに聞かれないのとつらいのはどちらだろう。

 食卓は変わらずに三人分、毎食欠かさず作ってくれた。が、夕飯どきにのぼる主菜は魚に限られた。昼の弁当に肉のおかずはあったものの、それも豚肉か鶏肉だ。父の好物は牛肉で、わかった上でやっているのだ。肉そぼろにも豚ひき肉を使う徹底ぶりで。

「最近、魚ばかりだなあ」

 うるさく言わない親父もついにため息をついた。

「お肉のほうが魚より値段するんだもん」

 美穂は平坦な調子で箸を進める。

「アメリカ産のなら安かったけど、好きじゃないでしょ」

「脂の入り方によっては、焼くと固くなるからな」

 米粒を呑みこんで言う。

「なら仕方ないだろ」

「ああ……しばらくは、我慢するか」

 一拍おいて、我慢する、とぼやいた上で子どもの前でうなだれる姿を見せるのはそう無い。相当こたえている、という表れにある。

 寸の間、美穂がにやりと笑んだのを見逃さなかった。

 別に、肉の値上がりはない。このところ魚ばかりなのは、選んで買ってきてね、と頼まれていたからだ。正直にいえばおれも肉が喰いたいが、食事に関して指摘できるだけの度胸は元よりつくるつもりがない。その気にさえなれば肉成分なんて牛丼屋で簡単に接種できる。問題は恨みの種が根をはって、ずいぶんと成長していることだ。

 盆以来せっかく発見できた美穂の女気はなくなり、服の合わせは専ら男物に戻っている。やはり、怒っている。わざわざエルメやラデュレのマカロンを買ってきては釣れないかと試みたが、

「父さんがわかるまでやめない」

と折れる様子の無さには大枚をたいた甲斐がない。妹の日、なんて無いからねぎらいも大事だし別にいいのだけど。

 しかし、禍根を残しているはずの妹が、宗旨替えしたように父の誕生日を祝うと言い出したら驚く。許したのか。いや、許せたのか。


     *


「そろそろ行ってきてよ」

 まだ九時半だ。

「早すぎだろ。あそこの店、開店十時半じゃなかったか?」

 流しの掃除を終えたタイミングで、美穂は車のキーを投げる。

「最近は八時半から開くようになったでしょう? 開店時間ちょうどに行っても品出し終わってないから、これくらいならちょうどいいと思う。お昼前になると混むし。早く料理始めたいの」

「ったく、わかったよ」

 濡れた手で掴まえて、準備にと在庫を一応確かめる。前に頼まれていないキムチを食いたくなって気まぐれで買ったら、だぶついてひどく怒られたのだ。それからは忘れないようにしている。

「お?」

 思わず声がでた。

 冷蔵庫に牛肉、それも国産のばら肉がある。

「おい美穂」

「なに?」

「いや、なんでもない」

 外は澄んだ風の吹くいい快晴だ。

 車を走らせ、目的のスーパーに着くと出入り口の傍の駐車スペースへ停めた。遠いカートを返すのが面倒になる。今日はメモを見るに、なんとか一度で済むだろう。

 おれにも、美穂には敵わない程度でも慣れはあって、鮮度の見分け方をはじめにどの値を安いとするかの基準くらい持てるようになっている。食材から多少の調理法を考えられる今ではお運びだけが役目ではないのだ。

 たとえば、今日なら魚売り場で氷水に生サンマがさして売ってあるのをみると、一尾九十八円の値札がついていたのには喜んで五尾購入を決めた。今晩ならおろしてもらって刺身にしてもいい。塩焼きもいいし、蒲焼きにしてもうまい、といった想像力がはたらくくらいに進歩はした。

 だが、お祝いに使う食材として頼まれた、生クルミ、ラムレーズンにラム酒、ビールを二缶という注文にはちっともできあがりがみえない。いや、まずスーパーのどこに置いてあるものかもわからない。イレギュラーな献立だろうと思ったから、ついて来てもらいたかったのに、あいつは。

 唯一わかる缶ビールをかごに入れて売り場を一周する。

 おつまみコーナーにクルミの百グラムパックを発見したが、たくさんクルミを料理に使うか疑問だ。高カロリーかつ高脂質の食材は、腹回りを気にする親父にとって鬼門の食材だろう。それによく見れば内容物は純粋にクルミだけではない。成分表示に塩分も利いていると書かれている。名前の通りおつまみ用だ。

 とりあえず保留にして、洋酒の棚でラム酒を探すとウイスキーと同じ立派なボトルで売られている。七百ミリでなんと千五百円もした。飲む以外の用途に使うには多いし、第一金額が張る。

 仕方ない、たしかめるか。

 電話をかけると二コールで美穂は応えた。

「問題でもあった?」

「大アリだぞ。なんだよ明日のための食材、どこにあるかさっぱりだ」

「あれ、注意書きしてなかったっけ」

 メモを裏返して確かめる。

「なにも書いてないけどな」

「え、ごめん。うっかりしてた。製菓材料のコーナーにあると思う」

「製菓材料?」

「そう。地下の売り場じゃなくて一階ね」

 美穂は言った。

「ケーキ作るの。だから量はいらないからね。あ、間違ってもクルミは大袋で買ってこないでよね。使いきれないから」

 かごに入れないで正解だった。黙ると電話の向こうでうなる声がする。

「なんか不安になってきたんだけど……どうしよ。兄さんだけで行ってもらわないほうが良かったかな」

「おい」

 受話器に向かってため息をつきたくなる。

「いまさらだろ」

「んー、それもそうか」

 美穂は応えたが、それでも不安なのかラム酒のメーカー名とおおよその値段、白うさぎが服を着たロゴマークといった特徴まで並べた。

「じゃあ、待ってる。兄さんも作るの、手伝ってよね」

 と心配する割にはあっさり電話は切れた。ただ説明された通り製菓材料の棚にどれも探しているものはあった。ラムレーズンとは正確にはラム酒入りレーズンのことであったし、ラム酒はラムダークと品名は違っていた。まったく。

 店員にも確かめてこれが間違いでないとわかってからかごに入れた。

 おれは買い忘れがないか確認して、レジに向かう前に寄り道する。最後にリストには書かれていないものをもとめにいく。洋酒売り場に戻って二千円のウイスキーを一瓶。会計は別にしてもらった。


 帰れば、美穂はすでに調理に取りかかっている。

 牛肉はサイコロ状に切られ、小麦粉がはたかれた状態で油をひいたフライパンのうえに並べられている。

「ちょうど良かった、兄さん。お肉の様子みててよ」

 美穂は自分の洗い替え用のエプロンを渡してコンロに火をつけた。

「あんまり何度もひっくり返さないでね」

 と注意すると、買ってきた食材を仕分けている。

 それなら一度火をとめて、片づけが終わってから続きをやれば失敗はないのに、と思わなくはないが、ただ肉の焼き具合をみるだけのことができないと判断されるのはしゃくだ。これでも、生きてるのはこっちが上だ。

 トングを手に肉とにらみ合って、フライパンの中央が火力の強いところと目をつけて面を返す。と、いい焼き目がついていた。螺旋を描くように、外側へむけてつぎつぎと返していく。まだ薄く赤い色の部分を押しつけると派手にジュウウと音を立てるが、熱通ると徐々におとなしくなり、できあがる。また次の面にする。きりがないように思えるが、気がつくと色づいた面ばかりが顔を向けている。

 同じものを、よく目にしていたと思った。

 母さんのいうことにへそを曲げ、わざと逆のことをしてはまた文句を吐かれてそれでも抵抗を繰り返す美穂。けれど、もう新たに要求が足されることはないのだ。

「そのくらいでもういいよ」

 背後から手が伸ばされ火が消える。寸胴鍋にすべて肉を移すと、人参に、パセリとセロリの葉に茎の部分、乾燥した植物の葉(ローリエという香辛料なのだと説明された)を入れるとおれに向き直る。

「さて、ここで買ってきてもらったあるものをいれます。なんでしょう?」

 美穂はたくらみ顔で面白がるように兄をみる。

「なんでしょう、って言われてもなあ」

 肩をすくめた。

「じゃあ兄さんに特別ヒント。深い鍋を使うってことは嵩が増えるってこと。つまりこの料理は煮込み料理になるの」

 買ってきた中で最も重量のあった、二リットル六本入りのミネラルウォーターの箱を思い浮かべる。煮込み料理で肉をつかっているのに、今まだ水分のでるような食材を使っていない。

「なら水だろ」

 少しは自信をもって応えると、首を横に振って、

「おしい」

 と一言ある。美穂は流しから正解のもの後ろ手に隠して持ってくる、と、目を閉じるように言われた。いぶかしく感じながらも従うと、プシッと炭酸の抜けるような、それもつい最近聞いたばかりの覚えのありすぎる音が鳴った。みれば、持つのは缶ビールだ。

「まさか、ビールを入れるのか?」

「そうだよ。お肉がお酒を飲むの。けっこういける口だよね」

「美穂が弱いだけだろ」

 回し蹴りをくらわされた。足をさするおれにそしらぬ顔で美穂は缶の中身を直に鍋へと注ぎ入れ、二缶を空にするとまた火をつける。

「あとは四十分くらい火にかけたら今日はおしまい。冷蔵庫で寝かしとくの。仕上げは明日の夕方でいいかな」

「そんなにかかるのか」

「だって漉さないといけないし」

 美穂はうなる。

「あとはトマトペーストとブラックチェリーのコンポートを入れて、弱火でゆっくり煮込むの」

「で、完成になると?」

「ううん。最後に小麦粉とバターをまぜあわせたブルーマニエっていうのを入れて、とろみがついたらね」

 聞いて苦笑した。

「ずいぶんとたいへんに聞こえるんだが」

「そう? 時間はかかるけど、あんまり難しくはないんだよ、これ。だって放っておけるもん。肝心なのはお肉だし。脂の入り具合がよくないとさ、やわらかくならないでぱさぱさになっちゃうんだけど、まあ国産牛だから大丈夫だと思う」

 親父の肉講義以外に同じような文句をどこかで聞いた気がして、けれど思い出せない。

「どこかで食べたか、これ?」

 覚えてないんだ、と鍋をかき回す手が止まる。

「特別なときには決まってこの料理、作ってもらったのに」

「あ、もしかして母さんの」

「そうそう」

「誕生日のときのあれか。でもこんな色じゃなかったよな?」

「さっきトマトピューレとブラックチェリー入れるって言ったでしょ。そうすると赤い色になるってわけ」

 なんていうメニューだったっけ、と問いかける。

「もう、牛肉のビール煮だよ」

 拗ねられるのは避けられなかった。食器棚からお玉を取るとそのままふてくされたようにしばらくかき回していたが、まざり切ったのか、鍋をふたで閉じた。

 手持ちぶさたなおれを横目に、美穂は冷蔵庫から銀紙に包まれた棒状のものと卵を食卓に運ぶ。手伝って、電子秤にグラニュー糖、小麦粉の袋を持っていくと美穂はボウルとヘラを出して買ったばかりの材料も並べる。

「これから兄さんにはケーキを作ってもらいます」

 美穂は一方的に宣言した。

「ちょっと待てよ、菓子なんて作ったことないぞ」

「知ってる。だから材料を測るところはあたしがやるし、手順だってちゃんと説明するから、いっしょにやってよ」

 語尾の言い回しが命令ではなく、お願いであったことにうっかり肯いてしまった。

 後悔しても遅い。男に二言はないんでしょうと満足そうに頬をゆるめた美穂は、手際よく材料をはかると必要な分量だけ器に移していく。すべて用意が整うと、

「粉をふるうのと、クルミを刻むの、どっちがいい」

 と選ばせようとする。失敗したらどうにもならない前者を避けて、消去法で包丁とまな板を受け取る。

「どのくらい細かくするんだ?」

「食感が残るくらいでお願い。だからみじん切りにじゃなくて、大まかに切る感じでいいから」

「わかった」

 指を切りそうな、自分でもわかる危なっかしい手つきで一つのクルミをきっちり五等分にしようとする。

 美穂は三十グラム分あるクルミが一つ何グラムあるのかを考えたらしい。

 永遠に完成しないよ、と笑った。一度に二つずつクルミを切ることにやっと気づいて倍速で終えたが、全てをもとの器に戻し終えたときに美穂はやっかいな粉をふるう作業を二度も繰り返して、余分な洗い物まで済ませていた。

「けっこう疲れるんだな」

「はじまったばかりでなに弱音吐いてんの」

 兄さん、と呼びかける声は明らかにばかにしている。

「まだ五分の一も終わってないよ」

「けどなあ」

「疲れる本番はこれからだし」

 美穂はボウルに棒状のバターをあけると、泡だて器で白くなるまで混ぜるように指示した。慎重さなど必要ないから楽なんて推量は、嘘だ。黄色いそれが色を変えるまでは五分とかかり、続けて砂糖を入れては混ぜ、入れては混ぜを重ねて、ようやく終わったかと息をつけば、今度は卵を加えるという。またも同じ工程を続けて、腕がだるくなってきたところでようやく、もういいよと切り上げさせられる。

 息はかるくあがっていた。

「最近鍛え方が足りないんじゃないの」

「うっせえ。就活終えたばっかで鈍ってんだよ。手首使うのは専門じゃないし」

「持久力はあるはずでしょ?」

「だまれって」

 泡だて器からゴムベラに持ち替えさせて、三回にわけて粉を入れる都度、怒鳴るような語調で「ちょっとかき混ぜちゃだめ、切るように!」や「ほら、ボウルの壁面についてる粉、ちゃんとこそげとっておとして、生地にあわせて」と細かく注意を飛ばして閉口させられる。

 ちゃんと母の料理する姿なんて、おれはろくにみた覚えもなかった。

けど、母さんと妹はやはり似ているのだろうと思った。いや、正確には逆か。妹が母さんに似ているのだ。おれは食べた味でだけ、母さんのつくったものを記憶している。料理の名前がなにかなんて、細かくはもう忘れてしまった。けれどいつでも、

「あれが食べたい」

 といえばちっとも具体性がないのに断片から当ててみせた。

 推理力が美穂にあるといいたいのではない。親父に、兄の感想も、どれもちゃんと聴いていて、初めての味でも次に作るときには家好みの味になるようにつくってくれる、そういった真剣さが同じだと思った。

「ねえ、ちゃんと集中してよ」

「へいへい」

「あとレーズンとクルミいれるから、さっきと同じで切るように、かるくあわせて。粘りがでると膨らみにくくなるから、混ぜちゃだめ」

 言われた通りに生地を上下に返してまんべんなく具材をまわした。これでいい、と監督の許しがでたところでバトンタッチして生地を型に流し込み、無事オーブンに入れるまでを見届ける。

「あとは焼きあがったらラム酒をしっかり塗って、一日寝かせたらこれも完成」

「これもずいぶん時間かかるのな」

「まあ、できあがった日に食べても軽口でおいしいけど、味がしっかり滲みてどっしりと重たい食感になったほうが合うケーキだから」

 美穂は言った。

「兄さんはこれも覚えてないんじゃないの。母さん、よくケーキ作ったんだよ」

「ばかにするなよ、それくらい記憶してるさ。誕生日ケーキだろ?」

「そう。小さいときは決まって苺のショートケーキだったけど、途中から変わったよね」

「ああ、それぞれの食べたいケーキになったよな」


 美穂の要望は多くて、アップルパイにかぼちゃのタルトと二種類。

 おれには底のタルト部分をクッキー生地にしたチーズケーキ。

 父には洋酒をしっかり染み込ませた大人むけのパウンドケーキ。


「母さんの好きなやつって、なんだったろうな」

 美穂は首をかしげる。

「さあ、知らない。でもずっとショートケーキだった気がする」

「みんなで食べた味、か」

 クリスマスはどんなにチョコレートがいい、と言っても雪のように真っ白なケーキを作ってくれた。母さんのときも、そうだ。

「ねえ、兄さん」

 背を向けて美穂は訊く。

「母さんの好むタイプになったと思う?」

 おれは瞬いた。

「さあな。おまえが決めろよ」

 肯定も否定もしない。

「それならいいや、もう決まってるから」

 振り返る妹の顔をみて、おれは親父のために買った酒を渡そうと決めた。

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