プロローグ1 6年前、桜の樹の下で――
夜中、ふと目が覚めた僕は微かな違和感に目を細めた。
いつもと何かが違う、けれどその違いが靄に隠れて明確にならない。そんな空気。
それは随分とオカルトめいた物々しい雰囲気を醸し出していて、別にうなされていたわけでは無いのだけれど――
なぜだか酷く寒気がした。
目をこすり、視界を包んでいた軽いぼやけを拭った後、枕元の時計を確認する。
ああ――もう真夜中じゃないか。
『丑三つ時』
草木も眠るという、あの。
鬼が人を喰らう時だという、あの。
こんな時間に起きて、もし明日寝坊をしてしまったら日和になんと言われるやら……
違和感は気になったままだけれど、微かな違和感ごときを気にしていたらそれこそ一日中眠れやしないだろう。
僕はそう思い、再び目を閉じる。
――いや。窓を見てしまったから目を閉じる行為を行うことが出来なかった。
逆に僕の瞳をより大きく見開かせるほど窓の外の光景は信じ難いもので。
さっきの言葉は間違いだ、草木は丑三つ時でも眠ることはない。
ひらり、ひらり、はらり。
閉め忘れていたカーテンの隙間から、暗闇をのぞかせる窓に薄紅色の花びらが映っていた。
優雅に、ゆっくりと。けれど儚げに散るそれは、昨日まではまだ蕾だったはず。
儚く視界から消えていく薄紅はまるで――
ゆっくりと舞い落ちる、純白の雪のような――
それでいて、たらりと滴る真紅の血のような――
その花びらは美しさ自体に恐怖を起こさせてしまうこそすれ、僕が寝巻きのまま外へ飛び立たせてるのに十分すぎるほどの魅力があふれていた。
「わあ」
たまらず、声を漏らしてしまう。一面に広がる薄紅はとても幻想的で心を惹かれるものだった。昼間にさえ立ち入るのを躊躇してしまうほどおどろおどろしい雰囲気を醸し出す裏手の森は、今や桜の花という薄紅色の衣を身につけ、森全体が淡いピンクに包まれていた。
その森入ってはいけない――
誰かが言っていたその言葉を唐突に思い出す。その森には姫が住んでいて、今では鬼が巣食う森と化している、と。そんな話だ。僕はその言葉を何度も聞いていたはずで、恐ろしくもあった。
それでも、桜の誘惑に勝つことは出来なかった。なぜって、こんなにも美しく、甘く、誘っているのだから。
ゆっくり、ゆっくりと僕は森のなかへ足を進めた。素足のはずなのに、不思議と痛みはなかった。 昼の陽気な暖かさが残りつつ、夜のひんやりとした心地よい風が相まってか足取りは自然と軽い。足元がしっかり見えるというほどではないが、それでもぼんやりとは見えるくらい、森の中は明るくて僕は疑問を感じる。
どうして――どうして、こんなにも明るいのだろう。月の光だけなのに――そう思った僕は上を見上げて、驚いた。今夜はこんなにも夜空が綺麗だったのか。一つ一つが強く、はっきりとした輝きを持つ星々、雲に陰ることなく青白い光を放ち存在を知らしめている満月。そこからの光が花びらを通して僕の進む道を照らしている。
ひらり。
上を見上げたままの僕の額に花びらが零れ落ちる。それを皮切りに僕は歩調を速め、しまいには走りだした。何故、走っているのか。どこへ、向かっているのか。それすらわからぬままに。
ザ、ザ、ザ
ほんのりと花びらが敷き詰められた地面を踏む足音。全速力で走っているのにもかかわらず、未だ疲れをみせない僕の息づかい。森の中を吹き抜ける風の音。不自然にも、耳にはそれしか聞こえてこなかった。
ザ、ザ、ザ
どのくらい、時間がたったのだろう。走ったのだろう。狂ったように走り続けていた僕は、ふと開けた場所に出た。目の先には、大きな大きな一本の桜の木。森の木々とは比べ物にならないほど咲き誇っているその木は、堂々としているようでいて、どこか儚くて。ここは異世界じゃないのか、そう思ってしまうほどのこの幽玄を醸し出す空気。桜の森も、十分異質なところだった。でもそれは今までの雰囲気と違う森に僕が戸惑っていただけのこと。けれど、ここは――
ひらり、ひらり、ひらり
そこに、君はいた。誰だろう、そんな当たり前の疑問はすぐに薄紅へ溶けて。酷く悲しげな顔で1人、桜を見ていた。儚げに散る零れ桜を眺める、その憂いの横顔は奥底の感情が掻き立てられるほど美しくて脆そうで――
これを、なんと言葉にしたらよいのかわからない。けれど、薄明りに照らされた桜と君に魅了されていたことは確かで、だからこそ何も言うことが出来ずにただ茫然と見ていることしかできなかった。
風が吹く、桜が散る、君の長い髪が揺れる。風が吹くだけで起きるその一連の動作だけでも心を奪われてしまって。同時に、疑問もぐるぐると頭の中を回る。
なぜ君はそんな顔で桜を見ているんだ?
なぜそんなに悲しそうなのか、消え入りそうなのか。
なぜ僕はここに来た? そもそもここは、どこなんだ?
浮かぶ問いかけはすぐに、先のごとく薄紅に溶けて消えた。
一歩、君の下へ踏み出すと、突然強烈な頭痛と眩暈が襲う。頭の中に、ガンガンと鐘を鳴らしているかのような音が響く。視界が、君が、渦をかくようにぼやけ始めてうまく見えない。
「な、なん……だ」
倒れてはいけないと思い、わずかな抵抗を試みてもそれは結局意味を持たず徒労に終わる。頭痛はさらに酷くなり――視界が、ブラックアウトした。
ひらり
ひらり
ひらり
少々冷たい風が僕の体を通り抜け、僕は家の前で目を覚ました。何が起こったのか、なんでここに戻ってきているのか、鈍い痛みが残る頭部で考えてみてもまるでわからない。あれが夢だった。そうやって簡単に片づけることも出来ただろう。でも君を、あの世界を忘れることは出来そうにもない。夢という形でその感情を残したくなかった。
だって――
桜は未だ満開だから――