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ドックハーツ

 ワンが見る世界は緑色の視細胞が少ない為赤茶けた世界である。鮮やかな緑でもワンには黄色に見える。


 その代わり、嗅覚の世界は彼らの物。匂い分子が空中に分布する様子が立体的なジグソウパズルの様にワンには見えるのである。


 好きな匂いはピンク色で、嫌いな匂いは青色で、危険な匂いは赤色で、それらは脳で処理され立体的な地図ができる。


 また、匂いのクラスター(分子同士が緩やかに結合した塊り)の大きさによって、その匂いが何時間、何日前に出来た物かも推理する事が出来るし、匂い成分に混入しているバクテリアの種類によってその匂いの持ち主が何者なのかも分るのである。


 ワンはエアリーに言いつけ通り、地面にべたっと寝転がって、目を閉じたまま匂いだけでこの地下室の中を見張っていた。


 エアリーから発する匂いがこの部屋の中では最も変化に富んだもので、自然と彼はその匂いに引き込まれてしまう。


 エアリーの匂いは、キラキラしたピンク色でワンに安心感を与えるが、コンテナに縛り付けられている今は、青や黄色の匂いが縞模様のように混じり彼女の不安や恐れをワンに教えてくれる。


 ワンは匂いの変化で主人の覚醒に気が付き、前足に重ねて伏せていた頭を持ち上げた。


 そこには、コンテナからよろよろと出てくるエアリーの姿があった。彼はサッと駆け寄りエアリーの全身をその嗅覚でくまなくチェックする。


「ちょ、ワン、変なとこの匂い嗅がないでよ」

 エアリーはブハブハとつま先からわきの下まで匂いをかぐワンに文句を言った。


「マスター、大事な物は手に入ったのか?」

 ワンは心配そうに聞いた。


「ええ、まあ一応ね」

 彼女は彼の頭を撫でていった。

 だが、ワンには彼女があまり幸福でないのがその匂いによってお見通しである。


「では、なんでそんなに落ち込んで悩んでいるのだ?」

 ワンの言葉にエアリーはハッとして手を止めた。


「なんで分るの?」

「マスターの匂いには、その二つが色濃く嗅ぎ分けられるからだ」

「へー、あんた凄いわね」

 エアリーはそう言ってワンの頭を更に強くクシャクシャと撫で回した。


 エアリーはコンテナの中で自分の身に起こった変化についてワンに手短に語った。


「電力を失ったのか!」


「いやいや、失ったわけではないけど、さっきの様な戦闘を行えるのはたった1分間になっちゃったのよ」


「1分間? それはどれぐらいの長さなんだ」


「そうか、ワンは時間を計る基準が太陽の動く距離だったのよね? それじゃあんた達遠吠えってできる?」

 エアリーはかなり考え込んでからワンに聞いた。


「出来るが、どの遠吠えかな? 縄張りの主張の時か? 仲間に場所を知らせる時か? それとも、獲物を発見した時か……」


「ええっと、じゃあ縄張りの主張をやってみて?」

 エアリーは、慌ててワンに遠吠えをするよう促した。


「わかった」

「ウォーロゥオオォーー」

 ワンは得意そうに一節唸る。


「それが大体5秒だから、それの12回分が1分ね」


「マスター、それは失ったのと同じだ」

 ワンは悲しい声で言った。


「あ、やっぱりあんたもそう思う?」

 エアリーは、一層落ち込んだようだった。


「あーん、どうしようかなぁ」

 エアリーはその場に尻餅をつき、両膝を手で抱えて顔を埋めた。


 ワンはそれを見て、エアリーのわきの下や耳の後ろから、エアリーの顔を舐めようとフガフガフンフンと荒い鼻息を浴びせかける。


「ああん、もうくすぐったいじゃないの」

 エアリーはべそを掻きなきながら顔を上げて抗議するが、ワンはお構いなしにエアリーの顔をベロベロと舐め回した。


「電力を取り戻す手段はないのか?」


「……クレハは……あのコンテナの機械は、月面まで行けばなんとかなるって言ってたけど、どうやっていけばいいか分んないし……どうしようかなぁ」


「月面? 月面とは何だ?」


「あ、えーっと、太陽が沈むと空に上ってくる形が変わる大きな星=月の表面の事よ」


「月? あそこにクリエーターがいるのか!随分遠そうだけど」

 ワンは驚いて聞いた。


「んー、そうね、むちゃくちゃ遠いわね。クレハは人間が住んでるはずだって言ってたけど」

 エアリーは身体を前後に揺すってぶつぶつと何かを考え始めた。


「マスター、それでどうする?」

 ワンはエアリーの前にお座りをして首を傾げながら聞いた。


「まず、あたしの国、海の向こうのウラジオストックまで帰らないと……先生にしかられちゃうわ」

 彼女は国に帰るのがあまり乗り気ではないようだった。


「あ、そういえば忘れていたけど、ワンちゃんに聞きたいことがあったのよ」

 エアリーは突然何かを思い出したようだった。


「ワンは私達人間の事好き?」


「ワンはエアリーが大好きだ」

 ワンは何故今更そんなことを聞くのだろうと訝りながらも答えた。


「それじゃあ、ワンの一族の中で、私と一緒に私の故郷に付いて来てくれる番いの犬はいるかしら?」

 エアリーの眼差しは何か思いつめたような処があった。


「んー、みんな語り部のおばばからクリエーターのことは教えられてるし、みなクリエーターを尊敬しているから、付いていく者は結構居るんじゃないかと思うが、エアリーは私のマスターだから、私に挑戦して勝たない限り付いて来ないだろう。

 エアリーは私のマスターで居るのが嫌なのか? 他の一族の者がワンの代わりになることを望んでいるのか?」

 ワンは不安な表情でエアリーに言った。


「違う違う、あたしはワンが大好き。私が言いたかったのは、ワンの他に一族の者で私以外のクリエーターのマスターを欲しがる犬達が居ないのかなって事よ」

 エアリーはワンが彼女を独占したがっている事を知って急いで言い直した。「犬ってかなり独占欲が強いんだわ」と内心驚いていた。


「そうか、それは良かったエアリー。ワンはこれでも群れのリーダーだから、若者を悪戯に傷つける心配が無くなって嬉しい。

 エアリー以外のクリエーターのマスターが欲しい犬は沢山居るだろう」

 ワンは安心したのか舌をハアハアと出しながら言う。


「ワン、正直に言うけど、人間のマスターを持つって言うのは、あなた達にとっては大変かもしれないのよ?」

 エアリーは後ろめたい気持ちになって言った。


「さっきみたいに、ネルガルの化け物と毎日戦わなければならないし、命の保障も無いわ。

 私がクレハにされたみたいに身体を弄られて嫌な思いもするでしょうし、間違って人間を傷つけたりしたら、私のようなナノウィッチに殺される事だってあるのよ?」

 エアリーは、一緒に付いてきた場合の犬達の良からぬ未来についてキチンと話しておく義務があると感じていた。結局、犬達の忠誠心を当てにして、それを利用したいという下心が潜在的に人間にはあるのだ。


「何が問題なのか? 此処で生きていても、毎日ネルガルの脅威は在るし、群れの掟に逆らった者は、厳しい罰を受ける。生まれた子供も7匹のうち3匹しか生き残らない。

 では、エアリーに逆に尋ねるが、人間は我々に食事を分配しないのか? 我々は独自に狩をして、食料を確保しながら人間に仕えなければならないのか? 病気で弱った子犬に助けの手を差し伸べてくれないのか?

 貴女は私にそういった扱いをするつもりなのか?」

 ワンは少し緊張した面持ちでエアリーに尋ねた。


「私は絶対に、そんなことしないわ。他の人間もそんなことしない」

 エアリーは強い口調で、ワンの心配事を否定した。


「エアリー、マスターよ。私達は感謝しているんだ。ネルガルが現れた時、あなた方は我々の種族を滅亡から救ってくれた。

 貴女のように、自らを強化せず、我々を先に強化して救ってくれた。我が始祖はこう言っている。

 『我々一族は、クリエーターの僕である』と、『そして、クリエーターはネルガルを滅ぼす為に我々の処に必ず帰ってくる』と。

 ワンは一族の長として、ネルガルを滅ぼしてくれる貴女に、命ある限り奉仕できる幸運を大変感謝している」

 ワンは目を潤ませながら一生懸命しゃべった。


 エアリーは感動してワンの首を抱いてそこに顔を埋めた。


「マスター、私達は何代もの間、歯を食いしばってクリエーターの居ない虚しさと寂しさに耐えてきたんだ。

 私はマスターを持って、初めて心が満たされた。だから、お願いですからもう私の前から居なくならないで下さい」

 エアリーはワンの言葉を聞いて彼をぎゅっと抱きしめた。犬の心、その動機を初めて理解して愛おしさと悲しさが同時に彼女に襲い掛かってきた。そのいじらしさは、人間の母性の琴線にクリティカルに触れてくる。


「グスグスッ、ワン、お前はいい子だねぇ」

 エアリーはワンの鼻に何度もキスをした。ワンはそれに顔舐めで答える。


「それじゃあ、月まで一緒に来てくれる?」


「一緒に行かない理由があるんですか?」

 エアリーは、心細かった気持ちがどこかに吹っ飛んで行ったのを感じていた。



チョッと短めですが楽しんで下さい。

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