宇宙へ
エアリーは果てしない綾取り遊びをしていた。
我々の宇宙、この毛糸の玉は全ての宇宙から繰り出された糸によって出来ている。
結びつき引っ張る力、エアリーが手にする糸は輪になっているから、分解し反発する力も存在する。
「エアリー、この宇宙も他の宇宙も、糸の振動によって出来ているのよ」
クレハは言った。
だからどうだと言うの?
「11番目のの宇宙の誕生時、振動数の安定しなかったこの宇宙の物質は、存在するが見ることも触る事も出来なかった。だけど、温度だけは高かった。
不思議でしょう?」
クレハは蝶の姿になってエアリーに話しかけた。エアリーの周りをひらひらと飛び回る。
「物理学者に言わせると、超高圧だから温度が高かったんですって。
高圧って、振動する粒子がお互いにぶつかり合って、お互いを押しのけあう力だそうよ?
それじゃあ、始まりの時、粒子の出現する前、それらは何とぶつかっていたのかしら?」
エアリーはクレハの話に頷く。だが、言っている事はさっぱり分らない。
「次に宇宙は単純な粒子を生み出した。あら、でもそれって見解の相違よね?
粒子ってフェルミ粒子のこと? ボース粒子? それとも超対象性粒子のことかしら? ゲージ粒子や位相欠陥粒子もあるわよ?」
クレハの身体は蝶から海月に変わった。今度は触手を揺らしながらふわふわと空中に浮かび始める。
「でも、スカラー粒子じゃないわよね。だってヒッグス粒子が最初に出来ちゃったら、宇宙って膨張できなかったんですもの。だって、そんなに高密度の粒子の集団がヒッグス粒子の登場で光より速く運動できなかったら、あっという間に超巨大ブラックホールになってしまってるでしょうから。
そう考えると、ビッグバンって欠陥だらけのご都合主義の理論よね?」
クレハは含み笑いを漏らした。海月が笑うのはあまり気持ちがいい物じゃないとエアリーは思った。
「まあ、百歩も千歩も譲って、ヒッグス粒子が最後に生成されたと仮定しても、宇宙背景放射の『ゆらぎ』は存在しないのよね。
だって、あらゆる粒子があらゆる方向に、超光速で運動しているのよ?光の速度の制約が無いってことは、宇宙のあらゆる場所にあらゆる粒子が到達するのに時間が掛らないって事だから、密度の差なんて出来っこないのよね。
エアリーちゃん? お姉さん幼稚園児にも分るように説明して上げたけど、理解できた?」
クレハは、今度はハツカネズミに変身して言った。
「だ・か・ら、そんなことどうでもいいじゃない!」
エアリーはむっとして言った。
「それがどうでも良くないのよ。貴女に重力子制御ナノマシンを移植するとどうなるか、さっき説明してあげたでしょ?」
「ストローのこと?」
エアリーは気だるげに答えた。
「そうそう、ストロー!」
ハツカネズミのクレハは、嬉しそうにとんぼ返りをした。
「貴女の身体の周囲には、この宇宙の他の10の宇宙から重力とは反対の力『ダークエネルギー』が作用しているのは理解したわね?
つまり、貴女がこの地上のこのイスに固定されて動かないのは、重力が引っ張ってるのと同等にダークエネルギーが貴女を反発する力で固定しているから動かないの。
では、貴女の頭上の宇宙構造に重力子制御を伸張したらどうなるんだっけ?」
クレハは今度はチンパンジーの姿に変わり、腕組みをしながら質問した。
「吸い出されちゃう?」
エアリーは半信半疑で聞き返した。
「オメデトウ、よく出来ました」
チンパンジーが歯をむいて両手を打ち合わせて拍手をした。
エアリーはクレハに完全に馬鹿にされているのだと感じた。
「でも気をつけてね。その力を無制限に使うと直ぐに光速の速度を突破してしまうわ。
私の計算だと毎秒100メーター程の加速度になるから、833時間ぐらい掛るけどね」
クレハの話を聞いて、エアリーはひょっとして自分は以前の戦闘力以上の力を手に入れたのではないかと思った。
「でも、空を飛ぶ為には鉛薄膜核融合の膨大な電力を使わなければならないから、臨時に今貴女の身体の中に私が設置している燃料電池ナノマシンの能力ではまったく電力が足りないわ。
さっき1分間だけ全力戦闘が出来るって言ったけど、それは貴女のお腹の中に超伝導バッテリーコアを埋め込むからなのよ。燃料電池ナノマシンで24時間フルチャージしても1分間ね。
だから全力で重力飛行したとしても、高度180キロメートル位までしか飛べない計算になるわね。その時の速度は秒速6キロほどだから地球の重力圏を抜けるのは無理ね」
クレハのチンパンジーは、両手を広げて肩をすくめた。
「何なのよ! その重力子制御ナノマシンって! 役に立ちそうなのにダメダメじゃないの!」
エアリーは癇癪を起こしてクレハを怒鳴りつけた。
チンパンジーは奇声を発してぐるぐるとそこら辺を走り回る。
「まあまあ、抑えて抑えて。
あなたに移植する重力子制御ナノマシンは、量子もつれ現象も制御できるのよ。
だから、活動している大規模な核融合発電施設から量子もつれ現象を使ってエネルギーを転送する事ができるわ。
まあ、その粒子もつれを起こすためには、量子状態を観測する人間が双方に居て、片方にその情報を転送しないと無理なんだけどね」
クレハのチンパンジーは両手で目を覆って言った。
「そんな事、何処でできるのよ!いったい誰が量子状態を観察しててそれを私に転送してくれるの?」
エアリーはいらいらして問い詰めた。
「うーん、月面のルナ・シティが無事ならば、大規模な核融合炉がまだ稼動してると思うわ。
そして、貴女の量子副脳と融合炉をコントロールしている量子脳とをエンタングル状態にすれば、『テレパシー』と呼ばれる現象で情報を転送できるんじゃないかしら」
チンパンジーはやっと人間のクレハの姿に戻って言った。
「月面? そこには生き残りの人類が居るの?」
エアリーは驚いて聞いた。
「うーん、難しいわね。人類といえば人類だけど、あなた達地上の生き残りの人間もどきを人類と呼べれば、そう呼んでも差し支えないのかも知れないわ。
私がネルガルに封印される直前のデータでは、月面でも人間にネルガル化が起こって、彼らは第五世代のナノマシンを持っていなかったから、肉体を捨てて電脳化しちゃったのよ。要するに私みたいに全人格を量子コンピューターにダウンロードしちゃったのよね。
まあ、あれから150年経つけど、私の予想ではまだ生存者はいると思うわよ」
エアリーは先ほど戦った『小皇帝』=レナ・レナ・ミランダ・スチュァートとロバートが話していたことを思い出した。
彼女がワンと一緒にこの地下室に突入する前に扉の向こうから聞こえていた会話の中に『月面……ルナシティ……マシン・レイス』と言っていたではないか?
「ここの封印を守っていたネルガルが話していたんだけど、ルナシティでマシン・レイスに痛めつけられたって言ってたわ」
エアリーはクレハに言った。
「へぇ? それじゃ量子脳にダウンロードされた人々が、戦闘用のボディをコントロールしているか、若しくはインストゥールしてネルガルと戦っているのね? 興味深いわ」
クレハは顎を摘んで何かを考え込んでいた。
「貴女は、私が今施している改造が終わったら、なんとかして月面まで行きなさい。
貴女の量子副脳に『量子もつれ』の手順を書き込んでおいてあげるから、ルナシティの生存者に協力してもらうのよ。分った?」
クレハは明るい顔でそう言った。
エアリーは自信なさそうに頷いた。
『月面までどうやって行くのよ?』
『その間、ネルガルに襲われたら一日1分間の戦闘力じゃ勝てっこ無いわ』
彼女は心の中で呟いた。