名前で呼んでよ。
活動報告に書いた、ミニ小説です。
今日こそは呼ぶ。志穂って呼ぶ。
しほ しほ しほ……
制服を着ながら、おれは念仏のようにそれを唱えた。すると幼なじみの顔や姿がボワンと頭に浮かんできた。
……やべぇ、かわいい。くりっとした目とか、優くんって呼ぶ口とか、あんまり高くない背とか、肩にかからない長さの髪とか、たまに髪を耳にかけるところなんか見たりすると、むちゃくちゃにキスして抱きしめて、その耳とか指とかなめたくなる……って、ちがう、ちがうぞ。ちゃんとしろ、おれ。
志穂は、最近元気がない。それは、おれのせいだ。おれが志穂にひどいこと言ったせいだ。小学校から一緒で、当然中学も一緒になった。一年のうちは二人で登校したり下校したりしてたけど、二年にあがってから、急にクラスのやつらにそれをからかわれるようになった。それ以来、おれは決まりが悪くなって、志穂にそっけない態度をとるようになってしまった。
志穂は、おれがちょっと態度が変わったのを気づいていたと思うけど、休み時間に教室に来たり、忘れ物をしたと言って教科書を借りに来たりして、いつも通りだった。
でもそれも、だんだん恥ずかしくなってきた。周りのやつはいちいち絡んでくるし、なにより志穂が注目を集めるようになった。志穂はかわいいから、たいがいの男子は志穂を見る。だから志穂に教室に入ってほしくなかったし、見られたくなかった。
そう思っていて、ある日ついに言ってしまった。
“優くん、国語辞書もってない? あのね、わたし今日家に置き忘れてきちゃって……”
おずおずと話しかけてきた志穂の顔も見ずに、おれはこう言った。
“おまえ、いい加減、忘れ物するのやめたら? それと、もう名前で呼ぶのも止めてくんねーかな。女に名前で呼ばれんのってウザいし、おれももう呼ばない”
志穂は、聞き取れないくらいの小さな声で“ごめんね”と言って教室を出て行った。
それから一週間、志穂とは学校で会わなくなった。考えたら、志穂と登校しなくなっておれは遅刻ギリギリだったし、教室は棟の端と端だから、それぞれ使う階段がちがって、移動教室のときもすれちがうこともなかった。志穂と同じクラブの女子が、最近志穂が元気がないっておれに言ってきた。下校するときに一回だけ、下駄箱ちかくで志穂を見た。志穂は、かなしそうに見えた。
おれ、ばかだ。やっと気づいた。志穂がいないと、一週間がものすごく長く感じた。それにぜんぜん、楽しくない。楽しかったのは、志穂のおかげだったのに。
志穂は、かわいい。すげえかわいい。それは、おれが志穂のことを好きだからだ。志穂が、かわいいんだ。ばかだ、おれ。
だから、次に会ったら呼ぶんだ。志穂って。
そう決めたのに、また一週間、志穂と会わなかった。いや、会えなかった。おれは、とことん志穂に避けられていた。
……つらい。
好きな相手に、避けられるのがつらいなんで初めて知った。でも志穂はおれの何倍もかなしい思いをしたと思う。志穂がおれを好きかなんてわかんないけど、志穂はやさしいから、きっと傷ついたと思う。
会ったら、ちゃんと言おう。謝って――――そう考えて廊下を歩いていたら、移動教室からの帰りと思しき志穂と、ばったり出会った。
し、と口を開きかけたら志穂はすごい勢いで回れ右をして走り出した。チャイムが鳴って休み時間の終わりを告げたけど、今を逃してはいけない気がして、志穂を追いかけた。
志穂が教室に入ってしまうまでに、追いつかないと。つかまえないと。
階段を駆け下りて駆け上がって、だれかとぶつかって、プリントをぶちまけて、でも走った。
志穂、志穂、志穂。
また一緒に学校へ行こう。また一緒に帰ろう。国語辞書も数学の教科書も英語のCDも、なんだって貸すよ。だから、だからさ――
勢いよく閉まったドアを勢いよく開けた。
「――志穂っ!」
目を大きく開いて、志穂がおれを見ていた。
ああ、かわいいな。じゃなくて。言いたいことも謝りたいこともいっぱいあったのに、息が切れて、それ以上に、言葉が出てこない。好きだとか、ごめんとか、ほら言えって――
「早坂くん……」
そうだ、なによりも、志穂に笑ってほしい。前みたいに、前以上に。今度は、休み時間ごとにおれが志穂に会いに行くよ。全教科の教科書持って、志穂のところへ行くよ。
だから、どうか――
「名前で呼んでよ」
それはどっちの、言葉だったんだろう。
このあと、教室中が沸いたけど、それはまた今度話そう。