-後編
べりべりと遠慮しない音を立てて、ガムテープを剥がす。久方振りに姿を現したべたべたの新聞受けに向かって、朝日に当たって日光浴でもしておいてくれと言った。木陰蒼が居るかどうか確認し、扉を開けて中に戻る。独り言と挙動不審で、頭の痛い子になってしまった感満載である。
猫柳をナメてかかり、居留守を使った時。このガムテープの粘着面に、自分の携帯番号を書きやがったのだ。もちろん個人で契約したもの、だと思うけど。
私の携帯番号を知られると嫌なので、家の電話から掛ける。猫柳に電話を掛けるのは、木陰を守るためと格好つけて、本当は自分の安全を確保するためだった。
十一桁の番号を入力し終え、受話器を耳に当てる。待たずとも、即刻出た。
『もしもし猫柳。どちらさん?』
「園継です」
『……何?』
本気で不思議がるのをやめてほしい。私から電話を掛けたと自覚してしまうじゃないか。もうしてるけど。
「放火の担当なんですよね?」
『? そうだけど』
「居ます、うちのアパートの近くに」
ばさばさと何かの音がした。いつも余裕のあの猫柳が、慌てているのか。面白かった。
『からかいじゃないだろうな』
「そんな事するためなら、猫柳の電話になんて死んでも掛けません」
『さんだろ。猫柳さん!』
そこに突っ掛かるのか。別に良いけど。
「とにかく、急がないと逃げちゃいま、」
切れた。まあ良かった。
猫柳は刑事っぽくないし、木陰蒼を捕まえられると思ったのだ。安直な考えかも知れないけど、もうそれしかない。
私を倒して木陰を連れ帰すというマリオ的考え以外なら、私が居ない時にまた不法侵入する事しかない。もっと細かく分ければ他にあるけど、大きく分けたら二つで。私が居るなら何とかなる、はず。でも私が居なければ、あまりにも簡単に木陰を取り返せる。なら、こうするしかない。
まだ眠っている木陰にも、一応了解は取ってある。本心じゃないかも知れないという考えは、もう捨てた。それに私は、木陰蒼ともやり直して欲しいと思ったから。木陰蒼は、見つかれば必ず逮捕される。そして時間が経って蒼が家に帰って来た時、普通の兄妹をして欲しいと思ったから。それまで私が木陰に付いているわけにもいかないから、そういう精神になってもらうしかないけど。それなら、ちょっとくらいは手伝える。正しくない方法だけど、正しい方向に向かわせる事なら出来る。
ネネさんに会いたいなあ、と思った。
木陰には書置き一つでコンビニへ逃げ、バイトに意識を向ける。染さんはフフフンと鼻歌を歌い、品だしをしていた。
特にやる事もなく、何となくぼーっとしている。やる事はあっても気力がないというのが、正真正銘の本音だけど。
自宅が恋しかった。無責任に逃げてきたくせに、木陰が恋しい。ぬぼーっとこんな考え事をしているとコンビニの暖房にやられてしまいそうで、しっかりと瞼を開けた。
「品だし終わりましたー」
マシュマロみたいな声が飛んできたので、鉄っぽい声で跳ね返す。
「わがりまじだー」
鉄っていうか錆びだった。
「ぬぉ?」
ほら、何か驚いて出てきたじゃん。
「どうしました?」
「何でも」
「あ、戻ってる」
「そうです」
「良かったっす」
何か良くわからないけど、安心された。
「うっしゃ始めるかー」
客がちらほら居る中で伸びをして、気合を入れた。
「レジお願いします」
「了解でーす」
染さんと交代して、バックルームへ向かった。
物理的にも狭くて、視野も狭くて、私の心に見合った空間だから。だから好きなんだろうか。昔から狭いところは好きで、でも高いところは苦手で。それは姉さんが死ぬ前も死んだ後も、変わらなかった。
飲み物は少し冷たくて心地良く重くて、ずっと触れていたくなる。でもそれは時々落としてしまいそうになって、だから私はそれが怖い。木陰が離れていくのも、木陰が変わるのも怖いくせに。木陰が居座ってしまうのも嫌で、木陰には変わってほしくて。まるで恋する中学生のように、心臓が痛くなる。
私は小さい頃、心が何処にあるのか考えていた。答えは見つからなかった。何処でもいいやと思ったから。何処にあったって、何かを感じる事が出来れば心がある証拠だから。でも心が狭くて。私が見ているもの、食べるもの、痛い事、つらい事、全部受け止められない。怖かった。
何が怖いって、落とす事。溢れる事が怖かったのだ。容量オーバーになって何かを忘れる事が、怖かった。姉さんの事も、私が犯している罪も、嘘も真実も。怖かった。
だから今日帰ったら、思いっ切り溢れさせようと思った。お湯のたっぷり溜まった浴槽に入る時のように、一気に全部詰め込んで、全部忘れて、全部吐き出して、空っぽになろうと思った。
炭酸飲料を振りたくなって、何かやばいなと思った今日この頃のお話。
「ただいまあ!」
「うわ! びっくりした……」
「ごめんね寿命縮めちゃって」
荷物をどさどさと放り投げて、雑誌を読んでいた木陰の隣に座った。雑誌まで持ってきていたのか、こいつどんだけ備えあれば憂いなし思考なんだとは思わない。
「木陰」
改まって真面目な顔をする私にいつもと違う雰囲気を感じたのか、素直に私の方を向く木陰。私が一番苦手な、向かい合って話す形になった。
『泣こう』
本当はそう言いたかった。ネネさんが言ってくれたから。でも私はそんな高度な技術を身につけてはいないので、素直に横道から入った。
「木陰、お兄さんの事好きでしょ?」
一緒に泣けるように、涙腺を崩壊させる。私の都合で、木陰の水分を抜き取る。
「嫌いになれないでしょ?」
精一杯優しい声と顔で、でも私の涙腺こそ崩壊しそうで。
「それはしょうがないよ。それが家族って事で、それが血が繋がってるって事なんだよ」
知ったかぶって。自分に言い聞かせるようでもあるその言葉が、私の心臓に突き刺さる。
逃げる事だと思っていた「家族だから」が、針治療のように全身に刺さる。痛かった。もの凄く。というか、何か、前が、見えない。
「簡単に嫌いになれないから、家族なんだよ。それが幸せな事で、凄くつらい事だったりする。人それぞ、」
肺が潰れそうなほどの勢いで木陰が抱き付いてきて、呻き声と溜まった涙が外に出た。
「うわ、あ、ああ、ああ、あ、あ、あ!」
近所迷惑なんて少しも考えず、遠慮なしに木陰の泣き声が響く。私の耳が痛い。私もデュエットしたいところだったけど、苦しくて声が出なかった。涙は出てくるけど。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い! うわあああ!」
しっとり一緒に泣くというシチュエーションがぼろぼろと崩れ落ち、叫び合いになるところだった。せめてそれは避けたいので、私は大人しく泣く。目から水を出す。
「ばかばかばかばかばかばかばか!」
息も絶え絶えで言葉を発する木陰のメッセージが誰宛なのかははっきりしなかったけど、誰にでも言える事だった。だから誰でも良かった。
チューイングガム化が再発した木陰は、泣きじゃくった。私も畳が腐りそうなほど涙を落として、客観的に見たら凄い変な図。姉さんに、木陰が泣きながら喚いている事を伝えられたら良いなと思った。大嫌いで大好きな、綺麗で汚い姉さんに。
いつの間にか寝ていたみたいで、カーテンが少しだけ日で染まっていた。木陰が私の鎖骨によだれと涙を垂らしていたらしく、何かカペカペしている。
瞼がずっしりと重くて目が開かないけど、心はすっきり晴れて軽かった。良く言えば吐き出して、悪く言えば開き直ったと。
鼻水と涙で私の鎖骨に貼り付く木陰の髪を剥がして、木陰をきちんと布団に運ぶ。寝かせてから、ずっと平面にくっついていた尾てい骨を擦りながらお風呂に入る準備をした。いろいろべたべたするので、早くさっぱりしたいのだ。
殆ど真っ直ぐな状態で寝ていたから、体のあちこちが痛い。首とか背骨とか、折れてんじゃないかってくらい曲がらなかった。洗面所の鏡を見ると、ちょっとだけ姿勢が良くなっていた。あれ?
低血圧という理由を逃げ場にして、頭を働かせない。何か、だるかった。脳みそまでも溶けて体外に旅してしまったのだろうか。それは困る。例え季節外れなサンタクロースであっても、人間的な『空っぽ』ではない事くらいわかってくれているはず。
お湯を溜めている間に歯磨きをしようと洗面所で立ち止まり、歯ブラシを手に取る。そう言えば木陰は歯磨きセットまで準以下略。歯ブラシをしゃっこしゃっこと動かしながら、居間に戻る。畳は腐っていなかった。良かった。きのことか栽培しなきゃいけないと思ったから。さすがに嘘ではあるけど。
というか何か、頭が軽い。浮けそうなこの浮遊感。何だこれは。何か忘れてるような、一人で平和に全部吐き出してしまったような感じがする。
軽く歯を磨き終えたので、口をゆすぐ。うーん、何を忘れているのか。はてなはてなはてなはて、な。疑問符ばかり。??? あ、歯磨き粉の水割りを飲んでしまった。うえー。
そうか。猫柳に電話しなければ。逮捕されたと聞かなければ、きちんとした確証にはならないのだ。まだすっきりとしないけど、これもやらなければいけない事だった。
亀よりのろいなと思いつつ、足を動かす。これだから目覚まし時計に頼りっきりの私は、しばらく目が覚めない。視力は良いのに、全く使えない目だ。
コンセントに差してある充電器を抜いて、充電器から携帯を引っこ抜く。あら、別に充電器は良いじゃないか。もう一度差し直した。
あ、そういえば家の電話から掛けたんだった。のそのそともう一度携帯を充電し直して、大股三歩で目的地に到着した。発信履歴から猫柳の番号を見つけ、掛ける。今回も全く待たず、相手はすぐに出た。
『こんな朝っぱらから何よー。おじさん今日は徹夜だったんだからよー、寝かしとくれ』
「園継です」
『だから何だっつってんの!』
「逮捕されましたか、木陰蒼は」
『無事にね。俺が逮捕したのに取り調べは担当させてもらえず。信用されてないねー俺』
「そうですか」
『何か今日は穏やかじゃねーかい?』
「ぼけてるんです。というか浮いてるんです」
『ついにあの世へ行ったか。あの世も電波良いのねえ』
「違います」
『んま、そんな事だから。ラブコールとモーニングコール、合わせてランニングコールをありがとさん』
切れた。毎度毎度、勝手に切る奴だ。別にもう話したい事はないけど。
木陰はもう居なくなるし、木陰兄も逮捕されたし。関係の修復は望めないにしても、昨日いっぱい吐き出したから。ちったぁ成長出来るだろうよと。
あれ。私何か忘れてない? こんなに順調に行かなくない? 何か大きな壁みたいなの立ちはだかってなかった? あれ、何だっけ。
あ、思い出した。
狭い浴槽から溢れるお湯の音が、私の耳に入る唯一の音だった。
今では精神的にも物理的にもしっかりと地に足をつけていて、もう安心。住所を書いた紙を片手に、いそいそと冒険中なりー。全然安心な精神じゃなかった事に今更気付く。
今日はうろうろと周りを散歩するだけの、傍迷惑なマスコミ役を引き受ける予定だ。日を改めてタイミングを見計らって、もう一度来る。何処に来るのかというと、今現在向かっている木陰宅。忘れていたのはご両親。
木陰の携帯を勝手に覗いて、住所を調べた。電話帳とかパパッと見れば良いだけで、案外簡単だった。もう偽善とか通り越して、プライバシー侵害してるけどいいや。どうせ犯罪犯した身だし、とかそういう事じゃなくて。帰ったら謝るつもりだ。きちんとした気持ちで、話がしたいから。もちろん、木陰の両親と。
電柱から電柱を渡り歩いて、右行ったり左行ったり良いダイエットになりそうだ。十九年生きてきて、初めて自分が方向音痴である事を実感した。土地勘とかそういう域を軽く超えていた。自分でもわかるもん、もうこれ重症。
お風呂入っていろいろ準備して家を出て来たから、彼此もう一時間歩いている。距離に換算したらどれくらいだろう。万歩計でも付けて来れば良かった。私の実績、的なキラキラしたオーラで染さんに自慢できるぞ。これは本当。
木陰と書かれた表札が現れて、初めてメモから視線を上げる。
「で、……っけー」
身代金を要求したらゼロの数が半端じゃないような家だった。わかりにくいけど、そんな感じの豪邸で。同じ街なのにこの豪邸を知らなかったとは、恥ずかしい。
木陰宅の、いや。木陰邸の前には、報道陣やら警察やらはいなかった。念のため少し離れて、近くにあった公園に入る。ブランコに揺られながら、しばし観察する事にした。
バイトがあるから早めに帰らなければいけないけど、いつまで見ていても飽きないような豪邸だから時間に気を付けよう。
木陰の口から『キャビア』とか『フォアグラ』とかいう言葉を聞いた事はないが、もしかしたら恋しいかも知れない。だからって買っていけるような経済状況じゃないけど。高いもの買ったらマイナス過ぎて赤字が黒字になったりしないだろうか。そうしたら喜んで買うんだけどな。そもそもキャビアってスーパーに売ってるの? 見た事ねーよ。
木陰邸はひっそりと静まり返っていて、暗くてもう少し雰囲気があれば洒落た心霊スポット的な扱いになるような冷え方だった。時々風が抜けると門が震え、金属の音がする。こんな家が近くにある公園で夕方、小学生が野球したりするんだろうか。肝試しになりそうだ。
もう少し人がいたら違うんだろうけど、何せ誰もいない。テレビでニュースを一度見ただけで報道状況は把握していないから、もしかしたらそれほど大事ではないのかも知れない。木陰蒼が逮捕されても、木陰の兄だとは報道されなかったのかも知れない。ああ、情報不足。というか、ここに来て何も知らない私。泣かせるだけ泣かせて後始末が出来ないんじゃ、元も子もないじゃないか。
改め改め、もうずーっと改めてばかりだけど、改めて自分の無責任さに腹が立つ。そして自分で無責任だと言い放っておいて腹が立つような自分にも、腹が立つ。スカッとしたくて、思い切り土を蹴った。
思いの外揺れなかったブランコに、もう二回ほど勢いをつけた。鎖が外れれば空まで放り投げられそうなほどふり幅の大きいブランコは、私と違って頼れる存在であった。私が変わっても、ブランコは変わらず私を乗せて揺れる。私が成長しても、私を落とす事なく風に触れさせてくれる。ブランコ、崇拝。
私が変な名前を付けてしまった捨て猫のような灰色の空目掛けて、力いっぱいブランコを漕ぐ。飛んで行けそうだった。私は馬鹿だから、飛んでみたくなる。
「……った!」
宙を舞った私の体は、案の定地面に肩から着地した。ショルダーバッグを下敷きにして、土に頬を擦り付けて。何か、このまま死んでもいいと思った。地面が私を受け止めてくれる事に、何故だか感涙した。
姉さんは、アスファルトに受け止めて欲しかったのだろうか。私が過去に殴った人は、コンクリートに受け止められたのだろうか。地面はいつも私の下にあって、それなのに私を羨んだりしない。空はいつも私の上にあるのに、私を蔑んだりはしない。地球は私を包んでいるし、私は宇宙を見た事もないのに、宇宙は私の存在を知ってくれている。世界は広いし、この公園は狭い。けれどどちらも良い。この世の全てを否定する代わりに、この世の全てを肯定出来るんだと思った。
「おねーちゃんなにしてるのー?」
背丈が私の腰辺りまでしかなさそうな、舌足らずな女の子。彼女は私を見下ろして、私は彼女を見上げている。そこにはあるのは、蔑みや羨みなんかではない。疑問と、ちょっとばかしの恥。
「わー。痛そう」
「とか言って楽しんでますね」
「いえいえ」
「消毒液は化粧水じゃないんですよ。ひったひたにしなくてもいいんですよ」
「わかってますよ」
「痛いんですけど!」
あんなに派手に着地失敗すれば当たり前だけど、擦り傷が出来た。顔にも小さい擦り傷が出来たけど、小さいから不幸中の幸い。
「四次元ポケットみたいですね。染さんの鞄」
「何か、小さい頃から入ってるんですよねー。姉の影響かなと思うんですけど」
「お姉さんはお医者様で?」
「あー、はい。精神科医ですけど」
「じゃあ消毒液関係ないですね」
「んー。そうですね」
四次元ポケットもとい染さんの鞄から出した救急箱には、こういう傷の消毒なら簡単に出来るくらいのものが入っていた。木陰よりも準備が良いな、と思った。
「はい、おっけーです。絆創膏要ります?」
「あ、すいません。借ります」
「返さなくても良いですからねー。むしろ返さないでっていうか」
「まあそうですね」
絆創膏を貼って、立ち上がる。染さんは、最後にお煎餅を一つ頬張ってから立ち上がった。
一度家に帰って、木陰宛に『ばいと』という書置きを残して家を出てきた。昼食は用意してあるし、夕食は葉っぱ類ばかりだけど死なないから良いだろう。塩でもおかずに食べてくれ。不謹慎にも、塩分の取り過ぎで死んだら面白いなあと思った。
有線で流れてくる曲で私が知っているのは童謡や昔の曲をカバーしたものだけで、染さんだけノリノリだ。最近は音楽不足だから、余裕が出来たらまた聞いてみようと思った。いつだろう、余裕が出来るのは。いつもか?
「いらっしゃいませー」
「どうも」
「よー」
芹澤さんの上司二人がいらっしゃった。猫柳と、名前は知らない常連の人だ。並んでいると何となく刑事っぽいのに、ばらばらになるとそれぞれサラリーマン風になる。何故だろう。
「猫柳さん煙草どうしますか?」
「俺が買っとくよ。食糧選んどけ」
「はい」
にやにやした猫柳が、私の方に歩いて来た。今日はスーツだった。似合うのか似合わないのか、スーツを白にしたらやくざに見えるかも知れない。
「よう」
「いらっしゃいませ」
「どういう心境の変化かな。通報とは」
「善良な一市民としてという感じですかね」
「ほうほう」
ポケットから煙草の空箱を取り出した猫柳は、私に突き出した。
「これ、二つくれ」
「かしこまりましたー」
「銘柄知ってる?」
「知ってますよ、セブンスター」
「お、さすが」
「英語くらい読めますから」
「……おう」
箱を見て気付いたのか、すぐポケットにしまった。
「ジタンとか置いてない?」
「置いてないですね」
「あっそ。じゃあいいや」
パンと飲み物の確認に来たコンビニ上司さんに、「セッターで良いよね」と確認する猫柳。最初に聞けよと思った。コンビニ上司さんは「良いですけど、こっちはこれで良いですか」。猫柳はいろいろ注文していた。何か、あれだった。
「お釣りはいらねえ、とか言ってみたい」
そりゃあ言えないだろうね。三桁の買い物に万出すんだもの。
「領収書ちょうだい。久弥永って書いといて。漢字でね」
「どういう漢字ですか?」
「永遠の永」
「名字の方は?」
「……何だっけ。ちょっと久弥ー」
「はい?」
ヒサヤエイと言うのか。コンビニ上司さんの名前は。
「これこれ」
警察手帳を出された。猫柳が、久弥永さんの、警察手帳を。
「おいちょっと猫柳!」
「タメ口たたくな馬鹿野郎」
そりゃタメ口にもなるだろお前。人前で他人の警察手帳を勝手に出すな。馬鹿野郎はお前だ。
「久しいに、弥生。これで久弥。はい書いてー」
私はしがないコンビニバイト(なはず)なので、ささささとボールペンを動かす。染さんがいつの間にか店外清掃をしていたので、苛立ちつつも安心する。
「あ、ちょっと。何で俺の名前書いてるんですか」
「お前の煙草代払ってやった」
「領収書貰うには一人分多いじゃないですか」
「本当は金払いたくなかったからだ」
「だろうと思いましたけど」
心温まる会話の端に立って、にこにこと眺めていた。あら虚言が。
ざっくり分けたらパンと牛乳になる『食糧』のバーコードを読み取り、ぺたぺたと人差し指の腹を酷使する。
「久弥きゅん。よろぴく」
何だろうこの嘔吐感。気持ち悪いんだけど、本当何だろう。
「あのさ、猫柳さん財布あるよね?」
「ないのー。きゃぴきゃぴ」
「気持ち悪いからやめてください。払いますよ」
久弥さんって偉い。警察ってこうじゃなきゃ。心臓が痛くなるほど、心の中で拍手した。出来たかわからんけど。
「先に車乗ってろ」
「わかりました」
軽い駆け足で去った久弥さんは、自動ドアに認識されなくて一度戻ってから店外へ出た。ギャグ漫画的な小ボケだった。あまりにシュールで、少し吹いた。
「お? 俺、静紅ちゃんが笑ったとこ初めて見た気がすんだけど」
「そうですか」
「いっつも仏頂面か、良くて鼻で笑う程度だから」
「悪うござんした」
「すっきりしたか? 自分だけ」
ちくりなんてものじゃなくて、ぐさりと突き刺さった。真冬に出来る氷柱が雪にさくっと刺さるくらい簡単に、でも深く。
「心は目に見えないからね。それに逃げる事も出来るけどさ」
さらりと的確な事を言って、通知音と口笛でデュエットしながら去った猫柳。車のエンジン音とタイヤが擦れる音が聞こえても、歯を食い縛る事をやめるわけにはいかなかった。
猫柳らしくなくて猫柳らしい、心の殺し方だった。
今日は背後を気にしなくても良いし、ドアノブの静電気に気を取られなくても良かった。ただし緊張するのはそこからで、安っぽい光に照らされる木陰に掛ける声を探した。
「まだ寝てなかったんだね」
結局ありきたりな言葉に落ち着いて、子供の夜更かしを指摘する。そこには子供らしくむっと唇を尖らせて欲しかったけど、至って真面目な顔だった。
「話があるんです、けど。その前にその絆創膏何ですか?」
「着地に失敗した」
顔までぱしゃぱしゃと洗いたくなったけど我慢して、手洗いうがいを済ませた。うがい中に横目で木陰を見たけど、授業中物思いに耽る女子高生みたいだった。口の端からこぼれた水が洋服を濡らしたから、特に思う事はなかったけど。
「よっしゃ、話って何だ」
「あの、……やっぱり良いです」
「何だい。言ってご覧よ」
「いやいや。その前に静紅さんからどうぞ」
「私は別に話なんか無いよ」
「話したそうな顔してます」
「悪かったね。元からこういう顔なんだよ」
軽めの譲り合いをして、睨み合って、また譲り合う。こういうコミカルな雰囲気で話したいというのは、木陰も思っているようだった。
「じゃあせーので行きますか」
「良いね。乗った」
「「……せーの、」」
一度二人で躊躇して、でも二人共言おうと決心する。生活サイクルが同じだと、行動も似てくるのか。前にも同じような思いを持った事があったような。
「「普通ってなん」」「でしょうか」「なんだろうね」「「?」」
ぴったり合わないし、思い切りバラバラでもない。微妙な空気になった。でも、話したい事は一緒。普通って何?
「え、じゃあ、この疑問についての哲学的な何かをお互い述べてみる?」
「そんなの無いですよ。ただ思っただけで」
「そっか。じゃあ、これからどうする?」
合コンの話題が尽きてしまった盛り上げ役的なあたふた。私も静紅も、何か感じているのかも知れない。この誘拐事件に終止符を打つ時が近付いていると、お互いが少しずつ勘付いているのかも知れなかった。
「普通って何だろうね」
コミカルだった雰囲気が少しだけ成長して、緩やかな良い空気になった。そんな時に、もう一度疑問を呟いてみる。木陰も時々目を泳がせて、脳内を彷徨っていた。
「例えば平均ってあるじゃん。それ通りの人間って普通かな?」
木陰はうんともすんとも言わず、ただ私の展開する持論に聞き耳を立てるだけだ。それでも別に良かった。
「それってただの平凡で、普通ってもっと他にあるんじゃないかなと思うんだけど」
いつもの癖で、天井を見上げる。空よりずっと低くて私より高い、汚れのこびりついた天井が見えた。木目はいつ見ても変わらない。私が気付かないだけなのかも知れないけど。
「普通って要は、自分の中で決まってる事よね。常識的とか、さ」
このまま行くと偏見に塗れた、私が有利になるような事ばかり口に出てきてしまいそうで、少しだけ木陰に問いかけるような視線を送る。同意は求めていなかったけど、首を横に振られるのも嫌だった。
「辞書では、要するに一般的にどうかって事らしいですよ」
知識を見せびらかされたので、何となく突っ掛かってみる。
「一般的って何?」
「世間一般がどう思うかって事なんじゃないですか?」
「それって平均的って事じゃん」
「じゃあ普通って平均って事なんですか?」
若干口論のテンションになって、はっと我に返り沈める。
「とにかくだねー。普通なんてもの、考えたって出てこないわけよ」
「雑」
「そうだけど。普通なんて個人の意見ですみたいなさ、やっとけばいいの!」
「やけくそ」
「生きて行ければ普通なの、はい終わりーこの話終わりー」
木陰が乗り出して私の鳩尾に直撃した机を元の位置に戻して、姿勢を正す。
「で、木陰の哲学的な何かはどうした」
「無いですってそんなの」
「あるだろ話せオラ。私だけ恥ずかしい思いしたくないっての」
「じゃあ、今日二番目に話したかった事話しますね」
二つもあったんかいとはつっこまない。いつもそんなだから。
「私、異常でも何でも無かったのかも知れないんです」
「は?」
「だから。最初からちゃんと中学生やってたんじゃないかなって」
いやいや。あれのどこがちゃんとした中学生だよ。ちゃんとな中学生はそもそも原型を留めないまで殴らないよ。それこそ私が思う『普通』ではないよ。
「思春期とか反抗期とかだったんですよ、きっと」
あんなのが思春期として片付けられたら日本どうなるんだ! 反抗期どころで済まされたらお終いだよ!
「お兄ちゃんがいろいろ駄目になっちゃって、妹の私がお兄ちゃんの後釜にされるのが嫌だったんだと思います。思いますというか、実際そうでした。両親に、私の事を諦めてほしかった。勝手だけど」
わがままな中学生らしい、思春期の中学生らしい、反抗期の中学生らしい、正論だった。兄の尻拭いをさせられて、兄の分まで押し付けられて。『普通』の中学生であった木陰は、そんな事したくなかった。わがままで自分勝手で無責任で周りが見えない。それでこそ成長出来る中学生だから、楽な道を歩きたくて両親に嫌われるような事を無意識にしてしまった。でも自分はその気持ちに気付いてなかったから、両親に嫌われるとつらい。嫌いなのに嫌いになれないのは、家族だから。それが、当たり前。つまり『普通』。
「ちょっと無理があるけど、納得したよ。精神がもろいとそうなるのは、私が一番良くわかってるし」
私とは違うのに知ったかぶって、木陰を頷かせた。
「……誘拐が無意味になってしまった」
「すみません」
「良いの良いの。私もほっとしたところだから」
私は中学生をとっくに卒業したのに、まだ子供だ。未成年だとかそういう意味でもあるし、精神的な意味もある。木陰が異常じゃなかったとわかってほっとしているのは、楽だから。木陰の事で背負う責任が軽くなったから。木陰の事で死ぬほど悩まなくても良くなったから。残酷だ、私は。
「もう寝てきます。眠いので」
「おやすみ」
これでいつでも木陰は家に帰る事が出来る。私はほっとしているのだろうか。寂しいのだろうか。木陰はどう考えているのだろうか。誘拐したのは良いけど育児放棄で半分監禁状態で、木陰は何を思ったのだろうか。
私が何をすれば、人生の終わりまで見通せるのだろうか。
木陰の居場所を知っているのに、冗談で自首を勧めたりする猫柳刑事。彼が警察でどんな地位なのかはわからないが、扱いが難しい人間である事はわかっていた。刑事よりも探偵が似合っていそうな、煙草をくゆらせるただのおっさん。そう考えれば確かにそうだけど、何食わぬ顔で事件を解決する隠れたつわものと考えれば、そうとも見える。
最初はただ毛嫌いしていただけの猫柳が、私の脳内を侵食し始めていた。恋する乙女の方の侵食ではない。どの侵食かと聞かれれば困るけど、要するに猫柳が気になるという事だ。何度も言うけど、恋する乙女の心情の気になる方ではない。
猫柳が気になるというよりは、彼の目論見や動向が気になる。知っても何も変えないけど、それでも気になる。この誘拐事件が終わったら、するりと喋ってくれないだろうか。目論見だけでも。
別に良いけど。
そう思って、事務所の扉を開けた。
大学そっちのけで、バイト中心に回っているような私の生活。家かバイトの描写が繰り返される日常に、飽き飽きしているなんて事はない。でも、将来は無さそうだった。未来の自分、ごめん。
事務所に染さんの姿はなく、更衣室からはがたがたと騒がしい音が聞こえる。ダイエットの為にロッカーに体当たりでもしているのかと思ってノックをすれば、暢気な声が飛んできた。狭くてしょうがなくロッカーに体当たりしているだけだった。ほこりっぽい更衣室は、満員電車状態。人数があまりいないのに奥行きがあるから、こうやってロッカーに体当たりしなくてはいけなくなる。改善要望その一に挙げよう。
「おはようございます」
「おはほーほはいはふ」
更衣室でも何か食べていた。意地かと思う。
食べる事に無頓着な私にはわからない『食欲』というものが、染さんにはあるのだろう。
「傷、かさぶたになってますねー」
「剥がさないでくださいよ」
「えー。とか言うとまた怒るんでしょうね」
「そうですね」
にこにこ笑う染さんには悩みなんか無さそうで、羨ましくなる。そういう人が良い人だとは限らないし、そういう人が幸せだとも限らないけど。それに、そういう人こそ悩みを上手に隠す人で。人一倍悩んでいる。染さんがどうだかは、知らない。
「なーんか最近理屈っぽくて嫌ですねー」
「園継さんがですか?」
「はい」
「いつもですよー」
「あんまり良くない事ですね、それ。気を付けようと思います」
「別に良いですよー。賢い事の象徴じゃないですか」
「どうだか」
いつの間にか、染さんが頬張っていたジャムパンが消えていた。着替えをしながら手を使わずに食べられるなんて、どこかでそういう類の修行をしたのだろうか。ありえそうで怖かった。
「今日も晴れて良かったですね」
「そうですね。こういう暖かいのが続くと良いのに」
至って平凡な日常のように天気の話なんかをして、更衣室を出る。事務所は久し振りに閑散としていて、全体的に湿っぽかった。店からの暖気が漏れてくるのだろうか。
「何か最近は物騒ですけど、このコンビニは滅多に強盗とか入りませんよねー」
「こんなコンビニに強盗しに来たって、一ヶ月過ごせるか過ごせないかのお金にしかなりませんよ」
「それもそうですね。お給料も安いし」
『私もお給料少ないんだから、一緒にお出掛けしたら割り勘ね』と言っているようにしか聞こえないのは何故か。染さんと一緒に出掛ける機会なんてあまり無いな、そういえば。
「良いですねー。平穏な方が」
染さんが伸びをしながら店に出て行くのを見て、私も後に続いて事務所を出る。
早朝ならではの空気が窓の外から感じられて、清々しくもあり寒々しい。このコンビニだけ外の世界から切り離されているような、SF小説みたいな考えが脳裏を過ぎった。
「いらっしゃいませー」
新人の時に大して刷り込まれもしなかったお辞儀の角度を律儀に守って、頭を下げた。
この時間帯の客は疲れ切った顔をしたおじさんおばさんが殆どで、時偶髪色が凄い事になっている中学生高校生が来る程度。そんなに繁盛しているわけでもない。時代的にはコンビニが便利でも、特価品が多いスーパーが重宝される田舎だ。今更ながら、事件で有名になるような物騒な街じゃなかった。私が有名にしたようなものだけど。それも自意識過剰というもので、殆どの人間はテレビから聞こえるアナウンサーの声なんか聞き流している。
そうやって済ませてしまえば良い事件でもあった。
でも、そういうのは駄目だ。『普通』は、責任を持って幕を下ろす。
私の終演方法は、まだ見つかっていない。要するに、ぶっつけ本番。
今の私に一番近い例えは、『相手の両親に結婚を申し込みに行くような心境』だった。
どっかの小説かよと思った。誘拐犯が誘拐した子供の両親に挨拶に行くなんて。それも未成年。「酒でも一杯」なんて出来ない、自分で責任も取れないような子供。
それでも私は木陰より年上で、だからこそ、年上の役目を果たさなければいけなかった。
「いらっしゃいませー」
「グッドモーニング」
ニートの生活とほぼ同等なくらい時間を持て余していそうな猫柳刑事は、爽やかな笑顔で週刊誌の立ち読みを始めた。
猫柳に言われた「自分だけ」とか「心は見えないから」とかは、もしかしたら木陰が思っている事を知っていたから言えたのかも知れない。そんな読心術は超能力者並みだけど、私の表情や昼間の様子を見ているんなら読みとれない事もない。やっぱり猫柳は凄かった。というか、猫柳って何者? 超能力者とかマジパネェよ。
「お。唐揚げ値下げしてるー」
立ち読みか品定めかが終わった猫柳は、週刊誌三冊を手にレジへやって来た。
「じゃあ肉まん三つー」
唐揚げじゃないのか。のろのろと肉まんを取り出しながら、猫柳をちらりと見る。目が合った。
「何だい?」
「いえ、別に」
今度は猫柳が私を見つめる。乗り出しながら顔を近づけられて、思わず体を引いた。
「はっはー。さてはあれだね。終止符的な?」
ヨマレター。別にもう良い。ここまで来ると猫柳への信頼は分厚いのだ。
「猫柳さん」
「はいよ」
「明日、お話しましょう」
「明日? 今日は?」
「今日はピアノのお稽古が」
「無いだろ」
「まあ無いですけど。とにかくピアノの発表会が近いので無理です」
『お前の家にピアノを置くスペースなんて無いはずだ』みたいな視線を投げ掛けられたので、無視した。
「ふーん。どういう心境の変化っすか」
「それはカツ丼食べながら話しませんか?」
「その前に俺、必ずと言って良いほど取り調べ担当出来ないから」
あー、何となくそんな感じ。とか言ってみたいなー。たった今手渡した肉まん投げつけられそうで嫌だけどー。
「お釣りは要らないぜ」
「格好付けてるところすいません。二十五円足りないんですが」
「え、嘘」
財布を漁った猫柳は、べーと舌を出した。
「週刊誌やめー」
「全財産なんですね、この会計皿に乗っているお金が」
「そ。あとは本屋のポイントカードと六セントと一三〇〇ウォンと五十二ユーロが入ってる」
こいつ何なんだ。本当に何者なんだ。
「お預かりします」
レジを打って、出てきたレシートを取って、お釣りを渡す。
「領収書要らないから」
「要らないなら言わなくても良いんですよ」
「いや。俺が領収書男だと思われても困るし」
「思ってないし」
「敬語を使え」
そういうところには厳しい猫柳だった、ちゃんちゃん。
「ありがとうございましたー」
「んじゃ明日ねー」
モップで店内を掃除していた染さんがすすす、と寄ってきた。
「うふ。遂に念願のデートで「違いますけど」
「すーいーまーせーんー」
唇を尖らせる染さんに背中を向けて、有線放送に耳を傾けた。店長、さぼってませんよー。
なるべく綺麗な状態でご両親に見せたいと思って、きちんとトランプケースに入れてきた。木陰がトランプを持っていたから。準備良す以下略。
木陰が両親宛に書いてくれた紙を持って、木陰邸へ向かう私。下見はあまり意味が無く、頬に擦り傷を作っただけとなった。
木陰が何て書いたのかは知らない。バイトから帰ったら渡されて、そのままトランプケースへ行きそして今は私の鞄の中。家に行くんだと教えてもいないのに『これ渡してください』と言って来たのは、私がわかりやすかったからだろうか。人の手紙を読むような趣味は無いから見ずにいるけど、きっと木陰が両親に伝えたくて仕方が無い事なのだと思う。恋文のような、直接渡すのがはばかられる想い。キューピッド役をきっちり果たそうと思った。
恋文なんて甘酸っぱいものじゃないよねーと思いながら、木陰邸を目指す。もう見えていた。だいぶ上に。空と同化してしまいそうな真っ白な豪邸が、木々と電柱の間から見える。あんなとこに住みてーと思った。
お金持ちって羨むようなものじゃないよ派と、俺金持ちだぜ良いだろ派があるけど、木陰は間違いなく前者だ。親戚はあまり親しくないと言っていた気がしないでもないので、そういう人付き合いが得意な社交派では、まず無い。
青くても灰色に見えてしまうような空に浮かぶ雲が、ソフトクリームみたいだった。
表札の文字が見えるところまで来て、いきなり汗が噴き出してきた。白目剥きそう。
家のような短く響かない音ではなく、深く奥行きのある上品なチャイム。こちらには音が届かないから想像でした。チャイムから薔薇が生えてきそうな、レースでも付けたらいいようなチャイムだった。
『どちら様でしょうか?』
良く通る若い声が機械を通して聞こえてきて、背筋が伸びる。恐らく男性の声。カメラみたいなのが付いてるから、こちらが見えるのだろうか。そう思ってまた一段背筋が伸びた。
「木陰美鳥から、預かり物がありまして」
ごほん、と咳払いのようなものが聞こえて怯む。
『悪戯なら、お入りいただく事は出来兼ねます』
私より誘拐犯が似合う、威圧感のある一言だった。その一言を退けるために、トランプケースからメモを取り出す。木陰の字が書いてある方をカメラに向けた。
「どうです?」
何だろうこの優越感は。こんな時に。
『少々お待ちください』
少しの沈黙の後その声が聞こえ、少し安心する。
数秒ほどで奥の扉が開き、クラシックなスーツに身を包む男性が出てきた。久弥さんくらいの年齢だと思われる、上品な男性。俗に言う『執事』とやらか。だんだん、木陰にコンビニ弁当とか出していた事に焦りを感じ始めた。
「お待たせいたしました」
金属の擦れる音がして門が開き、男性に誘導されるままお邪魔する。木陰邸、思ったよりデカい。玄関は、家のトイレとお風呂を合わせたくらいの広さ。
「こちらで、お座りになってお待ちください」
応接室のようなところに案内され、言われるがままにソファーに腰を掛ける。まるでマニュアル通りだと言わんばかりの完璧な微笑で一礼した執事(仮)さんは、足音も立てずに退室した。
言わずとも、私の家が木陰邸のトイレより価値の無いものである事を想像するには容易過ぎる豪邸。外観より内観。くらくらするほどに遠近感の掴めない場所だった。
一番最初に木陰に言った、「しがないコンビニバイトのお姉さん」という言葉。あれは遠い昔、過去の自分であった。もともと「お姉さん」は撤回しようとしていたし、誘拐犯だし、刑事の知り合いがいるし、コンビニでバイトしているのにありえないほどデカい家にお邪魔しているし、最早「ただの変人」。虚し過ぎる。
二十歳を迎えようとしている今、私の人生は右膝下がり。急降下中でお先真っ暗、将来に希望無し。それでも後悔が無いという事だけが、ある意味の救いとやらだった。
「お待たせいたしました」
ノックと共に声が聞こえ、脱力し切っていた全身の筋肉を吊り上げる。
開いた扉から入って来たのは三名。執事(仮)さんと、木陰のお父様らしき人と、木陰お母様らしき人。
「旦那様、こちら……すみません、お名前お伺いしてもよろしいでしょうか」
「園継、静紅です」
一瞬フルネームを名乗る事を躊躇ったが、不信感という物を少しでも拭っておきたかったので、しっかりと本名を名乗った。そして、旦那様という言葉から執事(仮)さんが執事である事を確信した。
「美鳥から預かり物があると聞いたが」
何をやってもオーラや品格を隠し切れないような、木陰のお父さん。厳格だろう事は、すぐにわかった。
「これです」
トランプケースからメモを取り出し、四つ折りのまま差し出す。そのメモを開いた木陰の両親は、少し表情を緩めた。
「これが美鳥の字である事は間違いない。いろいろと話を聞きたいので、座ってくれるか」
「その前に」
風船が割れるような音と共に、左頬に鋭い痛みが走る。倒れる事は無かったが、少しよろめいた。木陰のお母さんに叩かれた頬は、少しずつ熱を手に入れる。右にも左にも、頬にはみっともない跡がついてしまった。
「家出か誘拐かはっきりしていないけど、あなたが美鳥と接触しなかったはずないわ。誘拐事件として捜査されている事も知っているはずよ。それなのに今まで私達に黙っていた。私達がどれほど美鳥を心配したか、わかりますか」
何も答えられなかった。いきなり叩くなよとか、このしっとりした女性が躊躇せずに! とか、意外性で衝撃的だったのもある。もう一つは、よくわからない。今まで持った事のないような感情だった。
「言いたい事はそれだけです。大丈夫ですか」
何も起こらなかったように平然と私に手を差し出す木陰のお母さんを見て、こういう人だから木陰みたいなのが生まれてくるんだなと思った。私と同類のようなお母さんの手を借りて、立ち上がる。
「どうぞお座りください」
いつの間にかテーブルには紅茶が出されていて、気付いた途端良い香りが鼻腔をくすぐった。
頭の回転が扇風機並みに見える木陰のお父さんと、不老不死ですと言われても疑えないような木陰のお母さん。机を挟んで対面している私と、お二方の後ろにひっそりと立つ執事さん。「娘さんをください」とか言えそうな雰囲気だった。実際は、いつもは快調な冗談が腐るほど異様な雰囲気だ。
「美鳥は今、どこにいる」
「私の家に」
「何故だ」
「本人は家出と言っていました」
うっそぴょーん。今は両親から話を聞きたいだけなので、お手軽に済ませる。
「家出の理由はわかりますか」
「さあ」
とぼけたわけではない。はっきりと断言出来るような理由は、木陰からは聞いていないからだ。それに、曖昧なものを繋ぎ合わせるだけでも今は少し時間がかかる。
「夫が怒鳴ったら家を出て行ったのだけど、その事は聞いていませんか」
「少し」
「園継さんと言ったな。これを見たか」
四つ折りのまま差し出されたメモに、首を横に振った。
「見てくれ。そして、いろいろと教えて欲しい」
私の前に置かれたメモを手に取り、開く。そこには癖のある木陰の字で二行だけ、両親に宛てたメッセージが書いてあった。
『私は、お兄ちゃんにはなれません。木陰美鳥だからです。
お兄ちゃんになろうとも思いません。木陰家の長女で、妹だからです』
正直なところ、このメッセージを正確に読み取る事は私には出来なかった。それもそのはずで、木陰はきちんと両親を想い、両親にぶつけたのだ。木陰のお父さんお母さんにしかわからないはずの、二行。
「木陰蒼を知っているか」
「はい。ニュースで見ました」
「それが美鳥の言う兄なんだが、美鳥は蒼について何か言っていたか」
「嫌いになりたくてもなれないし、好きだと認めたくもない。そんな事を言っていた気がします」
木陰の口からその文章を聞いた事は無かった気もするが、記憶の断片を繋ぎ合わせたら何となく枠が見えたから。適当な受け答えばっかりだなー。帰ったら木陰が尋問されるだろうから、その時正直に話してもらうとする。
「この紙に書かれた文章について、今から話します。全てでなくても良いから覚えている事を、あなたが家に帰ってから美鳥に伝えてください」
えー自信ないなー。それでも口は勝手に動く。
「わかりました」
口が勝手に任務を引き受けたから、後は口に任せた。
「蒼はご存知の通りああなってしまったけれど、蒼の代わりに美鳥に全てを負わせるつもりは無かった。ただ、蒼と同じ道を辿らないよう育てたかっただけ」
木陰のお母さんの手が紅茶のカップに伸びるのを見て、同じタイミングで私も手を伸ばす。大事なところでいつも喉が渇いてしまうから、出来れば全部飲み干しておかわりしたいくらいだった。
「蒼にも精一杯やってきました。けれどああなってしまったから、今度はもっときちんとしなければと思って。今思えば、美鳥の何もかもを規制してしまっていたわ」
メモを手に取り、じっくりと眺める木陰のお母さん。木陰のお父さんは、木陰のお母さんに全て任せているようだった。
「美鳥が蒼から暴力を受けている事も知っていたわ。それでも蒼は私達の息子だから、少しの可能性であっても何とか更生させたかった。そのために、美鳥のケアが疎かになってしまいました」
溜まった涙をハンカチで拭き取った木陰のお母さんを見て、すれ違っただけなのかも知れないと思った。木陰の話を聞く限りで想像していた両親像は、何もかもを見てみぬ振りして世間体だけに必死にしがみついているというようなもの。でも実際は、何もかもを守ろうとして、何もかもを正そうとして、自分達に関わる人間を全て幸せにしようとして、手に負えなくなってしまった、未熟な親。どちらも大差ないかも知れない。けれど木陰が正しい道を進める可能性は、現実の方が存分にあった。
「美鳥と話がしたいと、伝えてくれ」
ハンカチで顔を覆うくらい涙を流し始めた木陰のお母さんの代わりに、お父さんがそう言った。少し照れているのか何なのか私とは目を合わさず、紅茶のカップで顔半分を隠しながら。ふと、私の父に似ているなと思った。
「蒼がいなくても何も変わらないから好きな時に帰って来い、とも」
娘の事を一番に考えて、その上娘に甘い。でも厳しいし、頑固。木陰は幸せじゃないか、と羨ましくなった。木陰蒼も、嫉妬という感情を含んでいたのかも知れない。
「わかりました。木陰、……美鳥さんにきちんと伝えます」
「よろしく頼む」
頭を下げられてどうしたら良いのかわからなかったので、コンビニバイトで培った接客スマイルを使った。執事さんに対抗心が芽生えたかも知れん。
「お送りして」
「かしこまりました。園継様、こちらへ」
退室する際に挨拶をしたら、ありがとうと言われた。良い人過ぎるんだな、木陰家は。美鳥も蒼も母も父も。空回りという言葉が似合う、人より少しズレた家族。これまでの行いを忘れて、自然と笑顔になってしまった。
「つ、か、れ、たー」
このまま寝てもいいような疲労感に襲われた。戦の最中に睡魔まで襲ってきやがった。木陰がシャワーを浴びる音でさえ心地良く、瞼にセロハンテープでも貼っていないといけないくらいに重い。
この運動不足の体に無理矢理ウォーキングをさせてしまったので、体のあちこちが悲鳴をあげていた。本気で大丈夫か自分。
あ、今寝てたかも。意識ガトンダ。やばいぞやばいぞー。これは、ひ「わあぁぁぁぁ!」
「うぉっ! ……たー」
悪戯っ子な笑みを浮かべる木陰が、「ざまーみろ」と意味不明な事を言った。何がざまーみろだ。おかげで目はさっぱり覚めたけどさ。
「髪の毛きちんと乾かしなさーい」
「だってドライヤー無いじゃん」
「そういうね、マジな受け答えはナッスィングで良いのよ」
「へいへい」
グレーのスウェットにぽたぽたと水滴を垂らしながら、肩に掛けていたバスタオルでごっしごっしと乱暴に水をとばす木陰。私達の間にある机に、雨が降った。
「ねえ、木陰」
「はい?」
「木陰のご両親からね、伝言があるの」
とぼけた不思議な表情のまま、木陰が固まった。変な音とかは出していないから、このまま勢いに任せて喋ってしまおう。
「美鳥と話がしたい、とお父さんが」
頭をぐるぐる回して、記憶の中を駆ける。
「蒼がいなくても何も変わらないから、好きな時に帰って来いと。これもお父さんが」
まだ固まっている木陰を解す為に、ふざけた事を言ってみた。
「執事さん、セバスチャンとかいう名前じゃないよね?」
「んなわけねーだろ」
口調が砕けた木陰が「純日本人だ」と付け足す。いよいよ似てきたなー。困るなー。
「林山銀三郎って言うんですよ」
セバスチャン要素なんて、欠片もねがっだべな。
「で、どうする? っていうか、どう?」
「どうって?」
「何か思った? 親御さんの言葉を聞いて」
「何も」
「嘘つけ。ま、言わんでもええけどなー」
似非な関西弁を使って、曖昧にぼかした。言いたくない事は言わなくてもいい。無理に聞き出すような事はしない。
「美鳥ちゃん可愛ええね」
「何ですか急に」
「中学生なんだなーと思って。まだロリコンの許容範囲である中学生なんだなーと思って」
「言い直すな」
私と同じ十代なのにとてつもなく小さく可愛く思えて、頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「うおっしゃあ! 死ぬぞ!」
「何じゃそりゃ」
勢い余って机をひっくり返したかったが木陰が危なかったので、代わりに持ち上げた。重かった。でも、木陰が笑っていたから良かった。
「私、コンビニ弁当って初めて食べたんですよ」
狭い布団で肩をぶつけながら、木陰がそんな事を言った。
「人が生活している部屋にくもの巣が張るというのも、初めて知りました」
くそう。こいつ痛いところをつくな。
「お風呂にかびが生えるのも、もちろん初めて知りました」
くそう!
「この家に居て、初めて知った事がたくさんあります」
私が起きている事を知っているのか、それとも聞かれなくても良い事なのか、私の返事は求めていなかった。だから、黙って聞く。
「木陰美鳥を、初めて知りました。初めて全て、理解しました」
そこでずずっと鼻水を吸う音が聞こえて、木陰が泣いていると気付いた。
「ありがとうございました、静紅さん。感謝しています」
寝返りを打って布団を頭まで被った木陰に、一言だけ投げた。
「おやすみ、美鳥」
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
しっかりと鍵を掛け、深呼吸をする。冷たい空気が肺に流れ込んで、空気を吸ったという気持ちが持てた。
時間を指定していないにも関わらず、猫柳がいた。近くに移動手段と見られる車輪付きの乗り物は無く、猫柳だけがそこにぽつんと立っている。いつものような、締まりの無い私服だ。
「グッドモーニング、静紅」
「お早うございます」
「今日バイト?」
「いえ」
「大学?」
「いいえ」
「じゃあ何で出掛けんの」
じゃあ何でお前そこに居んの、と心の中でだけ言っておいた。昨日残ったご飯では私の朝食は足りなかったので、染さんが店番中のコンビニへ不味い肉まんを買いに行こうと思っていたところだった。が、別に言わず。
「猫柳さんが居るから、何となく出て来たんです」
「何かくれんの?」
「何もありません」
「お前変だよ」
「一番言われたくない台詞を一番言われたくない人に言われたー」
「まあまあ。予約済みだし、どっかの公園ででもゆっくり話そうぜ」
そう言って、こちらに向けて何かを投げた猫柳。その物体をナイスキャッチとは行かず、不細工に取り落とした。金属系の音を立てて、赤褐色の階段を落ちていく物体。私もそれを追いかけて階段を下りた。
「あーあー。へこんでんじゃねー?」
コロコロと転がる物体を取る。缶のコーンスープだった。缶に付いた砂利を払いながら、猫柳の方を向いた。
「へこんでませんでした」
「そうか」
「猫柳、こ「猫柳さん」
そんな睨みつけなくても。
「猫柳さん。これ貰っていいんですか」
「俺に階段を転がり落ちらコーンスープを飲めと?」
「有り難く頂戴します」
何か怖かった。取り除かれていた刑事要素を、今日の猫柳はばっちり取り込んでいる。
「この辺に公園とかない?」
「ありますよ、そこに」
アパートの方を指差した。アパートの裏に、ブランコとすべりだいだけの公園がある。
「近いし、じゃあそこで」
歩き出した猫柳に続いて、冷たいコーンスープの缶を手で転がしながら公園へ向かう。猫柳と一緒に歩いているのを目撃されたら嫌だなあと思ったけど、変な噂を流すような知り合いは染さんくらいしか居なかった。
草生えっぱなし、木は枯れ放題、こんな公園でなんか誰も遊ばないよと言ってあげたくなる公園だ。砂を一通り落としてからブランコに座り、揺れる。猫柳は別段楽しそうでもなく、妙に憂いを帯びた悩む大人のようだった。
「何話したい?」
「猫柳さんが何で私に付きまとうか」
「別に付きまとってねえよ」
「いいから話す」
鼻水をすすった猫柳は、変な呻き声を数秒間あげてから話し出した。
「俺の妹の話な。家出して、自殺した。家出したのが彼氏の家で、俗に言う心中って奴よ」
何故か私の周りには『死』というものが転がっている。それは、最近気付いた事だった。
「最初はただの家出だったんだけどな。そういう空気になって手首切って、妹だけ死んで、その彼氏は生き残った」
しかもその『死』は不公平で、不平等で、黒い。
「意識が戻った彼氏の話を聞いて、俺の姉貴が放った一言目。何だと思う?」
猫柳さん。私を保護した刑事。
「空気って何だよ、って。ただの酸素と二酸化炭素とその他の集まりが、何を語るって言うんだよ、って」
「不謹慎で申し訳ないですけど、面白い人ですね。猫柳のお姉さん」
「ひっそりと猫柳っつったな」
「すいません」
プルタブに手を掛けて、思い切り引っ張る。三回目でようやく開いた缶のコーンスープは、冷たくて粉っぽくて不味かった。
「というわけだから。別に誘拐された子供と誘拐犯は心中しないけど、その空気に俺が何かを混ぜようと思ってさ」
猫柳もコーンスープを飲んで、「マズ」と顔をしかめた。
「……誘拐事件が始まった時、俺謹慎中だったから暇で。それもあるかな」
何をやらかしたんだ、猫柳。
「別に大した理由は無いって事よ。俺の姉貴から聞かされてた話もちょっとぐらいは影響してるけど、暇だったってのが大部分だな」
姉貴から聞かされてた話。それが私とネネさんの事であっても、別に思う事は無い。
「あと、おまけの話」
ブランコを一漕ぎして揺れる猫柳が、こちらを見ながらにかりと笑う。
「俺の名前、杏里っつーんだぜ」
似合わない。そう思ってしまった。
「姉貴の名前が杏奈で、妹が杏子。関連性ばっちし」
ハイジの如くブランコを漕ぐ猫柳は、心底楽しそうに声を張り上げる。
「でも俺達全然似てるとこ無くてさ。名前だけが何となく連なってて。でも字って目にはっきり見えるじゃんか。同じ杏って文字が並ぶから、姉貴も妹も好きだった。要はシスコン」
ぎしぎしと音を立てるブランコなんか気にも留めず、漕ぎ続ける猫柳。私は、猫柳らしさが全面に出たおまけ話を楽しんでいた。
「姉貴の真似もするし、妹の死を引き摺りもする。俺はそうやって生きてこれたけど、静紅ちゃんはどう?」
唐突に話を振られ、すぐに口を開ける事が出来なかった。その間も、猫柳はブランコを漕ぎながら喋り続ける。
「今生きてるからそれで良いんだけどよー。何つーか……。生きてるって確信しながら生きて行かないと駄目なんだよな、俺が思うに」
何となく理解出来た。不味いコーンスープで喉を潤しながら、うんうんと頷く。それに気が付いた猫柳は、力強くまたブランコを漕ぐ。
「俺、自分で思ってる事があんだけど。聞いてくれる?」
「はい」
「俺って多分、死なないと思うんだよな」
馬鹿な事を考える大人が居た。
「俺は死なずに、俺の外側だけが死んでいく。脱皮的な何かで、俺は数千年って生きてきたんだと思うわけよ」
漕ぐのをやめたブランコは、だんだんとふり幅が小さくなっていき、やがて僅かしか揺れなくなる。
「だから死ぬのは怖くない。俺が怖いのは、本命と遊びの女同士が鉢合わせしてぼっこぼこに殴られる事だけだ」
冗談なのか違うのかはわからないが、猫柳は苦笑いだった。
「いや、うん。何が言いたいのかっていうとだね」
しばしの沈黙の後、猫柳は。
「別に言いたい事は無かった。喋りたいだけだったのだ」
と、いつもの調子で言った。
「ああ、言うの忘れてた。これ一番重要なんだったよ」
空き缶をごみ箱に投げ入れて、ガッツポーズついでにという感じだった。
「木陰美鳥の両親が、捜索願を取り下げたよ」
「……見つかったんですね、木陰美鳥ちゃん」
「そうだ、見つかった。多分、家族のあり方とかも全部ね」
格好付けた猫柳が、何となく格好悪かった。
猫柳と別れた私は、ひたすら歩いていた。冬が頭を出しているかのような寒さで、もう秋なんて要らないと思った。
コンビニはすぐそこまで見えているのに、なかなか自動ドアをくぐれない。もどかしくて走りたくなったけど、顔に当たる風が冷た過ぎて断念した。
「あ、」
「園継さん!」
コンビニ前に停めてあった黒い車から出てきたのは、芹澤さんと久弥さんだった。久弥さんの方は別に私に興味なんか無さそうで、額を掻きながらコンビニに入ってしまった。別に興味を持って欲しいわけでは無い。そういう人なんだなと思っただけで。
芹澤さんの方は、まるで子犬のように走り寄って来てくれた。
「何か凄い久し振りな気もするんですけど、そんなに久し振りでもなく」
「そうですね。むしろ初対面から急接近してますもんね」
「今日はバイトじゃないんですね」
「はい、今日は赤谷が居ますよ」
「そうですか。でも会えて良かったです!」
にこにこと手を握る芹澤さんの体温が凄く低くて、変な仲間意識を持ってしまった。
「久弥さ、あれ久弥さん?」
「中に入ってましたよ」
「え、本当ですか! ちょっと久弥さん!」
コンビニに駆け込む芹澤さんを見て、何となくだけど、久弥さんの事が好きなのかなと思った。しかも芹澤さんは、恋愛に疎そうだ。ひっそりと応援する事にした。
「いらっしゃいま、……こんちわ」
「何で言い直すんですか」
「だってお客さんじゃないじゃないですかー」
「じゃないじゃないって、何言ってるのかわかりません」
染さんの言い訳を軽く受け流して、芹澤さんと久弥さんというか主に芹澤さんが文句言っている横を通り過ぎて、アイスコーナーで立ち止まる。奮発してハー○ンダッツにするか、金持ちに庶民的な気分を味わってもらうべくガリ○リ君にするか、悩む。
そろそろ木陰は帰れるし、せめて今日だけでもぱーっとお別れ会みたいにしたいと思ったのだ。だから結果的に、奮発する事にした。ちょっと贅沢、ハー○ンダッツ。
「じゃあ芹澤さん、私はこれで」
「あ、はい! お気を付けて」
レジにアイスを持っていくと、染さんがじーっと見つめていた。
「肉まんどうです?」
「何でですか」
「今日は私以外買う人がいなくて。ふー。何でこんなに人気無いんでしょうか。他の店舗では売れてるのに」
という会話をしつつ会計してお釣りとアイスを受け取って、来客通知音を聞きながらコンビニを出た。
外は寒い。
コンビニを出てから歩数を数えていたけど一五七を過ぎた辺りから面倒になって数えるのをやめたくらいの頃、家に着いた。鍵を鍵穴に差し込む。ドアノブを捻、あれ。もう一度鍵を差し込んで捻り、ドアノブも捻る。開いた。何故? そこに木陰の姿は無い。簡単だった。
机の上にメモ一枚だけを残して、木陰は帰った。
静紅さんへ
たくさん迷惑をかけてしまったのに、勝手に居座った自己中心的な人間なのに。
何も言わずに家出を終了させてしまって、ごめんなさい。
きっと静紅さんは、きちんとしたお別れ会をしたいなんて考えていたと思います。
でもそれだと、私は帰りたくなくなってしまうから。
私にとって静紅さんは忘れられない人になると思うし、もちろん忘れたくないです。
少しの間だったけど、たくさんたくさん、ありがとう。
私も頑張るから、静紅さんも頑張って。
追記。誘拐事件は終わりました。それに、私の家にはテレビがあります。
出頭したら、自殺するからね。嘘じゃないよ。
あともう二十歳なんだから、ちゃんと親孝行してください。
仕送り貰ってるのに何も言わないなんて、私以上に恩知らず。
木陰 美鳥
中学生の、むかつくような丸っこい字。そんなのが格好付けて、見苦しいったらありゃしない。
アイスは染さんの胃に行きそうだから、明日バイトに行ったら肉まんと交換してもらおう。
そして偉そうに書かれた最後の二行を実行するために、充電器から携帯電話を引っこ抜く。電話を掛ける為だ。
「もしもし? 私、静紅だけど。週末、帰るね。姉さんのお墓にもちゃんと寄るから」
『俺と家族と肉じゃが、木陰蒼』
ここの暮らしも、もうすぐ折り返し地点だ。暮らしというと快適な雰囲気が漂うが、全く快適じゃない。そろそろ脱獄でも試みようかと計画を立てているところでもあるし、きっとここから早く出たいと思っている、んだと思う。最近、自分が良くわからない。
脱獄計画を書いた紙は、まだスカスカだった。空白は目立つが、もう書く事は終わりだ。何も計画を立てずに脱走して、またここに入れられる。それでここの暮らしは伸び続け、俺はここで死ぬ。
俺を捕まえた刑事が、変な事を言っていた。変なのは言葉だけじゃなく外見もだったが、そいつは俺に宿題を出した。
「家族って、何だろうな」
刑務所を出るまでに答えを出しておけとも言われた。その時の俺はオッサンの戯言だと思って聞き流していたが、まだ鮮明に覚えている。何せ、ここは暇だ。やる事はあるが、考える事がない。だから暇つぶしにと、この問題を解いていた。だが、全くと言って良いほどにゴールに近づけない。俺にとっての家族とは何だったのかも、遠い昔の事のように思い出せない。だから俺は、まだここを出られない。こんな見てくれでも、俺は意外と律儀なんだ。自分で勝手に守っているだけだが。
またいつものように工場へ行って仕事をして、また戻ってきて。俺は最近、誰とも話していなかった。一言二言はたまに交わすが、しっかりと『会話』というものをしていない。だがそんな俺に、面会人がやって来た。
少し髪が伸びて大人っぽくなった妹が、俺に会いに来た。今更、とは思わなかった。
「今ね。お兄ちゃんの好きな肉じゃが、お母さんに教えてもらってるの。帰ってきたら、作ってあげるから」
ああ、とかうん、とか。俺の返事はそんなんばっかりで。それでも喋り続けて、最後に妹は俺に向けて言った。
「私、頑張って変わったから。お兄ちゃんも、頑張って変わって」
人に頑張れなんて無責任な事を言わない性格だった妹が、図々しく言い放った。それは突きつけるようで、かと言って手放すわけでもなく。俺が昔会った誰かに似ている気がした。
そう言われた俺は、刑事から出された宿題を全て終わらせた。夏休みのように後回しではなく、その日のうちに。だから早く、ここを出たい。
そう思って、脱獄計画表をごみ箱に投げ入れた。
『恋の理由、芹沢睦月』
これが恋煩いというものか。
私は数年前、いやもっとか。刑事という職業に就き、久弥さんと出会ってからずっと。久弥永という人に恋をしてきた。それはきっと、実らない。
久弥さんには多分、想っている人がいる。綺麗な女性と久弥さんの二人で写っている写真が、久弥さんのデスクに置いてある。写真立ては木製で、何というか。ああ、大切にしてるんだなってわかるような扱い。
久弥さんはその写真について聞かれると、「ああ、まあ」とか「いや、ちょっと」とか、曖昧にしか答えない。だからまた困るんだけど、はっきり言われてしまうと傷付く答えが返って来そうで、もう本当嫌だ。
その久弥さんは、今日は半休。久弥さんが居ないからつまらないので、事件が起きない事も重なって机でだらけている。本当は書類作成とかいろいろやる事があるんだけど、やりたくない。仕事にも慣れてきた所為か、最近は全くやる気が起きない。はー、駄目だ。
久弥さんと行動が一緒になる割合は、二分の一。私はお荷物扱いだから、同じくお荷物の猫柳さんか、親がお偉方だけど何も脳が無いお邪魔虫の久弥さんか。どちらかと組まされる。猫柳さんは時々単独行動をするし謹慎になるから、二分の一よりももっと多い。それなのに、足りない。何が足りないのかと聞かれれば、うん、まあ、愛だ。
あーあー恥ずかしい。何が愛だよ、全くもう。首をぶんぶんと振っていたら、隣の金沢さんに驚かれた。恥ずかしい、二段重ね。豪華になってもしょうがないよー!
「仕事しろむーちゃん」
「職場でその呼び方はやめてくださいって言ってるじゃないですか!」
持っていた孫の手で、思いっきり叩いた。っていうか、何で職場に孫の手? 何故猫柳さんが刑事を続けられるのかがまず、良く分からない。
「芹澤くん、もう少しで聞き込みだよ」
「捜査会議で寝てた人が偉そうに」
「瞼に目書いといたんだけど、やっぱしバレてたっぽい?」
「それでバレないって思う方がどうかしてますよね!」
金沢さんに静かにって言われたから黙るけど、本当はもっとガミガミ言いたいくらいだ。
恋焦がれる相手がいても世話が焼ける面倒な人がいても、刑事は楽しかった。今では、きちんと『刑事』を出来ていると思う。こんな事してたらまだまだ出来ていないに分類されてしまうけど。でも、刑事という職務をこなしている自分に、理由を求めなくなった。
よし、今日も刑事っちゃうぞー。
『願望はモルモット、林山銀三郎』
最近、私の仕事が増えた。
仕事が増えるのは良い事だ。旦那様も奥様もお嬢様も、それぞれがやるべき事を夢中になってこなしている事の象徴だからだ。
そして私の仕事が増えると、この家は綺麗になる。私の掃除能力は、自他共に認めるほど高い。旦那様や奥様が掃除なされるよりも、私が掃除した方がはるかに片付く。
応接室の掃除を終えて、リビングの掃除を始めた。この頃は旦那様の書類が少なくなったので、少々楽ではある。旦那様の身の回りのお世話をさせて頂いていたのも、殆どご自分でなさるようになった。
それと旦那様は、何故かペットを飼い始めた。始めは小動物からと仰って、その言葉通りモルモットを飼い始めている。全てご自分でお世話をなさるから、私はモルモットに触れてさえいない。少し残念だ。
奥様はお嬢様との料理の時間をとても楽しみにしていらっしゃるし、お嬢様も最近コンビニのアルバイトを始めたらしい。何やら楽しそうで、私も安心する。
お嬢様は今日、お坊ちゃまの面会に行かれたようだった。私もお坊ちゃまのお顔を拝見したかったのだが、執事としてこの家に残っていなければいけない。お嬢様が帰って来た時にお話ししてくださるだろう、と期待している。
一騒動あった数年前から、ここの家族は劇的に変化している。良い方向に、だ。客観的に、けれど一番近くでその変化を感じる事が出来る私は、本当に幸せ者だと思う。
旦那様が柔らかくなられ奥様が凛々しくなられ、お嬢様は働く事に喜びを感じられている。私も、この家にお仕え出来る事は誇りである。そしてもちろん、喜びでもあり楽しみでもある。
私は出来れば、この家で人生の最後を迎えたい。そう旦那様にお話しした事があった。処理が面倒だから庭で死んでくれ、と言われた。別に、血を流して死ぬつもりはない。
奥様にもお話しした事がある。あなたが望むなら札束でベッドを作ってあげるわ、と言われた。奥様は律儀な有限実行タイプであるから、もしかしたら実現するかも知れない。
お坊ちゃまにもお話しした事がある。暖炉にでも突っ込んでやるよ、と言われた。火葬の退屈な時間が縮まるから、らしい。お坊ちゃまになら、暖炉に投げ入れられても構わない。
お嬢様にもお話しした事がある。死ぬのは駄目ですよ、と言われた。一千年でもこの家にお仕えしようと思った。
ふと、リビングに飾ってある家族写真が目に留まる。お坊ちゃまの年齢が一桁の時に撮ったもの。もう随分前の写真だった。
お坊ちゃまが帰っていらっしゃったら、私が撮って差し上げよう。モルモットは、その頃まで生きていられるだろうか。
『ホワイトデーの別れ、久弥永』
今日は、彼女の命日だった。
担当していた女子高生の患者が自殺して、それを追うように首を吊った精神科医の彼女。俺の婚約者だった。
あれから十年経った今、まだ彼女を忘れられずにいる。赤谷とばり。墓に刻んである文字に触れて、ポケットから指輪を出した。婚約指輪になるはずだったもの。そっと墓に置いた。
とばりは、今の俺を何と言うだろうか。とばりが生きていた時は「チョコレートっぽいかな」と言われた。美味しいのに保存が面倒だから。とばりらしい答えに、俺は思いっきり笑った。
十年前に死んだ彼女を忘れられず、もういい歳なのに恋愛も出来ない。結婚なんてもっと先の事で、下手すれば孤独死。こんな俺に、まだとばりは笑いかけてくれるだろうか。
情けない。そうとばりに言われた気がした。アタシは墓なんか要らない。霊になって誰かに憑くんだから。そう言ったとばりが、どこかへ飛んでいった気がした。
俺は世間から嫌われているわけではなかった。少なくとも一人、俺を好いてくれる人がいる。とばりを忘れずに、その子と楽しくお付き合い出来る自信が無い。むしゃくしゃするし、いらいらもする。俺が淡々と生きていけばいずれは死ぬし、駄目駄目な人生を送ってもどうせ死ぬ。人間である以上、最後は必ず死に至る。それが、許せない。
もっと生きたい。そう思うほど生に貪欲であれば、いくらか楽なのかも知れない。でも俺はそんな事を思えない。とばりが死んで、俺も死ぬ。そういう決意が揺らがなければ、死ぬ事なんて怖くなかった。が。俺は、生きたいと思ってしまった。
俺を好いてくれている女性を、守りたいと思った。つまり、好きだという事。とばりを忘れて、その子に恋をしてしまうという事。どうしていいかわからなくて、空を仰いだ。
「あ、」
声がして、振り向く。いつも寄るコンビニでバイトをする、とばりの妹だった。俺はとばりの妹だと知っていたが、相手は俺がとばりと婚約していた者であると知らない。彼女は驚いているのか違うのか、ぽけーっとしながらこちらへ歩いて来た。
「誕生日に来たら、お姉ちゃんにワケアリ振るなって言われた気がしたんですよー。だから素直に命日に来ました」
そう柔らかく笑う彼女の言葉に、ずしりと何か来るものがあった。『素直』か、と思った。素直。思っている事をそのままにやれば、良いんじゃないのか。
「えーっと、刑事さんでしたよね? 何でここに?」
そう首を傾げる彼女に、俺はこう答えた。
「とばりを、綺麗な形で思い出にしたくて」
帰りに、チョコレートでも買って行こうと思う。
『中年の宿題、猫柳杏里』
俺はオッサンらしい。
この歳でオッサン呼ばわりされるとは昔の俺は全くもって思っていなかったが、言われてふと振り返ってみると確かにオッサンだ。俺が若い頃に親父がウザかったように、芹澤は俺がウザいんだろうか。そりゃショックだなー。
聞き込みを行う範囲が広く、俺らは車で移動中だ。若い子を助手席に乗せたいとは思っていたが、芹澤以外と思っておくべきだったな、昔の俺。
芹澤はずっと前から永に恋をしていた。それの相談、つまり恋愛相談とやらに乗っていた俺だったが、最近全く付いていけない。最近の若いのは、何でこう消極的なんだ。もっと前へ行けと言いたくなる。
芹澤は、五年以上前からずっと同じ事ばかり言っている。「久弥さんは私の事なんて、これっぽっちも考えてないんです」。聞いてみなきゃわからんだろ、とはもう言わない。芹澤は聞けないからだ。
芹澤と永のキューピッド役をしようなんては、全く思っちゃいない。若い子と喋るような機会も俺と喋ってくれるような若い子もいないから、芹澤を大切にしているのだ。なははは。俺らを繋ぐものはもう、久弥永しかいない。悲しい。
さっきまでだらだらと喋っていたのに不意に黙りこくって、窓の外を見ながら不貞腐れる芹澤。別に声はかけない。今声をかけたら殴られる。エアバックだって確実じゃないんだ。その衝撃で俺は死ぬかも知れん。命は大事だしな、守るべきところでは守る。
昨日やっと謹慎が解けたところで、俺はウキウキだった。姉貴に言ったらどつかれるのは見えてるから、まあ言わん。俺も出世ぐらいしたいんだ。する気もする気配も無いが。
窓の外で変な暖の取り方をするバカップルだって、犬に散歩されてる爺さんだって、過去も未来もある。俺にはあるのかと聞かれたら、まああると答える。無いかも知れないが、俺は生きている。俺には過去なんてものも未来なんてものも重過ぎて、今を持ち上げるので精一杯なんだ。
珍しく背負っている過去と言えば、数年前の事だけで。あれからめっきりコンビニには行かなくなったが、久弥や芹澤はまだ行っているらしい。染ちゃんが俺に来いと言っているみたいで、毎度毎度あの人もご苦労さんなこった。
芹澤がいつの間にか船を漕ぎ始めていて、助手席は良いなあと思った。謹慎中ゲームばっかしやってたから、意味も無く徹夜明けだ。謹慎中なんかじゃなくても徹夜、しかもゲームだから視力も危ない。
赤信号に目を凝らしながら、答えを忘れた問題を思い出す。
家族って何だっけなあ。
『愛され馬鹿、赤谷染』
世間はホワイトデーという、バレンタインデーのおまけに侵食されていた。
コンビニもホワイトデー特集で、バレンタインデーに引き続きチョコレート祭りだった。それを新しく入ってきた何か懐かしい雰囲気が漂う大学生の女の子に任せ、私はとば姉のお墓参りに来ている。
いつも思う事だけど、日本は何でそんなにバカップルになりたがるのだろう。ホワイトデーなんてふざけたもの作らずに、チョコばらまいて「さあ食え!」的なお祭りでもすれば良いのに。貰ったら返すなんて、世の独身サラリーマンが困るよ。
とば姉のお墓が見えた時、一緒にスーツの男の人が見えた。誰だ誰だ。墓荒らし? スーツで? まさか「あ、」
見た事ある顔だった。というか昨日会ってた。
「誕生日に来たら、お姉ちゃんにワケアリ振るなって言われた気がしたんですよー。だから素直に命日に来ました」
言い訳っぽかったかも知れない。そもそもとば姉のお墓参りじゃないかも知れない。そして誕生日に来たのは去年だった。今年からだ、命日に来るのは。
「えーっと、刑事さんでしたよね? 何でここに?」
なるべく馬鹿っぽくならないように身振り手振りで首を傾げて、伝えた。むしろ馬鹿っぽく見えたかも知れない。
「とばりを、綺麗な形で思い出にしたくて」
そう微笑んだ刑事さんは、すったすったと去って行った。さっぱり意味がわからない。あの刑事さんはとば姉の何なんだ。
「しぃらなくっていっかぁー」
自作の歌でお墓の正面に来た時、知らなくて良かった事を知った。お墓に婚約指輪っぽいのなんか置いて、墓荒らしに盗まれたらどうするんだろう。
その高価そうな指輪は照りつける太陽に照らされて、眩しいくらいに光を跳ね返す。とば姉がいつか私に言った事を思い出した。
『私はね、愛されない人種に生まれてきたの』
パパやママに怒られた後だったから、不貞腐れてそう言ったんだと思ってた。けどとば姉が死んだ時の遺書にこれがそのまま書いてあって、勢いで自殺したわけじゃないんだって思った。何となく悲しくて、何となくずるくて、五年に一度くらいしかお墓参りに来なかった。毎年来ようって思ったのは、園継さんのお陰でもあるけど。
でも私はやっぱり、とば姉はずるいと思った。
みんなに愛されてるのに、嘘を付いて逃げちゃったから。
『アタシとニートの狭間について、赤谷ネネ』
「ネネさん!」
未だにこの子は何ら変わりない。良くも悪くも。
「赤谷先生と呼びなさい」
「赤谷先生、書類出来上がりました」
「ありがとー。休憩入って良いよ」
「了解です!」
妹の命日だった事を思い出しても立ち上がろうとしないアタシは、あの子を救えたのだろうか。うーむ、良くわからない。
あの子が休憩に入ると病院の屋上に行くのを、アタシは知っていた。高いところが好きなのかと聞けば、高所恐怖症だと言う。そこから飛び降りるという行為がどんなものか、痛いほどわかっているはずだ。
ボールペンでこめかみをぐりぐりと押して、首を傾ける。骨が鳴った。一番下の妹からは「ホワイトデーが何じゃい」とのメールが来て、どう返信していいものかわからなくて放置した。あの子はきちんと墓参りに行ったらしい。去年まで命日には行かなかったのに、どういう心境の変化かしら。
そもそもアタシは、妹達が嫌いだった。その中でも大きい方の妹は、大嫌いだった。死んでも、尻拭いをしたのはアタシだ。勝手に尻拭いしただけなんだけど、やっぱり嫌いだ。アタシの真似をして精神科医になったくせに、患者が一人死んだからって自殺した。その他諸々理由はあったみたいだけど、自殺で逃げた事に変わりはない。アタシの患者なんて、自殺者ゼロなのに。誇れる記録だったけど、精神科医として当たり前だと恩師には言われた。
園継はもう大切な人の死というものを体験しているから、そこそこ大丈夫だと思うけど。まだまだ患者と一対一で話せていないから、半人前。アタシが一人前にしなきゃいけないんだけど、何か面倒くさかった。見て学べって言っておいた。
アタシの携帯がもう一度鳴ったから、電源を切る為に手を伸ばす。知り合いの元刑事から、弟の寝顔の写真が送られてきた。ニートはそんなに暇なのか。オッサンの写真なんか要らないと返信する。あんたもオバサンだろと返事が来るだろうけど、もう電源を切った後だ。知らない。
そろそろお腹も減ってきた頃だし、昼食でもとるか。
アタシの人生は平凡で平穏で、生きてて心地良かった。それが一番。
毎日、もう少しだけ生きようと思えるから。
『運命って怖い、木陰美鳥』
お兄ちゃんに会いに行った。その事実だけで、私は変われたような気がした。
実際、多分だけど私は変わった。強くもなったし、素直にもなったし、わがままにもなったし、頑固にもなった。私は人に、自分の気持ちを伝えられるようになった。私は人に、私を見せるようになった。
コンビニのバイトは、もう少し良い方向に変わりたいと思ったから始めた。コンビニなのは静紅さんがいるから。と、思ったんだけど。残念ながらもう辞めていた。静紅さんがバイトしている時から居るっていう、同じコンビニでバイトをしている赤谷さんが言っていた。
私が働いた分は、お父さんのモルモットとかの食費くらいにはなっている、と思う。いやいやもっとあるけれど、やっぱりそこは大学生として将来の為に貯めているから……。やっぱりモルモットの食費くらいだった。
一歩ずつ足を出しながら、どんより曇った空を眺める。最近星も死ぬという事を知ってから、良く星を探すようになった。今は昼過ぎだけど。人間と同じように死ぬなら、生きているうちにたくさんの星を見ておきたい。星はいつも私を見てくれているのに私は星を見ないなんて、不公平だと思ったから。
前を見ないで歩いていたら、肺に衝撃が走った。何かとぶつかった。人間だ。相手も下を見ていたらしく、脳天を擦っていた。
脳天が私の肺の高さくらい。つまり、低身長。顔の形や手の大きさなんかを見ると、年相応で特別身長が低いというわけでは無さそうだった。小学生か中学生か。年が二桁になって間もない辺りなのかという事は、彼女が手に握っているものを見た瞬間考えたくなくなった。
呼吸が苦しいわけでもないのに、声が出ない。異常なのは肺では無さそう。となると頭か。私の脳が絶賛パニック中。
お兄ちゃんの昆虫図鑑みたいなもので見た事があるだけの、虫。初対面の虫は、あきらかに胴体を真っ二つにされている。一般的にGと呼ばれる、主婦が嫌う虫だった。
「刑務所に入りたいんだけど、ここ?」
それは。それはどういう意味で仰っていらっしゃるんですか。
「いろいろ素っ飛ばして自首しようとしてるところ悪いんだけど、虫は多分虐待の対象にはならないと思うし、何ていうか、その、……取り敢えず家来ない?」
「っていうかアンタ誰?」
……えっと。
「しがないコンビニバイトのお姉さん、です」
終わり
ここまで目を通してくださって有難うございました。
読んだ、と言ってくだされば評価でもなんでも、
お礼に伺わせて頂きます。
稚拙で幼い急展開にお付き合いいただきまして、
本当にありがとうございました。