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第九章。夜の帳に溢れる涙。過ぎゆく真夏の夜。

「では僕はこのへんで。先に戻っていますね」

 古泉はそう俺に告げ風呂を後にした。長風呂が好きな俺は物足りず、もうしばらく湯船に浸かっている事にする。

「幌別輪西打ち過ぎて はや室蘭に着きにけりっと。」

なんだかんだしばらく歌いながら風呂にはいって居たら、後ろでガラリと戸が開く音がした。また古泉が入りに来たのかと思い後ろを振り向くと、受付で会った中居さんが居た。

「お客さん歌、うまいんですねぇ。申し訳ないんですが、もうそろそろお風呂のほう終わりなんですよ。明日は朝四時から入れますから、ごめんなさいね」

なるほど、時計をみると時間は12時をまわろうとしていた。あまりにも心地よかったのでつい長居をしてしまったようだ。

「ごめんよ。もう出るからね」

俺はそう言い、風呂からあがった。浴衣に着替え、脱衣所を後にするところで後ろから中居さんの、

「ごめんなさいねー」

という声が聞こえてきた。


「やっぱ風呂あがりはこれだよな」

 自販機でミルクコーヒーを購入し、ふと隣の館内図をみた。どうやら部屋に帰る途中に談話室があるらしい。少し立ち寄ってみるかな。

 とぼとぼと窓から月明かりが差し込む廊下を歩いていると、談話室が見えてくる。ぼんやりと灯りが見えるから、きっと誰かがいるのだろう。そんなことを思いつつひょいと談話室を覗きこんだ。

「あ、千春さん」

そこには優佳がソファーに腰掛けていた。いやぁ、浴衣に黒髪はホント似合うな。優佳自身もけっこう可愛いからよく映える。

「よう。こんな時間に一人で何やってるの?」

俺は優佳の隣に座り尋ねる。

「お風呂上がりにここを見つけたんです。なんかいい雰囲気だなーって思って、本読んでました」

優佳は持っていた本をパタンと閉じて表紙を俺の方にみせた。雪国か。川端康成の名作の一つだ。

「いい趣味だね、俺も川端康成好きなんだ。しかし結構優佳も渋いな」

優佳はニコリと笑うと一人遠くを見つめ語り出した。

「父が、好きだったんです。この本は。大きくなって理解できるようになったらお前にあげる。それが口癖でした」

少し引っかかる。優佳の遠い目、そして言い方。

「まだ何か言えない事情があるみたいだな」

手に持っていたミルクコーヒーを飲み干した。

「千春さんにはなんでもお見通しなんですね。それもカマですか?」

優佳がクスリと微笑んだ。

「まあな。でもあってるだろう?」

俺も微笑み返す。しばしの間二人でくすくすと笑っていた。

「本当は、親戚の家なんて嘘なんです。実家が東京なのも嘘。私、ここまで親切にしてもらっているのに嘘ばっかりついていました」

しばらくして優佳がポツリと語り出した。

「母と喧嘩したんです。簡単に言えば家出ですね。それで広島に行こうと思ったんです。でも、ただの旅行じゃないんですよ。どうしても広島には行きたかったんです」

ピタリとしゃべるのをやめた。そして少し口をつぐみ、また小さな声で喋り出した。

「父の、父のお墓が広島にあるんです。私はそこへ行きたい。母には反対されました。私が七歳の頃に家族を捨てて行方をくらました男なんて、父じゃないって。そんな男の墓参りなんかに行くなって。それで喧嘩しちゃったんです。でも私にとってはたった一人のお父さんだから。記憶の中のお父さんはとっても優しくて、かっこよくて。だから母がどんなに父を貶しても私は会いたかった。昨年手紙が届きました。父の実家からでした。父が死んだって、葬式の日取りやお墓の場所が書いてありましたが、母は行かせてくれませんでした。それから一年たって、一度でいいから、お墓参りをしたいって気持ちがどうしようもなく抑えられ無くなって、一人で出てきちゃったんです。本当、バカな娘ですよね。こんなにも母を心配させて」

そう微笑む優佳の目尻には薄く涙が浮かんでいた。

「千春さんにはご迷惑をお掛けして本当に悪いと思っています。ごめんなさい。こんな重い話も話すべきじゃないのに。なんでだろう、千春さんにならなんでも話せてしまう。おかしいですよね。ごめんなさい」

俺は、何も言わなかった。いや、言えなかった。ただ黙って優佳の瞳を見つめていた。

「これ以上迷惑をかけられないから。明日、朝早く私は出ます。父のお墓に行って、地元、岩手に帰ります」

そう言って去ろうとする優佳の腕を、俺はとっさに掴んだ。何も考えていなかった。ただ、こうしなければダメな気がしたのだ。

「千春…さん?」

優佳は振り返り、先程よりも多くなった涙を浮かべこちらをみた。

「迷惑なんかじゃねえよ。優佳のためなら何だって喜んで手伝うさ。今まで独りで頑張ってきたんだろう。もう、誰かに頼っていいんだよ。俺を頼っていいんだよ」

何を言っていいのかわからなかった俺は、ただ、それだけ言った。

「千春…さん…」

優佳は涙声になりながらそうつぶやき、俺の胸にしがみついた。

「ごめんなさい。私、こんなつもりじゃなかったのに。あなたの言葉を聞いたら涙が止まらなくなって。もっと、あなたを頼っていいですか?。あなたに支えてもらっていいですか?」

優佳の泣き声だけが夜の談話室に響き渡る。

「優佳…」

俺はそうつぶやき、俺の胸で泣きじゃくる優佳をそっと抱きしめた。

談話室の灯りに照らされた二人の影は重なりあい、夏の夜は過ぎていった。

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