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現代小説「ブラック ブローカー4」老朽化マンションを巡る相続人たちの戦争

作者: 虫松
掲載日:2026/10/31

挿絵(By みてみん)

「人が死ねば、金が儲かる」


不動産ブローカー松崎は、いつもそう口にしている。


実際、世の中そうなのだ。

人が死ぬと遺産相続となり、不動産は動産となり

お金に変わる。


人が死ねば、相続が発生する。


相続が発生すれば、不動産の所有者が変わる。


所有者が変われば、売却の話が始まる。


そして家族が揉めれば揉めるほど、不動産屋の出番が増える。


人の人生には値段がない。


しかし、人が残した土地と建物には、必ず値段がつく。


今回の舞台は、都内の新十番南駅から徒歩五分。


築八十二年の老朽化マンション。


その名も


『メゾン田中』。


五階建て。


外壁はひび割れ、鉄筋が露出している箇所もある。


雨が降れば天井から水が落ちる。


配管は腐食し、階段の手すりはぐらついていた。


建物の外には、落下物を防ぐための仮設ネットが張られている。


かつては立派な賃貸マンションだった。


だが今では、入居者の大半が退去している。


残された住人は、最上階に暮らす一人の老人だった。


田中 一。八十六歳。


この建物を建てた一族の長男である。

父親の田中修三は、かつてこの一帯の大地主だった。


修三が亡くなり、建物と土地の権利は五人の息子たちに引き継がれた。


ところが、長男の一には生前贈与などで集めた権利があり、建物全体の約半分の持分を握っていた。


残る半分は、四人の弟たちが分け合っていた。

弟たちはすでに七十代から八十代。

誰も古い建物を維持する気力などなかった。


「兄貴がいる限り、あの建物はどうにもならん」


「雨漏りの修繕だけで何百万だ」


「もう売ってしまおう」


そして四人は、自分たちの区分所有権や土地の権利を、不動産ブローカー松崎が関わる買収会社へ売却した。


残ったのは、長男の田中一だけだった。


松崎は登記事項証明書を眺めながら笑った。


「面白いですね」


部下が尋ねた。


「何がです?」


「兄弟五人で相続した財産が、最後には兄弟を敵同士にする」


「家族って、そんなものでしょうか」


松崎は資料を閉じた。


「家族だから揉めるんですよ」


そして、いつもの黒い鞄を持った。


「さて。最後の一人に会いに行きましょうか」





メゾン田中の五階。

エレベーターはない。

松崎は薄暗い階段を上っていった。


途中、四階の天井から水が滴っていた。

三階には大きな亀裂。

二階の廊下には、剥がれ落ちた壁材が散乱していた。


メゾン田中は、いつ建物が崩壊してもおかしくない建物だった。


五階の扉を叩く。


「田中さん。不動産会社の松崎です」


しばらくして扉が開いた。


現れたのは、白髪の老人だった。


背は曲がっていたが、目だけは鋭かった。


「またお前か」


「本日は建て替えのお話で」


「帰れ」


「まだ何も話していませんよ」


「聞く必要がない」


松崎は微笑んだ。


「田中さん。この建物、築八十二年ですよ」


「知っとる」


「雨漏り、建物の傾き、外壁のひび割れ、配管の腐食。いつ事故が起きてもおかしくありません」


「それがどうした」


「住み続けるには危険です」


老人は鼻で笑った。


「わしは八十六だ」


「ええ」


「建物が八十二年なら、わしの方が四年先輩じゃ」


「……」


「わしが先に死ぬか、建物が先に壊れるか、競争じゃな」


松崎は苦笑した。


「冗談ではありませんよ」


「わしは本気じゃ!」


田中一は杖で床を叩いた。


「わしは死ぬまでここに住むんじゃ! 絶対に売らんぞ!」


松崎は部屋を見渡した。


古い柱時計。

色褪せた家族写真。

妻が使っていたという箪笥。

仏壇には、亡くなった両親と妻の写真が並んでいた。


松崎が言った。


「思い出のある場所なんですね」


「そうじゃ」


「ですが、思い出だけでは建物は修理できません」


老人は睨みつけた。


「金の話しかできんのか、お前は」


松崎は笑った。


「不動産屋ですから」


その翌週。


松崎は田中家の四人の弟たちを集めた。


全員が高齢だった。


次男は足が悪く、三男は補聴器をつけ、四男は杖を持ち、五男は数年前に大病をしていた。


長男だけが欠席していた。


次男が口を開いた。


「兄貴は昔から頑固でね」


三男が続ける。


「親父が生きていた頃から、自分が田中家の跡取りだと威張っていた」


四男が吐き捨てた。


「五階から見下ろして、わしらを使用人みたいに扱っていたんだ」


五男が言った。


「もう、兄貴の好きにさせる必要はないでしょう」


松崎は静かに聞いていた。


そこへ次男が尋ねた。


「松崎さん。本当に建て替えられるんですか?」


「簡単ではありません」


松崎は図面を広げた。


「ですが、法律は変わっています」


「法律?」


「二〇二六年四月から、改正区分所有法が施行されました」


松崎は説明を始めた。


「マンションの建替え決議は、原則として区分所有者数と議決権の両方で五分の四以上が必要です。しかし、一定の耐震性不足や火災安全性の問題、外壁落下の危険など、法律で定められた客観的な事由がある場合には、四分の三以上へ緩和されます」


三男が言った。


「じゃあ、兄貴が反対しても建て替えられるんですね!」


「そこが問題です」


松崎は所有権の一覧表を指差した。


「田中一さんは議決権の約半分を持っている。私どもが弟さんたちの権利を全部取得しても、残りの半分にすぎません」


「じゃあ駄目じゃないか!」


「建物が古いだけで、反対者の権利を奪えるわけでもありません」


弟たちは落胆した。


しかし松崎は続けた。


「だからこそ、調査が必要なんです」


「何の調査だ?」


「建物の危険性です。そして、共有関係をどう解消できるのか。裁判所でどのような解決が可能なのか」


四男が不安そうに聞く。


「裁判になるんですか?」


松崎は微笑んだ。


「相手が話し合いを拒否するなら、仕方ありません」


そして小さく付け加えた。


「裁判は、話し合いを拒否する人間を、話し合いの席につかせることがありますから」


数か月後。


メゾン田中には、建築士や調査員が出入りするようになった。


耐震診断。

外壁調査。

配管の劣化調査。

消防設備の点検。

調査報告書には、厳しい結果が並んでいた。


耐震性能の不足。

外壁の剥落危険。

老朽化した給排水管。

避難経路の問題。


松崎は報告書を一枚ずつめくった。


「なるほど、これは素晴らしく酷い結果だ」


部下が尋ねた。


「建て替えられますか?」


「危険性は明らかになりました。ただし、それだけで田中さんの持分がなくなるわけじゃありません」


「じゃあ、どうするんです?」


松崎は登記資料を取り出した。


「共有になっている権利の整理も必要です。こちらには、こちらの法的な手段がある」


「裁判ですか?」


「ええ」


松崎は微笑んだ。


「田中一さんは、死ぬまで住むと言った」


「はい」


「でも、建物が死ぬまで待てるとは限りませんからね」


やがて松崎側の買収会社と田中一の間で、共有関係の解消や権利調整を巡る訴訟が始まった。


田中一は弁護士を雇い、徹底的に争った。


「ここは田中家の財産だ!」


「親父が残してくれた建物なんだ!」


「それを、どこの馬の骨とも分からん不動産屋が!」


裁判所には、建物の写真が提出された。


剥がれ落ちた外壁。


水浸しの廊下。


赤錆に覆われた配管。


そして専門家による調査結果。


田中一の弁護士も、建物の老朽化そのものは否定できなかった。


ある日の期日。


裁判官は双方の代理人に尋ねた。


「この建物を、今後どのように維持していくお考えですか」


田中一は答えた。


「わしが死ぬまで住む」


「修繕については?」


「必要なところだけ直せばいい」


「修繕費用の見通しは?」


老人は黙った。


松崎側の代理人が資料を提出した。


「主要な設備の更新や耐震補強を含めると、多額の費用が必要になります」


田中一が叫んだ。


「金ならある!」


しかし、具体的な資金計画は提出されなかった。


裁判官は静かに言った。


「田中さん。ここは、どちらが意地を通すか決める場所ではありません」


「……」


「権利関係と建物の状態、そして今後の生活も含めて、現実的な解決を考える必要があります」


松崎は傍聴席で、その言葉を聞いていた。


そして、小さく笑った。


さらに数か月が過ぎた。


裁判所から、和解の協議が提案された。


田中一の持つ権利を、松崎側の買収会社が相応の対価で取得する。


移転費用も別途負担する。


一定の明渡し猶予期間を設ける。


引っ越し先についても協力する。


合意が成立すれば、双方は訴訟を終わらせる。


そうした内容だった。


田中一は弁護士から説明を受けた。


「先生。つまり、わしに出ていけと言うんですか」


「強制的に追い出す判決ではありません。裁判所が提案している和解です」


「わしが承知しなければ?」


「裁判は続きます」


「なら続ければいい!」


弁護士はため息をついた。


「田中さん。お気持ちは分かります。ただ、このまま争い続ければ、時間も費用もかかります」


「金ならある!」


「ですが、建物の安全性の問題は残ります」


田中一は黙った。


弁護士が続けた。


「あなたが守りたいのは、建物そのものですか。それとも、ここで暮らした思い出ですか」


老人は答えなかった。


しばらくして、ぽつりと言った。


「……親父が建てたんだ」


「ええ」


「わしが小さい頃は、あの辺りには畑しかなかった」


老人の目が遠くを見た。


「親父はな。これからは賃貸住宅の時代だと言って、借金までして建てたんじゃ」


「……」


「完成した日、親父は建物の前で笑っておった」


田中一は窓の外を見た。


「立派になっただろう、ってな」


長い沈黙。


そして老人は、苦々しく呟いた。


「……親父が死んでも、建物だけは残った」


弁護士は何も言わなかった。


「それなのに、今度はわしが生きているうちに、建物がなくなるのか」


初めて、田中一の声が震えた。


最終的に、田中一は和解に応じた。


権利を売却し、建物を明け渡す。


和解調書が作成され、裁判は終了した。


裁判所の廊下。


松崎は黒い鞄を持って立っていた。


そこへ田中一が姿を現した。


杖をつき、肩を落としていた。


松崎は軽く頭を下げた。


「田中さん。お疲れさまでした」


老人は返事をしなかった。


「これで、建て替えの計画を進められます」


田中一の足が止まった。


「……嬉しいか」


「はい?」


「わしを追い出して、嬉しいかと聞いとるんじゃ!」


松崎は表情を変えなかった。


「建物の安全性を考えれば、必要なことだったと思いますが」


「綺麗事を言うな!」


老人が怒鳴った。


廊下にいた人間が振り返った。


「お前が欲しいのは土地だろう!」


「ええ」


松崎はあっさり認めた。


「当然です。不動産屋ですから」


田中一の顔が歪んだ。


「この不動産屋風情が……」


松崎は黙っていた。


老人は杖を握り締めた。


「わしのマンションを手に入れて、そんなに満足か!」


松崎は少し考えた。


そして笑った。


「ええ。素晴らしく綺麗なマンションに建て替わりますよ」


「……」


「耐震性も高くなり、エレベーターもつき、設備も新しくなる」


「……」


「若い家族も入居するでしょう。子供たちの笑い声も聞こえるかもしれません」


老人の目が細くなった。


松崎は一歩近づいた。


「あなたがいなくなってね」


田中一は唇を震わせた。


「……この野郎」


松崎は笑顔のままだった。


「新築マンションの名称は――」


松崎は鞄から完成予想図を取り出した。


そこには、ガラス張りのエントランスを備えた高層マンションが描かれていた。

その下に、金色の文字が並んでいる。


「まだ、完成まで時間はかかります。ゆっくり名前は考えましょう。駅の名前などいれると分かりやすいですよね。」


田中一は何も言えなかった。


自分が生まれ育った家。


父親が建てたマンション。


家族の名前。


そのすべてが、不動産会社の販売資料になっていた。


老人はようやく言った。


「……お前には、思い出というものがないのか」


松崎は答えた。


「ありますよ」


「……」


「ただ、思い出では家賃が取れませんから」


田中一は松崎を睨んだ。


しかし、それ以上何も言わなかった。


明渡しの日。


田中一は、最後に五階の部屋を見渡した。


柱時計は止まっていた。


妻の箪笥は運び出されていた。


仏壇も、すでに引っ越し先へ移されている。


広い部屋には、畳の日焼け跡だけが残っていた。


老人は窓を開けた。


そこからは、駅前の街が見えた。


昔は畑だった。


それが商店街になった。


ビルが建ち、道路が広がり、やがて高層マンションが並んだ。


その間ずっと、メゾン田中だけが残っていた。


「……親父」


老人は小さく呟いた。


「わしは、守れんかった」


誰も答えない。


やがて老人は玄関の鍵を置いた。


八十二年間の建物の歴史が、そこで一つ終わった。


数日後。


解体工事が始まった。


重機が古い壁を崩していく。


埃が舞い、窓枠が外され、廊下が消えていった。


松崎は道路の反対側から、その様子を眺めていた。


部下が尋ねた。


「田中さん、引っ越されたそうですね」


「ええ」


「最後まで反対していたのに、結局は和解しましたね」


松崎は答えた。


「人間は、必ずどこかで現実と折り合いをつけるものです」


「でも、気の毒ですね」


「何がです?」


「生まれ育った家を失うなんて」


松崎は取り壊されていく建物を見上げた。


「建物は、いつか壊れるんですよ」


「……」


「人間だって同じです」


部下は黙った。





二年後。


かつてメゾン田中が建っていた場所には、新しいマンションの建設が進んでいた。


地上十五階。

耐震性を備えた最新設備。

高級感のあるエントランス。


屋上テラス。

全戸宅配ボックス完備。

新十番南駅から徒歩五分。


販売予定価格は、一戸一億円を超える部屋もあった。


松崎はモデルルームで営業担当者から説明を受けた。


「予約は好調です。新しい駅の名前をマンション名に入れてで評判がいいですね」


松崎は頷いた。


「それはよかった」


「それにしても、以前はずいぶん古い建物があったそうですね」


「ええ」


「どんな人が住んでいたんです?」


松崎は一瞬だけ考えた。


「頑固なお爺さんですよ」


「そうなんですか」


「死ぬまで住むと言っていました」


営業担当者は笑った。


「でも、建て替えられてよかったですね」


松崎も笑った。


「ええ。本当に」


モデルルームの窓から、建設現場が見えた。


かつて五階にあった田中一の部屋は、もう存在しない。

そこには、真新しいコンクリートの柱が立っていた。


松崎の携帯電話が鳴った。


「松崎さん。新しい案件です」


「何です?」


「相続人が七人いる土地なんですが、売却に反対している人が一人いまして」


松崎は口元を緩めた。


「また相続ですか」


「ええ。親族同士で揉めているそうです」


「資産額は?」


「土地だけで三億円ほどです」


松崎は完成予想図を鞄にしまった。


「分かりました。行きましょう」


電話を切る。


そして歩き始めた。


背後では、巨大なクレーンが動いている。


古い建物は壊された。


新しい建物が生まれる。


所有者が変わる。


住む人間が変わる。


しかし、土地は動かない。


動くのは、人間の欲望だけだ。


松崎は呟いた。


「人が死ねば、金が儲かる」


そして、もう一度笑った。


「人が生きていても、邪魔なら金で動かせばいい」


振り返った先には、巨大な広告看板。


そこには、青空を背景に美しい高層マンションが描かれていた。


マンシォン名

『グランドキャッスル 新十番南』


キャッチコピーは


「家族の思い出を、未来へ。」


松崎は。そのマンション広告を眺め、肩を揺らして笑った。


「家族の思い出、ねえ……」


そして、誰にも聞こえない声で言った。


「家族が揉めるほど、土地は安く手に入るんですよ」



現代小説「ブラック ブローカー4」老朽化マンションを巡る相続人たちの戦争


完結

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