おわりのはじまり
目を開けた瞬間、最初に感じたのは違和感だった。
天井が、知らない。
白いクロスでもなければ、見慣れたコンクリートでもない。煤けた木の板が、規則正しく並んでいる。ところどころ黒ずんでいて、長い年月を経てきたことが一目で分かった。
「……どこだ、ここ」
起き上がろうとして、リョウは自分の身体にさらに違和感を覚える。服装が違う。柔らかい布のシャツに、見覚えのないズボン。現代日本のそれとは明らかに違っていた。
辺りを見回す。
狭い部屋だ。家具はほとんどない。壁際に文机と椅子がひとつ。窓は小さく、差し込む光も弱い。生活感はあるのに、妙に質素で、どこか不安を煽る空間だった。
「夢……にしてはリアルすぎるな」
そう呟いた瞬間――
ギィ、と扉が開いた。
「お、目ぇ覚ましたか」
入ってきたのは、粗野な印象の男だった。無精ひげに日焼けした肌。どこか農民のような風体だが、腰には短剣が下がっている。
「……誰だ、あんた」
「お前の命の恩人だよ。川辺で倒れてたのを拾ってやったんだ。俺はカザック」
気さくに名乗る男――カザック。リョウは一瞬言葉を失う。
川辺? 拾った?
まるで現実感がない。
「ここ……どこなんだ?」
「は? 何言ってんだ、お前。ここはエルディアの村だろうが」
聞いたこともない地名だった。
リョウは額に手を当てる。記憶を辿る。確か、自分は――
(帰り道……だったはずだよな)
夜道を歩いていた。スマホを見ながら。そこまでは覚えている。
だが、その先がない。
「……もしかして、頭でも打ったか?」
カザックが怪訝そうに覗き込んでくる。
「いや……その……」
言葉を選ぶ。
普通なら信じてもらえない話だ。
だが、状況がそれを許さない。
「俺……自分がどこから来たのか、分からない」
嘘ではない。だが、すべてを話したわけでもない。
カザックは腕を組み、しばらく考え込んだあと――
「まぁ、珍しい話でもねぇな」
「……は?」
あまりにあっさりした反応に、リョウは間の抜けた声を出した。
「記憶飛ばすやつはたまにいる。魔力暴走とか、呪いとか、理由はいろいろだがな」
「……ま、まりょく?」
聞き慣れない単語が出てきた。
カザックは「おいおい」と苦笑する。
「お前、マジで何も覚えてねぇのか。魔法だよ、魔法。知らねぇのか?」
――その一言で、すべてが繋がった気がした。
(魔法……?)
現実には存在しない概念。
だが、この男の口ぶりは冗談でも比喩でもない。あまりにも当然のように言っている。
「……ここって、魔法がある世界なのか?」
「当たり前だろ」
即答だった。
あまりにも迷いがない。
リョウはしばらく沈黙したあと、小さく息を吐いた。
「……そっか」
驚きはある。混乱もしている。
だが、不思議と完全な否定はできなかった。
この空気、この部屋、この男。
どれもが現実離れしているのに、妙に“現実”として存在している。
(……受け入れるしかない、か)
そう思った瞬間、少しだけ頭が軽くなった気がした。
「とりあえず、お前は神殿に行け」
カザックがそう言う。
「神殿?」
「神殿長のメリル様が診てくれる。記憶のことも、魔力のこともな。あの人なら何とかなる」
医者のような存在なのだろうか。
「分かった……行く」
「よし。ちょうどヒューイとサシャもいる。案内させる」
カザックが外に向かって声をかけると、すぐに二人の男女が入ってきた。
一人は穏やかな顔立ちの青年――ヒューイ。
もう一人は活発そうな少女――サシャ。
「この兄ちゃん、神殿まで連れてってやってくれ」
「了解」
「任せて!」
二人は快く引き受けてくれた。
リョウは軽く頭を下げる。
「……よろしく頼む」
こうして、リョウの“チュートリアル”が始まった。
外に出た瞬間、リョウは息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、まるで中世ヨーロッパのような街並みだった。
石畳の道。木と石で作られた建物。行き交う人々の服装も、どこか古風だ。
「すげぇ……」
思わず声が漏れる。
「初めて見るみたいな顔してるな」
ヒューイが笑う。
「……まぁ、そんな感じだ」
曖昧に返す。
サシャがくるりと振り返る。
「神殿は村の奥だよ。ちょっと歩くけど、頑張ってね」
「了解」
歩きながら、リョウは二人に質問を投げかけた。
魔法のこと。神殿のこと。この世界の常識。
二人は丁寧に答えてくれる。
魔法は誰でも使えるわけではないこと。
神殿は治癒や鑑定を行う場所であること。
そして、神殿長メリルがこの村で最も信頼されている存在であること。
(……完全にゲームのチュートリアルだな)
そんな感想が頭をよぎる。
だが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、少しだけワクワクしている自分がいる。
そのとき――
「っと、危ねぇ!」
前方から来た男と、リョウはぶつかってしまった。
視線を外していたせいだ。
身体がバランスを崩し、そのまま――
「うわっ!」
ドン、と尻餅をつく。
「大丈夫!?」
サシャが慌てて駆け寄る。
ヒューイも手を差し出した。
「すまない、よそ見してた」
ぶつかった男も謝ってくる。
「いや、こっちこそ……」
リョウは差し出された手を掴み、立ち上がる。
痛みは――ない。
服に土が付いた程度だ。
(……あれ?)
今の衝撃、普通ならもう少し痛くてもいいはずだ。
だが、まるでダメージがない。
「本当に大丈夫か?」
「……ああ。平気だ」
軽く体を動かしてみる。
問題ない。
むしろ、どこか身体が軽い気すらする。
(これも……魔法とか、そういう影響か?)
答えは出ないが、違和感だけが残った。
「ほら、もうすぐだよ」
サシャが前を指さす。
視線の先には、大きな建物があった。
石造りで、他の建物よりも明らかに立派だ。高い塔と、荘厳な入口。
「あれが……神殿か」
「そう。メリル様がいる場所」
自然と背筋が伸びる。
ここに、この世界の“答え”があるかもしれない。
「行こう」
リョウは一歩、踏み出した。
異世界という現実へ、確かに足を踏み入れながら。
石畳の冷たさが、靴底越しにじわりと伝わってくる。
リョウは神殿の前にできた長い列の最後尾に立ちながら、静かに息を吐いた。白亜の外壁は空に溶け込むように高く、尖塔の先端は雲を突き刺すようにそびえている。重厚な扉の前では、武装した衛兵が微動だにせず立っていた。
「すげえな……ここ、本当に神殿なんだな」
思わず漏れた言葉に、隣にいたヒューイが柔らかく笑う。
「この国で一番大きい神殿ですからね。能力を授かる儀式は、皆ここで受けるんです」
「授かる、ね……」
「鑑定ってのは万能じゃねえ。神殿長クラスなら話は別だがな」
「その神殿長に会うために並んでるんだけどな」
サシャがくすっと笑う。彼女は列の中でも落ち着きがなく、つま先でぴょんぴょんと小さく跳ねている。
「ねえリョウ、緊張してる?」
「してない……って言いたいけど、まあ多少は」
正直に答えると、サシャは満足そうに頷いた。
「大丈夫大丈夫! もし能力が役に立たなくても、あたしたちがいるじゃん」
「それ、慰めになってるか?」
「なってるよ!」
即答だった。
リョウは苦笑しながら、視線を神殿の扉へと戻す。
列はゆっくりと進んでいた。時折、名前を呼ばれた者が中へと通され、しばらくして戻ってくる。戻ってくる者の表情は様々だ。歓喜に震える者もいれば、肩を落とす者もいる。
運命が決まる場所。
そんな言葉が、ふと頭をよぎった。
「――なあ、聞いたか?」
後ろの方から、ひそひそとした声が聞こえてくる。
「何が?」
「聖女の話だよ。王城にいるってやつ」
リョウの耳が、無意識にその会話を拾った。
「なんでも治せるらしいぜ。病も怪我も、呪いすら」
「そんなの本当にいるのか?」
「いるから王城に囲われてるんだろ。逃げられねえようにな」
ざわり、と胸の奥が揺れた。
治癒。
なんでも治せる。
その言葉が、やけに引っかかる。
「名前、なんだっけな……確か……」
「マキ、だろ?」
――マキ。
その瞬間、時間が止まったような感覚に陥った。
「……は?」
思わず声が漏れる。
ヒューイが不思議そうにこちらを見る。
「どうかしましたか?」
「今……マキって……」
言葉がうまく繋がらない。
頭の奥に、かすかな記憶が浮かび上がる。
小さな手。
無邪気な笑顔。
「お兄ちゃん」と呼ぶ声。
「リョウ?」
サシャが顔を覗き込んでくる。
リョウはゆっくりと首を振った。
「いや……なんでもない」
だが、心臓の鼓動は収まらない。
偶然だ。
そう言い聞かせる。
この世界に同じ名前の人間がいたっておかしくない。
けれど。
「……生きてる、のか……?」
小さく呟いた言葉は、自分にしか聞こえなかった。
列はさらに進む。
神殿の巨大な扉が軋む音を立てて開き、内部の荘厳な空間が垣間見えた。高い天井には色鮮やかなステンドグラスがはめ込まれ、光が床に神秘的な模様を描いている。
「次の方、どうぞ」
衛兵の声が響く。
一人、また一人と中へ消えていく。
そして。
「――リョウ」
名前を呼ばれた。
一瞬、足がすくむ。
だが、背中を軽く押された。
「行ってこい」
カザックの低い声。
「応援してます」
ヒューイの穏やかな声。
「帰ってきたら教えてね!」
サシャの明るい声。
リョウは小さく頷いた。
「……ああ」
扉の向こうへ、一歩踏み出す。
中は静まり返っていた。
広い空間の奥、玉座のような椅子に一人の女性が座っている。
両目を眼帯で覆ったその姿は、異様でありながら、どこか神聖だった。
「よく来ました」
静かな声が響く。
神殿長、メリル。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
視線は見えないはずなのに、まっすぐリョウを捉えているように感じる。
「あなたが……リョウですね」
「あ、ああ……そうだけど」
「緊張は不要です。ここでは、ただ事実を知るだけですから」
淡々とした口調。
感情の揺らぎがほとんどない。
メリルは片手を軽く上げた。
「近くへ」
言われるまま、リョウは歩み寄る。
距離が縮まるにつれ、空気が変わるのを感じた。
圧のようなものが、じわじわと身体にまとわりつく。
「では、鑑定を行います」
その言葉と同時に。
空気が震えた。
見えない何かが、リョウの内側へと入り込んでくる感覚。
ぞくりと背筋が粟立つ。
心臓の奥まで覗き込まれるような、不快で、しかし逃げられない感覚。
やがて――
ぴたりと、それが止まった。
沈黙。
数秒。
いや、もっと長く感じた。
「……おかしいですね」
メリルの声が、わずかに揺れた。
「何が?」
リョウは思わず問い返す。
メリルはゆっくりと首を傾けた。
「視えない」
「は?」
「あなたの能力が……何一つ、視えないのです」
その言葉は、静かに、しかし確かに響いた。
「そんなはずは……ありません。無能力であっても、その“無”は視える」
メリルの指先が、わずかに震えている。
「ですが、あなたにはそれすら存在しない」
リョウの喉が鳴った。
「……どういう意味だよ、それ」
メリルは答えない。
代わりに、ゆっくりと立ち上がった。
「もう一度、確認します」
再び、見えない力が流れ込んでくる。
今度は先ほどよりも強く、深く。
意識の奥底まで探られるような感覚。
そして――
再び、止まる。
「……あり得ない」
その声は、明確に動揺していた。
神殿長という立場の人間が見せるには、不自然なほどの。
「あなたは……何者ですか?」
問いかけられる。
だが、その問いはリョウ自身にも分からない。
「俺は……ただの人間だよ」
そう答えるしかなかった。
メリルはしばらく沈黙し、やがて静かに言った。
「本来であれば、あなたのような例は記録に残されるべきです」
空気が張り詰める。
「しかし――」
一拍置いて。
「今は、外に出なさい」
「……は?」
「ここでの鑑定は、これ以上続けられません」
拒絶ではない。
だが、明確な“保留”だった。
「あなたについては……改めて調べる必要があります」
リョウは何も言えなかった。
ただ、頷くしかなかった。
扉へ向かって歩き出す。
背中に、メリルの視線を感じる。
見えないはずなのに。
確かに、見られている。
扉が開く。
外の光が差し込む。
リョウはふと空を見上げた。
青空の向こう。
王城の方向。
そこにいるかもしれない存在。
「マキ……」
小さく呟く。
その名前が、偶然ではないとしたら。
そして。
自分の“視えない何か”が、それと関係しているとしたら――
物語は、まだ始まったばかりだった。
リョウは神殿の石段をゆっくりと降りながら、自分の足音だけがやけに大きく響くことに気づいていた。晴れているはずの空はどこか鈍く、胸の内側に溜まった澱のようなものを映しているかのようだった。
――無能力者。
その言葉は、まるで焼き印のように心に残っている。
神殿長メリルの鑑定は絶対だと言われている。その彼女が、リョウだけは「分からない」と言った。能力がないのか、それとも測れないのか。だが村の人間にとっては、その違いは意味を持たなかった。
使えない。それだけで十分だった。
「……はぁ」
小さく吐いた息は、思ったよりも重かった。
神殿の外で待っていたのは、カザック、ヒューイ、サシャの三人だった。まるで最初からそこにいることが当然であるかのように。
「終わったか」
カザックが短く言う。腕を組み、無精ひげの奥で表情を崩さない。
「ああ……まあ、予想通りだよ」
リョウは肩をすくめて答えた。軽く言ったつもりだったが、声が少しだけ掠れた。
サシャが一歩前に出る。
「そんな顔しないでよ。あたし、別にリョウが弱いとか思ってないし」
「弱いのは事実だろうが」
カザックの一言に、空気が一瞬凍る。
だがヒューイがすぐに柔らかく割って入った。
「カザックさん、言い方が……。リョウ、気にしなくていい。能力がすべてじゃないよ」
「……分かってるよ」
リョウは笑ってみせた。うまく笑えているかは分からない。
分かっている。そんな慰めは、何の意味もないことも。
この世界では、能力がすべてだ。
剣の才、魔法の適性、治癒の力。何か一つでもあれば、人は生きていける。だが何も持たない者は――
生き残れない。
「それで、どうするんだ?」
カザックが低く問う。
リョウは答えられなかった。
何をすればいいのか、本当に分からなかった。村に残っても足手まといになるだけだ。外に出れば、魔物に殺される。
八方塞がり。
そのとき、カザックがぽつりと言った。
「森の奥に、ダークエルフがいるって話は聞いたことあるか」
リョウは顔を上げた。
「ダークエルフ?」
「ああ。人間嫌いで滅多に姿は見せねえが……鑑定に関しては、神殿より上だって噂だ」
ヒューイが目を丸くする。
「そんな人が本当にいるんですか?」
「さあな。だが“測れないものを測る”って話なら、あいつらくらいしか思いつかねえ」
サシャが腕を組んで唸る。
「でも森って、あそこだよね? 魔物がうじゃうじゃいるっていう……」
「そうだ。一人で行けば確実に死ぬ」
カザックは淡々と言い切った。
リョウは黙り込む。
だが、心の奥で何かが引っかかっていた。
――測れないものを測る。
メリルにすら分からなかった自分の“何か”。
それがもし、ただの無能力ではないとしたら。
「……行く」
気づけば、口に出していた。
三人が同時にこちらを見る。
「行って、確かめたい。俺が本当に何もないのか、それとも――」
そこまで言って、言葉を飲み込む。
期待するな。そう自分に言い聞かせる。
それでも。
「……何かあるのか」
カザックが小さく笑った。
「いい目してんじゃねえか」
サシャがにやっと笑う。
「じゃあ決まりね。でもその前に――」
ヒューイが続ける。
「護衛を頼まないと。冒険者組合に行こう」
リョウは頷いた。
村を出て、石畳の道を進む。やがて見えてきたのは、粗雑だが頑丈そうな建物。入り口の上には、剣と盾を模した看板。
冒険者組合。
扉を開けると、酒と鉄の匂いが混ざった空気が流れ込んできた。中では数人の冒険者たちが談笑し、あるいは黙って酒を飲んでいる。
その中で、一際異質な存在がいた。
壁際の席。長剣を背に立てかけ、腕を組んで座る男。
ギーク。
視線が合った瞬間、背筋に冷たいものが走る。
まるで、獲物を値踏みする獣のような目。
その隣には、杖を持つ細身の男――シーリス。さらにその向かいには、小柄な少女ミリ。そしてフードを深くかぶった盗賊の女ニーナが無言でコインを弄んでいる。
「……“天なる月”だ」
ヒューイが小声で言った。
この地方でも名の知れた冒険者チーム。
強い。だが同時に、危険な連中だとも噂されている。
カザックが迷いなく歩み寄る。
「仕事だ」
短く告げると、ギークがゆっくりと顔を上げた。
「……内容は」
低く、重い声。
リョウは一歩前に出る。
喉が乾いているのが分かる。
「森の奥までの護衛を頼みたい」
一瞬の沈黙。
その後、ギークの口元がわずかに歪んだ。
「命の保証はしねえぞ」
「それでいい」
リョウは即答した。
自分でも驚くほど、迷いはなかった。
ギークは立ち上がる。
圧が増す。空気が重くなる。
「……面白え」
その一言で、すべてが決まった。
こうしてリョウは、未知の森へと向かうことになる。
無能力者としてではなく。
“まだ何者でもない者”として。
薄曇りの朝だった。村の外れ、まだ露の残る草を踏みしめながら、リョウは振り返った。
粗末な木柵の向こうに、カザックが腕を組んで立っている。いつも通りの無精ひげに、焼けた肌。だが、その目だけは妙に真剣だった。
「……ここから先は、俺たちの領分じゃねぇ」
短く、ぶっきらぼうに言う。
ヒューイはその隣で、どこか心配そうに微笑んでいた。 サシャは両手を腰に当て、リョウを睨むように見ている。
「死ぬんじゃないよ」
それだけ言って、そっぽを向いた。
軽口でも、励ましでもない。 それでも、妙に胸に残る言葉だった。
リョウは小さく息を吐き、頭を下げる。
「世話になった」
それ以上の言葉は出てこなかった。
村を出る理由も、これから向かう先も、すべてが曖昧なまま。それでも、足を止める理由にはならない。
なぜなら――
「準備、終わったぞ」
背後から声が飛ぶ。
振り向けば、冒険者チーム「天なる月」の面々が揃っていた。
ギークは剣の柄に手をかけ、じっと森の方角を見据えている。人を斬ることに何の躊躇もなさそうな、その目つき。だが、仲間に対してだけは不思議と冷たさがない。
シーリスは杖を肩に担ぎ、退屈そうに空を見上げていた。風に揺れる細い髪が、どこか頼りなくも見える。
ミリはリョウの隣に立ち、小さく手を振った。
「怖い顔してるよ、リョウ」
「そうか?」
「うん。でも、大丈夫。ちゃんと帰れる顔でもある」
根拠のない言葉だった。 それでも、不思議と否定する気にはなれない。
最後に、ニーナ。 フードの奥から覗く視線が、リョウを一瞬だけ測るように見つめる。
「……足手まといにならないで」
それだけ言って、すぐに視線を逸らした。
歓迎されているわけではない。 だが、拒絶もされていない。
それで十分だった。
森へと続く道は、すぐに細くなった。
踏み固められた土の道はやがて消え、代わりに湿った落ち葉が足元を覆う。
「ここから先は“外”だ」
ギークが言う。
「街道も、巡回もない。何が出てもおかしくない」
その言葉に、ミリが補足するように口を開く。
「魔物だけじゃないよ。毒草、幻覚を見せる霧、音で誘う虫……あとは、古い罠も残ってるかも」
「罠?」
「昔、この森は戦場だったんだって」
シーリスが肩越しに言う。
「人間と、エルフと、それ以外。まあ、碌でもない歴史さ」
軽く言っているが、その内容は重い。
リョウは黙って耳を傾けた。
「それと――」
ミリが少し声を落とす。
「ダークエルフ」
その言葉だけで、空気が一段重くなる。
「会いに行くんだろ? そいつに」
ギークが振り返る。
「言っておくが、交渉相手じゃない。基本は敵だ」
「……分かってる」
即答だった。
だが、その自分の声に、わずかな違和感が混じる。
怖くない。
その事実に。
ミリが言っていた危険の数々。 普通なら、足がすくんでもおかしくない。
それなのに――
「リョウ?」
「いや、なんでもない」
思考を振り払う。
今、考えるべきことではない。
森は、次第に深くなる。
光が届かなくなり、昼だというのに薄暗い。
音も変わった。 風の音ではない。 何かが、こちらをうかがっているような気配。
「止まれ」
ギークの低い声。
全員が一斉に足を止める。
その直後――
ガサリ、と茂みが揺れた。
飛び出してきたのは、狼に似た魔物。 だが、その目は赤く濁り、牙は異様に長い。
一体ではない。 二体、三体――いや、五体。
「来るぞ!」
ギークが踏み込む。
一閃。
一体の首が、何の抵抗もなく宙を舞った。
シーリスの杖が光る。 次の瞬間、炎が弾け、二体をまとめて焼き払う。
「数は任せて!」
ミリが詠唱を始める。
透明な膜が広がり、リョウの周囲を覆った。
ニーナはすでに姿が消えている。 次に見えた時には、魔物の背後に回り、喉元を裂いていた。
――速い。
圧倒的だった。
リョウは、ただ立ち尽くす。
何もできない。
何も、しない。
それでも――
恐怖はなかった。
魔物がこちらに飛びかかってくる。
反応すらできない距離。
だが、その瞬間。
バチン、と音がした。
見えない何かに弾かれたように、魔物が吹き飛ぶ。
地面を転がり、動かなくなる。
「え……?」
ミリが目を丸くする。
「今の、防御魔法じゃないよ……?」
リョウ自身も分かっていない。
何もしていない。
ただ――
「近づくな、って思っただけだ」
ぽつりと、呟く。
その言葉に、シーリスが眉をひそめる。
「思っただけで弾いた? そんな話、聞いたことがないな」
ギークは何も言わない。
ただ、リョウをじっと見ている。
その視線が、妙に重かった。
戦闘は、すぐに終わった。
残骸を確認し、周囲の安全を確かめる。
ニーナが戻ってきて、短く言う。
「周囲に追加の気配なし」
「よし。進むぞ」
ギークが歩き出す。
だが、その前に一度だけ、振り返った。
「お前……本当に無能力者か?」
問いは、まっすぐだった。
リョウは答えに詰まる。
無能力者。
それは、この世界に来てから言われてきた言葉だ。
神殿長メリルの鑑定でも、何も映らなかった。
空っぽ。
何も持たない存在。
それが、自分だったはずだ。
「……分からない」
正直に答える。
それしかなかった。
ギークは数秒、黙っていたが――
「まあいい」
短く言って、前を向く。
「使えるなら、それでいい」
それ以上は追及しなかった。
だが、完全に納得したわけではないのは明らかだった。
再び、歩き出す。
森はさらに深く、暗くなる。
どこかで、水の滴る音がする。
遠くで、何かが鳴いている。
そのすべてが、異質だった。
「ねえ、リョウ」
ミリが小さく声をかける。
「さっきの、どうやったの?」
「分からない。本当に」
「でも、怖くなかったでしょ?」
図星だった。
リョウは、少しだけ考えてから答える。
「……怖いって、どういう感じだったか、思い出せない」
自分で言って、ぞっとする。
感情が、抜け落ちているような感覚。
それは異常だ。
だが同時に――
どこかで、納得している自分もいる。
「それ、たぶん」
ミリが言いかけて、口を閉じる。
「ううん。今はいいや」
無理に笑う。
その笑顔が、少しだけ硬い。
森の奥。
光の届かないその先に、何かがある。
確信だけが、あった。
理由は分からない。
だが、分かる。
そこに、行かなければならない。
マキがいるのかどうかも分からない。
生きているのかも、分からない。
それでも――
「行くしかない」
誰に言うでもなく、呟く。
その声は、不思議と揺れていなかった。
無能だと思っていた自分。
何も持たないと思っていた自分。
だが、もし――
本当に何もないのだとしたら。
あの魔物を弾いた力は、何だ。
恐怖を感じない、この感覚は何だ。
鑑定できない理由は、何だ。
分からないことばかりだ。
だが、一つだけ確かなことがある。
この旅は、ただの探索では終わらない。
自分の正体に触れる旅になる。
そして――
「マキ」
名前を呼ぶ。
風が、わずかに揺れた。
返事はない。
だが、確かに何かが動いた気がした。
森の奥で。
見えない何かが、こちらを待っている。
リョウは足を踏み出す。
その一歩は、もう迷っていなかった。
森は、静かすぎた。
風が葉を揺らす音さえ、どこか遠く感じる。踏みしめる土の感触だけが、やけに現実的だった。
「……なあ、これ、本当に安全なんだよな」
リョウは前を歩くギークの背中に向かって声を投げた。だが返事はない。代わりに、わずかに肩が動いた気がしただけだった。
その沈黙が、不安を増幅させる。
「静かにして」
短く、鋭い声。ニーナだった。フードの奥からこちらを一瞥する。
リョウは口を閉じるしかなかった。
――場違いだ。
そう思うたび、胸の奥がじくじくと痛む。
剣もない。魔法も使えない。何か特別な力があるわけでもない。
ただここにいるだけの存在。
それが、自分だ。
「来るぞ」
ギークの声が低く落ちた、その瞬間だった。
茂みが弾ける。
飛び出してきたのは、狼に似た魔物だった。だがその目は濁り、口からは黒い泡が垂れている。
「シーリス!」
「任せろ」
細身の男が杖を振り抜く。空気が震えた。
直後、炎が走る。
一直線に、魔物の体を貫いた。焼ける臭いと、断末魔。
だが一体では終わらない。
左右から、さらに二体。
「ミリ!」
「はい!」
小柄な少女が前に出る。淡い光が広がり、薄い膜のように全員を覆った。
その直後、魔物の爪が襲いかかる。
――弾かれた。
防御魔法だ。
リョウは、ただ見ているしかなかった。
戦いは、あまりに速い。
自分が入る余地など、どこにもない。
数分もかからず、魔物は全て倒れた。
「……終わりか」
誰かが呟く。
だが、その安堵は長く続かなかった。
「……まだだ」
ギークが剣を構えたまま、森の奥を睨んでいる。
その視線の先。
――何かが、立っていた。
フードを被った、人影。
いや、人間ではない。
動きが、不自然すぎる。
「人形……?」
ミリの声が震える。
その瞬間だった。
それは、消えた。
「っ!?」
次に現れたのは――ニーナの背後だった。
刃が閃く。
音は、なかった。
ただ、肉が裂ける感触だけが空気を震わせた。
「……え」
ニーナの体が、ゆっくりと崩れる。
胸元から、血が噴き出した。
リョウの思考が止まる。
何が起きたのか、理解できない。
「ニーナァァ!!」
シーリスの叫び。
杖が振り下ろされる。だが――
当たらない。
また、消えた。
「どこだ……!」
ギークが唸る。
その時、ミリの悲鳴が響いた。
振り返る。
遅かった。
フードの影が、彼女の喉元に手をかけている。
「やめ――」
声は、最後まで出なかった。
鈍い音。
骨が砕ける音だった。
ミリの体が、力なく落ちる。
「……なんだよ、これ」
リョウの足が震える。
逃げたい。
でも、動けない。
「リョウ!」
ギークの怒声が飛ぶ。
「奥に行け! 走れ!!」
その言葉で、ようやく体が動いた。
「で、でも――」
「いいから行け!!」
剣と影がぶつかる。
火花が散る。
その一瞬の隙に、リョウは走り出した。
背後で、何かが壊れる音がする。
叫び声。
それが誰のものか、振り返る余裕はなかった。
走る。
ただ、ひたすらに。
枝が顔を打つ。足がもつれる。それでも止まれない。
止まれば、終わる。
頭の中は、それだけだった。
どれくらい走ったのか分からない。
呼吸が限界に達した頃。
視界が開けた。
「……村?」
木々の向こうに、集落が見えた。
煙が上がっている。建物もある。
――助かった。
その一心で、リョウは駆け込んだ。
「た、助けてくれ!」
声を張り上げる。
だが。
返ってきたのは、静寂だった。
次の瞬間。
無数の視線が、突き刺さる。
気づいた。
彼らは――人間ではない。
耳が長い。
肌の色も、どこか異質だ。
「……ダークエルフ」
誰かが呟いた。
その声には、明確な敵意が含まれていた。
「人間だ」
ざわめきが広がる。
武器が向けられる。
「違う、俺は――」
言い終える前に、背後から衝撃が走った。
膝が崩れる。
視界が揺れる。
「捕らえろ」
冷たい声。
そのまま、地面に押さえつけられる。
抵抗する力は、残っていなかった。
「やめ……て……」
声は掠れ、消えた。
意識が、闇に沈む。
最後に浮かんだのは。
血に染まった森と。
消えない、恐怖だった。
薄暗い。
それが、リョウが目を覚まして最初に抱いた感覚だった。
石ではない。木でもない。視界の端に映る壁は、どこか生きているように脈打ち、絡み合った蔓が幾重にも重なって形を作っている。触れずとも分かる湿り気と、かすかに漂う土と葉の匂い。
牢獄だ、と理解するまでに時間はかからなかった。
「……生きてるのか、俺」
喉が焼けるように乾いている。声はかすれ、情けないほど弱い。
最後に見た光景が脳裏に蘇る。
血。
叫び。
崩れ落ちる仲間たち。
――天なる月。
あの圧倒的だったはずのパーティが、音もなく、ただ静かに壊されていった光景。
「……っ」
思い出そうとすると、胸の奥が強く締め付けられる。あれを直視すれば、きっと何かが壊れる。
だからリョウは、意識的に思考を止めた。
代わりに、現実へと意識を引き戻す。
拘束はされていない。だが、出入口らしき場所は蔓が密に絡み合い、扉のように閉ざされている。外の気配は感じるが、人の気配は薄い。
逃げられるか。
そう考えた瞬間――
「無駄だよ」
低く、冷たい声が、すぐ背後から落ちた。
反射的に振り返る。
そこに立っていたのは、一人の女だった。
黒に近い紫の肌。長い耳。鋭く細められた目。
そして何より、その視線。
感情を一切感じさせない、研ぎ澄まされた刃のような冷たさ。
「ダークエルフ……」
無意識に呟いた言葉に、女はわずかに目を細めた。
「知っているのか。なら話は早い」
ゆっくりと一歩、踏み出してくる。
足音はほとんどしない。それなのに、近づくたびに圧が増していく。
「ここは我らの里だ。許可なく出ることはできない」
「……仲間は」
言い終える前に、女の視線が鋭くなる。
それだけで、喉が詰まった。
「余計なことは考えるな」
淡々とした声音。
だが、その奥にあるのは明確な拒絶だった。
「生かしているのは、理由があるからだ。それを履き違えるな」
その言葉で、ようやく理解する。
自分は助けられたわけではない。
利用されているだけだ。
「……あんたが、長か」
女はわずかに顎を引いた。
「メルだ。この里の長をしている」
名乗りは簡潔だった。
だが、それ以上を語る気は一切ないという意思が滲んでいる。
メルは一瞬だけリョウを見据え、何かを測るように目を細めた。
「妙な男だな」
「……何が」
「気配が、歪んでいる」
その言葉に、心臓が強く跳ねた。
鑑定。
あの神殿長メリルが言っていた言葉が蘇る。
――あなたは、視えない。
「……さあな。俺はただの無能力者だ」
自嘲気味に言うと、メルは興味を失ったように視線を外した。
「どうでもいい。価値があるかどうか、それだけだ」
冷たい言葉だった。
だが、不思議と腹は立たなかった。
事実だからだ。
この世界で、価値のない人間は、生きる資格すら持たない。
リョウはそれを、嫌というほど思い知らされてきた。
「世話役をつける」
メルはそれだけ言うと、背を向けた。
蔓の扉に手をかざすと、まるで生き物のようにそれがほどけ、外への道が開く。
去り際、わずかに振り返る。
「逃げようとするな。次はない」
その一言だけを残し、メルは消えた。
再び閉じられる蔓。
静寂。
重く、息苦しい沈黙。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
助かったわけじゃない。
むしろ、状況は最悪だ。
敵地のど真ん中。仲間はおそらく全滅。
自分は無力。
――詰みだ。
そう思った、その時だった。
「……ねえ」
今度は、少し高い声。
警戒して視線を向けると、蔓の隙間からひょこりと顔を出す少女がいた。
同じくダークエルフだが、先ほどのメルとはまるで違う。
どこか幼さの残る顔立ち。好奇心を隠しきれない瞳。
腰には、三本のナイフ。
「あなたが例の人?」
遠慮のない視線でじっと見つめてくる。
「……例の、って?」
「長が拾ってきた変なの」
遠慮がなかった。
「キキだよ。今日からあんたの面倒見る係」
軽い調子で中に入ってくると、壁にもたれかかる。
警戒心がないわけではないが、敵意も薄い。
不思議な距離感だった。
「逃げようとしないの?」
「できると思うか?」
「無理だね」
即答だった。
そして、くすっと笑う。
「ここ、結界張ってあるし。外はもっと怖いし」
あっけらかんとした口調。
だが、その言葉の裏にある現実は重い。
「……そうか」
「でもさ」
キキは少しだけ顔を近づけた。
「なんで生きてるの?」
その問いは、無邪気で、残酷だった。
リョウは答えに詰まる。
分からないからだ。
なぜ自分だけが生き残ったのか。
なぜ自分がここにいるのか。
理由なんて、一つも。
「……さあな」
結局、それしか言えなかった。
キキはしばらくリョウを見つめていたが、やがて肩をすくめた。
「変なの」
そして、そのまま床に座り込む。
しばらく沈黙が続いた。
不思議と、居心地は悪くない。
先ほどまでの張り詰めた空気とは違う。
少しだけ、人の温度がある。
だからだろうか。
気づけば、口が動いていた。
「なあ」
「なに?」
「……自分の能力って、どうやったら分かる」
言った瞬間、後悔した。
何を言っているんだ、と。
今さら。
そんなもの、ないと証明され続けてきたのに。
だが、キキは意外そうに目を瞬かせた。
「知らないの?」
「……分からない」
しばらくの沈黙。
そして、キキはじっとリョウを見つめる。
さっきまでの軽さが消えていた。
「普通はね」
ゆっくりと口を開く。
「感じるんだよ。自分の中にある何かを」
胸に手を当てる仕草。
「魔力とか、気配とか。そういうの」
「……俺には、ない」
即答だった。
迷いもなく。
それが現実だからだ。
キキは少しだけ首を傾げた。
「ほんとに?」
「何度も言われた。俺は空っぽだって」
神殿でも、村でも、冒険者たちにも。
何度も。
何度も。
「……ふーん」
キキは立ち上がると、ゆっくりと近づいてきた。
距離が縮まる。
手が伸びる。
反射的に身構えるが、攻撃の気配はない。
そのまま、胸に手を当てられた。
「……?」
ひやりとした感触。
だが、それだけだ。
何も起きない。
はずだった。
「……あれ?」
キキの眉がわずかに動く。
その反応に、リョウの心臓が強く跳ねた。
「どうした」
「……なんか」
言い淀む。
そして、少しだけ真剣な顔になる。
「変だよ、あんた」
その言葉は、メルと同じだった。
だが、意味は違う。
「空っぽじゃない」
「え?」
「むしろ――」
言葉が途切れる。
キキの表情が、初めて明確な戸惑いを帯びた。
「……何も、見えない」
その瞬間。
リョウの中で、何かが確かに軋んだ。
空っぽではない。
だが、何も見えない。
それは、無ではない。
未定義。
未観測。
あるいは――
「……俺は」
言葉が、喉に引っかかる。
怖い。
知るのが怖い。
だが、それ以上に。
「知りたい」
絞り出すように言った。
自分が何者なのか。
なぜここにいるのか。
なぜ生きているのか。
キキは、そんなリョウをじっと見つめる。
そして、小さく息を吐いた。
「……いいよ」
その目に、わずかな決意が宿る。
「ちょっと調べてみる」
軽い調子に戻った声。
だが、その奥にある緊張は消えていない。
「ただし」
指を一本立てる。
「変なことになっても、知らないからね」
その言葉に、リョウは静かに頷いた。
すでに、十分すぎるほど変な状況だ。
これ以上悪くなるとも思えない。
――そう、思っていた。
だが、その認識が甘いことを。
このときのリョウは、まだ知らなかった。
冷えた土の匂いが、肺の奥に沈んでいた。
リョウは、暗い蔓草の壁にもたれかかりながら、ゆっくりと目を開けた。ここがどこなのか、もう考えるのもやめている。ただ一つ分かっているのは――ここは「逃げ場がない場所」だということだけだ。
ダークエルフの村。
捕らえられてから、何日経ったのかも曖昧だった。
「……起きてる」
低く、感情を抑えた声。
視線を向けると、蔓格子の向こうにキキが立っていた。腰には、いつものように三本のナイフ。無駄のない立ち姿は、獣のような緊張感をまとっている。
「見張りって、退屈だろ」
リョウが軽口を叩くと、キキは一瞬だけ眉を動かした。
「黙ってて」
それ以上、会話は続かなかった。
いつものことだ。
だが、その日の空気は、どこか違っていた。
静かすぎる。
張り詰めている。
まるで何かが起きる直前のように。
やがて、キキは周囲を警戒するように視線を走らせると、小さく舌打ちをした。
「……来て」
「は?」
音が鳴る。
蔓格子が、きしむ音と共に開いた。
「いいから、早く」
いつもの冷たい命令口調。だが、その奥に焦りが混じっているのが分かった。
リョウはゆっくりと立ち上がる。逃げる機会かもしれない――そう思わなかったわけではないが、目の前の少女から視線を外す気にはなれなかった。
キキは短く息を吐き、背後へと目を向けた。
「サミー、早く」
その名前が呼ばれた瞬間、空気が変わった。
重く、鋭く、冷たい。
影の奥から現れたのは、一人の女だった。
背丈ほどもある鋼の杖を引きずるように持ち、その歩みは遅い。それでも、ただそこに立つだけで、周囲の空気を支配するような圧があった。
「……面倒」
第一声は、それだった。
「キキに頼まれなければ、こんなところ来ない」
サミーはリョウを一瞥する。その目には、興味も、感情もなかった。ただの対象物を見るような視線。
「こいつ?」
「そう」
「……普通の人間にしか見えない」
その言葉は、ある意味で正しかった。
リョウは、何も持たない。
魔法も、力も、特別な何かも。
だからこそ、この世界では「無能」と断じられてきた。
「鑑定する」
サミーが杖を軽く突いた。
瞬間――
空気が震えた。
視界の端が歪む。耳鳴りが走り、頭の奥を直接掴まれるような感覚。
「――っ」
リョウは思わず膝をついた。
見えない何かが、自分の中に侵入してくる。
探られている。
暴かれている。
隠しようのない、内側を。
「……なに、これ」
サミーの声が、初めて揺れた。
無機質だった表情に、明確な困惑が浮かぶ。
「……あり得ない」
杖を握る手が、わずかに震えていた。
「能力が……複数、重なってる?」
リョウの意識は、ぼやけ始めていた。
だが、その言葉だけは、はっきりと耳に届いた。
「……違う。これは……」
サミーは一歩、踏み出した。
その瞬間、彼女の顔色が変わる。
「コピー……?」
空気が凍りついた。
「……そういうこと」
ぽつりと、呟く。
「奪うんじゃない。真似るんでもない。接触した相手の能力を……そのまま再現する」
キキが息を呑んだ。
「でも、それなら……なんで今まで――」
「制御できてない」
即答だった。
「発動条件も、範囲も、出力も……全部、ぐちゃぐちゃ」
サミーの視線が、鋭くリョウに突き刺さる。
「だから『無能』に見えてただけ」
その一言で、リョウの中で何かが弾けた。
無能。
何もできない存在。
そう言われ続けてきた言葉。
それが――
「……違う?」
かすれた声が、漏れる。
サミーは答えなかった。
ただ、じっとリョウを見ていた。
そして――
ふらり、と。
その体が揺れた。
「……え?」
キキが目を見開く。
次の瞬間、サミーの膝が崩れ落ちた。
鈍い音。
床に、倒れ込む。
「サミー!?」
駆け寄るキキ。
だが、その手は途中で止まった。
触れた瞬間、分かってしまったからだ。
冷たい。
あまりにも、静かすぎる。
「……なんで」
声が震える。
「なんで……」
答えは、なかった。
リョウは、ただその光景を見ていた。
理解が追いつかない。
だが、確かに感じていた。
さっきまで自分の中に流れ込んできた、あの感覚。
あれは――
消えていない。
残っている。
いや、むしろ――
膨れ上がっている。
「……お前」
キキが振り返る。
その目には、明確な敵意が宿っていた。
「何をした」
「……何も」
言い終わる前に、キキが動いた。
速い。
床を蹴る音すら、ほとんどしない。
次の瞬間には、リョウの目の前にいた。
ナイフが、一直線に喉を狙う。
「――っ!」
反射だった。
考えるより先に、体が動く。
右手を前に突き出した。
その瞬間――
爆発した。
目に見えない衝撃が、空間ごと押し潰すように広がる。
「な……」
キキの体が、弾かれた。
いや、吹き飛ばされた。
壁に叩きつけられる。
鈍い衝撃音。
蔓壁に亀裂が走る。
「……がっ」
キキはそのまま、力なく崩れ落ちた。
静寂。
何もかもが、止まったような感覚。
リョウは、自分の手を見ていた。
「……今の、俺が?」
信じられない。
だが、事実はそこにあった。
さっきの感覚。
サミーの中にあった力。
それが――
「使えた……?」
胸の奥で、何かが脈打つ。
恐怖か、興奮か、それとも別の何かか。
分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
もう、自分は「何もない存在」ではない。
足元に倒れるサミー。
気を失ったキキ。
その中心に立つ、自分。
リョウはゆっくりと息を吐いた。
「……無能、ね」
その言葉は、もう軽くはなかった。
むしろ、どこか滑稽ですらある。
この力。
制御できていないとはいえ、その一撃は明らかに異常だった。
速度も、威力も、常識の範囲を逸脱している。
もしこれを――
「ちゃんと使えたら」
その先を、想像する。
そして、すぐに首を振った。
今は、それどころじゃない。
ここは敵地だ。
騒ぎになれば、すぐに他のダークエルフが来る。
リョウはゆっくりと歩き出した。
一歩ごとに、感覚が変わっていく。
体が軽い。
視界が鮮明だ。
音も、空気の流れも、すべてがはっきりと分かる。
まるで世界そのものが、別のものに置き換わったようだった。
「……これが、力」
呟きながら、リョウは出口へと向かう。
その背中に、もう迷いはなかった。
無能だったはずの男が、初めて手にした力。
それは、まだ制御できない暴走する刃。
だが同時に――
すべてを変える可能性でもあった。




