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灰燼世界のロジスティクス  作者: 九式


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第9話|回想

 泥の中に沈んでいく。

 意識の端から、計算尺の冷たい感触も、集積所の湿った埃の匂いも消えていく。

 最後に見たのは、ランプの油が尽きかけ、断末魔のように瞬く事務室の光景だった。

 重い瞼が閉じ、私は暗闇の中に落ちる。

 静寂の中で、幼い記憶の断片が浮上してきた。

 それは、世界がまだ「言葉」ではなく「個数」でできていた頃の記憶だ。

 ヴァルデリア帝国の地方都市。石畳の小道の奥にある、父の書斎。

 父は、大学で幾何学を教える数学者だった。部屋には常に、濃いインクの匂いと、高く積み上げられた羊皮紙が放つ独特の乾いた香りが充満していた。

 私は父の膝の上で、未知の生き物の足跡をなぞるように、紙の上の記号を指で追いかけていた。

「カレン。これはね、世界を動かしている本当の姿なんだよ」

 父の穏やかな声が、頭上から降ってくる。

「数字はね、絶対に嘘をつかない。お友達の気持ちは明日には変わるかもしれないけれど、一に一を足せば、昨日も今日も、明日も必ず二になる。それはね、この世界で一番『せいじつ』なことなんだよ」

 私はその言葉を、呪文のように胸に刻んだ。

 当時の私にとって、大人が使う言葉はどれも曖昧で、捉えどころのない霧のようだった。「仲良く」「優しく」「いい子に」。それらは状況によって正解がコロコロと変わり、私をひどく混乱させた。

 けれど、数字は違った。

 庭に落ちた木の実を数える。右側に三つ、左側に二つ。合わせれば五つ。

 そこには、誰にも邪魔されない、完璧な納得があった。

「お父さん。数字は、お外でも同じなの?」

「そうだよ、カレン。どんなに遠くへ行っても、この決まりは変わらない」

「……じゃあ、私、数字が好き。数字は、怒らないから」 

 しかし、その小さな安寧は、周囲との乖離を生んだ。

 近所の子供たちが集まる広場。私は一人、木陰で地面に数式を書いていた。

「ねえ、カレン。あっちで追いかけっこしようよ」

 一人の少年が声をかけてきた。名はハラルドだったと思う。

 私は計算の手を止めず、幼く拙い語彙で答えた。

「私は、お日様の影を数えてるの。影はね、少しずつ短くなる。これは、地球が回っている証拠なんだって。お父様さんが言ってた」

 ハラルドは当惑したような顔をしたが、それでも去ろうとはしなかった。

「……お前、変なこと言うけど、なんかすごいよな」

 彼が向ける視線には、純粋な、そして無責任な好意があった。だが、その「好意」こそが、私をさらなる孤立へと追いやった。

 広場の隅で、ハラルドを追いかけていた少女たちが、私を監視していた。

 彼女たちにとって、ハラルドは集団の中心であり、自分たちの関心を独占すべき対象だった。

 その彼が、地面に這いつくばって、わけのわからない呪文を書いている「不気味な子」に構っている。

 それは彼女たちの秩序を脅かす、重大なノイズだった。

 数日後、少女たちが私を囲んだ。

「あんた、地面に何を書いてるの? 呪い? 気持ち悪い」

「呪いじゃない。これは、算数」

「あんたが変だから、みんな迷惑してるのよ。ハラルドだって、あんたを可哀想だと思って、わざと優しくしてあげてるだけなんだから」

 私は叫ばなかった。泣きもしなかった。

 ただ、自分を囲む少女たちの人数と、彼女たちの声のデシベル、そしてハラルドという変数がもたらした不和のバランスを、幼いなりに分析していた。

 家に戻り、私は父に尋ねた。

「お父さん。どうして、正しいことを言うと、みんな嫌な顔をするの?」

 父は眼鏡の奥の目を細め、悲しそうに私を見た。

「カレン。本当のことは、時々、人を傷つける武器になってしまうんだ。多くの人は、数字よりも、みんなと同じでいることの安心を選んでしまう」

「私は、数字がいい。数字だけが、私を裏切らない。一足す一は、いつだって二だから。そこに、嘘はないから」

 父は、その小さな、しかし確固たる意志を宿した私の手を、大きな掌で包んだ。

「それでいい、カレン。お前が数字を信じ続ける限り、数字もお前を守ってくれる。誰も理解してくれなくても、計算式の最後にある『=』だけは、お前を裏切らないよ」



 嵐は、予想よりも早く、そして暴力的に訪れた。

 ヴァルデリア帝国の国境紛争が全面戦争へと拡大し、平穏な地方都市は一夜にして戦線の一部と化した。

 空を引き裂く魔導砲の轟音。煤と灰が降り注ぐ中、私の家も例外なく破壊された。

 父も、母も、そして私が愛した書斎も、すべては熱膨張という物理現象の前に消失した。

 一人残された私が、焼けた跡から持ち出したのは、父の形見である「解析幾何学」を始めとした数冊の本だけだった。

 私は帝都の端にある、冷え切った孤児院へと送られた。

 そこは、慈善という名の「最低限の資源配分」の現場だった。

 粗末なベッドが並ぶ大部屋。一日に支給されるのは、薄いスープと黒パン一切れ。

 子供たちは常に飢え、他人の取り分を奪うことでその日を繋いでいた。私はその喧騒から離れ、常に片隅で、持ち出した数学の本を読みふけっていた。

 そこにある数式だけが、私にとって唯一の避難所だったからだ。

 xがyに代わり、未知数が答えへと収束していく過程を見つめている間だけは、腹の虫の鳴き声も、冬の寒さも、遠い世界の出来事のように思えた。

 しかし、数年が経ち、私が十歳に差し掛かった頃。

 私の脳内では、ある冷徹な「計算」が完了していた。

 孤児院の台帳。院長の疲弊した顔。支給される食糧の総量。私は、自分の生存がこのシステムにどのような影響を与えているかを算出した。

「……私は、この場所にとって『余剰』だ」

 私は自分自身を客観的に見つめた。

 体力はない。家事や労働の効率も、他の年長者に劣る。一方で、この孤児院は財政難に喘いでおり、一人あたりの維持コストは日増しに上がっている。

つまり、私という個体にリソースを割き続けることは、孤児院全体の「生存確率」を低下させる要因になっているのだ。

 私はここにいてはいけない。この場所に、私を生かしておくためのリソースを割く必要はない。

 それは感情的な自己犠牲ではなく、純粋に合理的な帰結だった。

 私は院長の部屋を訪ねた。

「院長。私は、ここを去ります」

「……カレン? 急に何を言い出す。外はまだ戦争だぞ。一人でどこへ行くつもりだ」

「私は、この場所のリソースを浪費するだけの存在になっています。それは正しくありません」

 院長は絶句した。

 彼は、私が捨てられることに絶望しているのではなく、自分の存在が非効率的であることを、帳簿の上のエラーを指摘するように淡々と告げていることに驚愕したようだった。

「……カレン。お前は本当に……。だが、行く当てはあるのか」

「軍学校の募集を見ました。そこなら、私の『数字の能力』を生存のための資源として支払うことができます。軍が私を養う価値があると判断するなら、そこが私の居場所です」

 私の瞳には、迷いも恐怖もなかった。

 自分という「変数」を、より適した「方程式」に組み込むための、移動。

 それが私なりの生存戦略だった。

 帝立軍事学校。

 そこは、人間を「戦力」という単位で加工し、分類する工場だった。

 私の評価は、極端なものだった。

 魔導適性テスト:操作の安定性は高いが、最大出力は凡庸。大規模魔法を担う派手な魔導兵にはなれない。

 外交・心理適性:壊滅的。指揮官として部下の心を掌握するのは不可能。

 体力適性:基準値ギリギリ。前線で剣を振り回し続けるタフさはない。

 しかし、論理・数学能力テストにおいて、私は校史に残る数値を叩き出した。

 三次元空間における偏差計算、多変量解析、資源の再配分アルゴリズム。

 私の脳内では、他者が紙とペンで格闘する数式が、まるで時計の歯車のように自動的に組み上がっていった。

 進路面談の日。教官は二つの候補を提示した。

「ヘイル候補生。君の計算能力は、間違いなく我が軍の宝だ。一つは砲兵科だ。長距離弾道計算、気象変動による偏差修正。君なら、一射ごとにミリ単位の精度で敵を消し飛ばせるだろう」

 私は無表情に問い返した。

「砲兵科における変数は、重力、風向、湿度、空気抵抗。それだけですか?」

「……基本的にはそうだ。もちろん、敵の結界強度なども含まれるが、君にとっては単純作業だろう」

「お断りします。重力や空気抵抗といった物理法則は、あまりにも静的で、予測が容易すぎます。正解があらかじめ決まっている問題を解き続けるのは、知的な資源の浪費です。私には、もっと……変数の多い、不確定な世界が必要です」

 教官は眉をひそめた。

「不確定な世界? 兵士が求めるのは、確実な勝利だろう」

「勝利とは、結果に過ぎません。私が求めているのは、制御そのものです」

 私は、もう一つの候補――兵站科の資料を指さした。

「兵站だと? ヘイル、そこは軍の中で最も『地味』で、最も『報われない』部署だ。英雄にはなれない。泥沼の在庫整理だぞ」

「いいえ」

 私は答えた。

「兵站こそが、この世で最も複雑で、美しい関数です。需要、供給、輸送路の損壊、兵士の疲労、天候、そして『死』。それら無数の、予測不可能な変数が、一缶の保存食、一個の触媒石という形で交差する。その濁流のような不確実性を、計算という網で掬い取り、秩序という名の方程式に収める。これほど知的な挑戦に満ちた場所が、他にありますか?」

 教官は、目の前の少女が、もはや自分の理解できる範囲を超えていることを悟ったようだった。

 私は、平和のために計算しているのではない。国家の勝利のために計算しているのですらない。

 ただ、この世界の「無秩序」という怪物に、数字という鎖を巻き付けることに、至上の悦びを見出していたのだ。

「……君は、狂っているか、あるいは聖人かのどちらかだ」

「私は、ただの兵站将校を目指す候補生です、教官。等号を合わせることに、意味以外の理由は必要ありません」



 兵站学校での演習。

「補給路が二箇所切断。兵員の三割が負傷。食糧は二日分。増援まで一週間。どう配分する?」

 他の候補生たちが情に流された配分案を出して落第していく中、私は淡々と数値を弾き出した。

「負傷者のうち、復帰確率が二〇パーセント以下の者は食糧配分をゼロにします。そのリソースを、防衛戦を維持できる健常者に集中投下する。これが、部隊全体が全滅する確率を最小化する唯一の解です」

 その回答は、非人間的だった。だが、数理的には「正しい」。

 私にとって、死とは「数値の減少」であり、感情とは「計算を狂わせるノイズ」に過ぎなかった。

 夢の中で、私は幼い自分の手を引いて、記号の庭を歩く。

 等号の向こう側に、光はない。あるのは、どこまでも続く、正確な、沈黙の世界。

 ふと、遠くで砲弾を射出する轟音が響いた。あるいは、事務室の扉が叩かれる音だったかもしれない。

 私の意識は、ゆっくりと、しかし確実に、現実へと戻っていった。

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