第8話|安定
第十四補給集積所の朝は、以前のような怒号ではなく、規則正しい木箱の重量音と、事務的な点呼の声で幕を開けるようになった。私が導入した「ロット単位供給」と、特殊信号弾を起点とする「緊急射出供給」の併用は、当初の激しい摩擦を通り抜け、今やこの戦域における「物理的な法則」として定着しつつあった。
事務室のカウンターに並ぶ下士官たちの表情からは、以前のような剥き出しの敵意が消えている。彼らは、私が提示する支給伝票の数字を、もはや「奪われた取り分」ではなく、「維持可能な限界値」として受理するようになっていた。ロット管理による「端数切り捨て」が、決して恣意的な嫌がらせではなく、集積所全体の在庫を翌日まで繋ぐための唯一の数理的解であることを、彼らもまた現場の静まりかえった弾薬庫の前で理解したのだ。
「ヘイル少尉、本日の第四小隊分、受領しました」
かつてカウンターを叩いて激昂した大尉が、今は静かに受領印を押し、私の顔を見た。
「……あんたの言う通りだったよ。端数の数個を惜しんで管理を厳格にしたおかげで、昨夜の夜間砲撃の最中、全小隊の魔導砲が同時に弾切れを起こす事態は避けられた。薄く広く、だが途切れない。それがどれほど心強いか、泥の中に数日いればわかる」
「理解していただき助かります、大尉。リソースの平準化こそが、戦線の寿命を延ばす唯一の手段です」
私は淡々と答え、次の伝票に目を向けた。
しかし、安定は新たな逸脱を生む。
深夜、第一セクターの空に、赤く尾を引く特殊信号弾が二度、立て続けに上がった。
緊急射出供給。それは書類による申請を必要としない。信号弾が視認された瞬間、集積所は問答無用で予備砲身から物資を射出する。現場の「一刻を争う死」を救うための、全自動の救済措置だ。
だが、翌朝の報告書によれば、信号弾を上げた第二中隊に、それほどの緊急性は認められなかった。
私は、受領に来た第二中隊の軍曹を呼び止めた。
「軍曹。昨夜、貴部隊から二発の緊急信号弾が上がりましたね。射出された触媒石二ケースの受領を確認してください」
「ああ、助かったよ少尉! 敵の小競り合いが続いててな。少しでも早く欲しかったんだ。信号弾を上げれば、すぐに空から届くんだろ? あれは便利だ」
「軍曹。あれはあなたの『便利』のためにあるのではありません」
私は、事務室の空気が凍るような声を出した。「射出供給は、輸送路が物理的に遮断された場合、あるいは一時間以内に戦線が崩壊すると予測される場合にのみ許される、高コストな例外措置です。昨夜の貴部隊の消耗記録を確認しましたが、馬車輸送を待つ余力は十分にありました。安易な利便性のために、集積所の貴重な魔導推進剤と射出砲身を浪費したことは、軍規違反に近いリソースの私物化です」
私は軍曹の目を真っ直ぐに見据えた。
「いいですか。規律を乱す部隊には、次回の通常ロット配分からペナルティを課します。これは脅しではなく、全体の資源を守るための調整です」
軍曹は気圧されたように口を噤み、下がっていった。
*
安定した運用は、私に「考える時間」を与えてくれた。事務室の奥で、私は巨大な戦域図と、日々更新される膨大な供給データを照らし合わせていた。誰も気づいていないことだが、戦場の「実需」と、後方で弾き出される「理論値」の乖離は、この数日間で劇的に小さくなっていた。
だが、私一人の計算能力には限界がある。現場の意思決定者である参謀たちの視点が必要不可欠だった。私は、第一連隊の作戦本部にいる参謀将校の元へ、三日に一度は相談――という名のデータ収集――に向かうようになった。
「ヘイル少尉、また君か」
参謀将校は地図の上に目を落としながら苦笑いした。
「兵站将校が作戦本部にこれほど頻繁に出入りするのは、帝国の建軍以来、君だけだろう」
「作戦の意図を知らなければ、適正な在庫配置は不可能です、参謀。本日の第三セクターにおける陽動攻撃。これに伴う魔導砲の『擬似発砲』の回数を教えてください。実弾を撃たない操作であっても、触媒石の劣化は発生します。その摩耗率を計算に組み込みたいのです」
「……細かいな。だが、君の修正案のおかげで、遊休在庫が死蔵されることがなくなったのは認めるよ」
私と参謀将校の間で繰り返されるのは、このような対話だ。作戦の規模、予想される戦闘継続時間、地形による魔導兵の疲労蓄積率。それらを一つずつ数値化し、私の在庫管理表へとフィードバックさせる。
「参謀、ロジスティクスの失敗の九割は、情報の欠落に起因します。需要に対して供給を任意に変えるのではなく、需要そのものを供給能力の枠内に『誘導』しなければなりません。この作戦に使える触媒はこれだけである、と事前に確定させることで、現場の指揮官にリソース配分の意識を持たせる。私のロット管理は、そのための強制的な枠組みです」
参謀将校は、私の言葉に戦慄を覚えたようだった。
「君は、戦争そのものを帳簿の枠に収めようとしているのか。すべてを計算の一部として?」
「それが、最も生存率を高める方法ですから」
私は再び泥の道を歩き、集積所へと戻った。
数字が合うということは、誰かが死ぬタイミングさえもが予測可能になるということだ。私は、昨日死んだ五人の兵士が、私の計算した「許容損耗率」の枠内であったことに、安堵にも似た無機質な感情を抱いている自分に気づく。私はまだ、判断をしていない。ただ、システムを回しているだけだ。
驚いたことにシステムの安定は、別の歪みを浮き彫りにした。部隊間での融通記録を精査していた私は、不自然な偏りに気づいた。第一連隊・精鋭とされる通称「黒鷲大隊」への物資流入が、他部隊に比べて突出して多いのだ。
「ハンス、この補填記録を。内容は実質的な強奪に近いのではありませんか?」
ハンスは困ったように眉を下げた。
「黒鷲大隊は激戦区に投入されますし、小隊長たちの発言力も強い。融通を受ける側も、『あいつらが負けたら俺たちも死ぬ』と言われれば、拒めないのでしょう」
「それはロジスティクスではありません。ただの私物化です」
私はその日の午後、物資の受領に来た黒鷲大隊の隊長の前に立った。
「隊長。あなたの部隊が行った『融通』のうち、三件について不当な圧力を確認しました。隣接部隊の残量は、あなたの部隊に回したことで一時的に危険水域に達していた。これは全体最適の破壊です」
「はっ! 強い部隊に物を回すのが戦争の定石だろうが。死に損ないの予備兵に触媒を持たせておくより、俺たちが撃ったほうが敵は減る。違うか?」
「違います」
私は、手に持っていた支給伝票を、彼の鼻先に突きつけた。
「兵站における『強さ』とは、単撃の破壊力ではなく、戦線全体の維持能力を指します。あなたが隣の部隊の予備リソースを食いつぶしたことで、もし彼らの区画が突破されれば、あなたの部隊は背後から包囲され、全滅する。今回の不当な融通分、次回のロット供給から全量を差し引きます」
「ふざけるな! 俺たちを飢えさせる気か!」
「飢える前に、効率的な戦い方を学びなさい。あなたは精鋭なのでしょう?」
男は拳を握りしめたが、私の背後に立つエルヴィンの影を見て、舌打ちをして去っていった。
強い部隊、弱い部隊。勇敢な兵士、臆病な兵士。その区別に意味はない。あるのは、機能するか、しないか。私は今日も、彼らという不安定な変数を、私の愛する「定数」へと叩き直す作業を続けた。
*
補助魔導兵のニコ・ラングは、集積所の裏手、積み上げられた空の木箱に腰掛けて、遠く事務室の明かりを見つめていた。手元には、半分ほど削った魔導触媒の残骸と、泥のついた整備用ナイフがある。
ニコにとって、カレン・ヘイル少尉という女は、理解の範疇を超えた生き物だった。
最初は、ただの「後方でふんぞり返っている世間知らずの女」だと思っていた。魔法をただの消費財として扱い、魔導兵の疲労を数字でしか見ない、不快な官僚主義の権身。だが、あの日――彼女が前線に現れ、自分たちと一緒に泥まみれになって馬車を押したあの日から、ニコの中の「カレン像」は、ひび割れ、奇妙な形に再構成されていた。
最近、ニコたちの仕事は以前より「静か」になっていた。
カレンが導入した「緊急射出供給」のせいで、最初は予備砲身の整備や、物資を飛ばすための特殊な魔力充填作業に追われ、文句を言う魔導兵も多かった。だが、運用が始まって数日経つと、奇妙なことが起きた。
実際に「射出」が行われる頻度が、劇的に減ったのだ。
カレンが前線参謀と密に連絡を取り合い、需要予測の精度を極限まで高めた結果、物資が底を突く前に馬車が到着するようになった。現場の指揮官たちも、無闇に信号弾を上げればカレンに「説教」されることを恐れ、リソースの節約に励むようになった。結果として、後方の魔導兵たちは、文字通り「緊急事態」に叩き起こされることがなくなった。
「ニコ、何してんの。またカレン少尉のこと?」
通りかかった同僚の魔導兵が、ニヤニヤしながら声をかけてくる。
「また変な事考えて僕たちの昼寝の時間を削らないか見張ってるんだよ」
ニコはぶっきらぼうに返し、ナイフを鞘に収めた。
実際、人として嫌いなのは変わっていない。あんな理屈っぽくて、感情の起伏がない女、絶対に仲良くなんてなれない。そう自分に言い聞かせているのに、事務室の窓から漏れる明かりを見ると、どうしても足が向いてしまう。
ニコは用もないのに、報告書の束を持って事務室のドアを叩いた。
「……ラング補助兵。何か異常がありましたか?」
中に入ると、ランプの光の下で計算尺を回すカレンがいた。以前と変わらない、硬い軍服と隙のない表情。だが、ニコが近づくと、彼女はふと顔を上げた。
「明日の魔力消耗予測を出しに来ました。……少尉こそ、少しは休めばいいのに。そのうち計算尺を握ったまま死にますよ」
「死ぬ予定は、今のところありません。私の計算では、この集積所の運営には、まだ私というリソースが不可欠ですから」
カレンは淡々と答え、再び帳簿に目を落とした。
だが、その時だった。彼女の視線が、ニコが持ってきた予測表の隅にある、小さな書き込みに止まった。
「……ラング補助兵。ここの数値、前回の予測より二パーセント改善されていますね。あなたの充填効率が上がった結果ですか?」
「え? ええ、まあ。魔力を一気に込めるんじゃなくて、触媒の励起に合わせて段階的に流し込むようにしたら、無駄が減ったんですよ」
ニコがそう答えると、カレンの口元が、ほんのわずかだけ、緩んだ。
微笑み、と呼ぶにはあまりに微かで、頼りない変化。しかし、それは間違いなく、彼女が「数字の正解」を見つけた時に見せる、どこか無邪気で、残酷なほど純粋な表情だった。
ニコの心臓が、自分でも驚くほど大きく、一度だけ跳ねた。
「……少尉」
「何ですか?」
「いや、何でもないです。……最近少しは人間らしくなったって、エルヴィンさんが言ってました」
「人間らしさ、ですか。それは兵站の精度に寄与する指標ではありませんね」
カレンはそう言って、また数字の海へと戻っていった。
事務室を出たニコは、廊下の壁に背中を預け、大きく息を吐いた。夜風が火照った頬に心地よい。
あんな鉄仮面、どこがいいんだか。
ニコは心の中で毒づきながら、自分の手が無意識に、カレンから手渡された新しい「ロット管理マニュアル」の表紙をなぞっていることに気づいた。
カレン・ヘイルは、まだ何も解決していない。
ただ、数字を合わせているだけだ。
だが、その数字が合うたびに、ニコたちの生きる時間は、一秒ずつ延びていく。
その歪んだ、しかし確かな繋がりに、ニコは自分でも気づかないうちに、深く囚われていた。彼女が表情を見せるようになったのは、きっとこの地獄を「管理」し、その責任の重さを引き受け始めたからなのだろう。
ニコは夜空を見上げた。信号弾も上がっていない、不気味なほど静かな夜だ。
あの女が作り出した「安定」が、この先どれほど長く続くのか、あるいはどれほど凄惨な破局を迎えるのか。ニコには分からなかったが、少なくとも明日もまた、彼女の計算通りの時間に目覚め、彼女の計算通りの魔力を触媒に注ぐことになるだろう。
その「日常」だけが、今の彼にとっての唯一の現実だった。




