第21話|還流の設計
窓枠の隙間から入り込む冬の風が、私の机に置かれた書類の端を微かに揺らした。
外の空気は、湿った泥と馬の排泄物、そして絶え間ない火薬の匂いが混じり合い、粘り気のある重苦しい膜のようにハブ拠点を覆っている。私は手元の帳簿を、万年筆の先でなぞった。インクの黒い筋が、残酷なまでに正確な「欠損」を指し示している。
「少尉。彼らが地獄を通ってきていることは認めざるを得ません」
事務官が、私の斜め後ろで呟いた。彼の視線の先には、たった今最前線から帰還したばかりの補給隊の馬車があった。
車輪は泥を高く跳ね上げ、スポークには乾燥した赤土が幾重にも層を成してこびりついている。それはここから三十キロ先、塹壕が果てしなく続く死線の色だ。馬たちは、骨が浮き出た脇腹を激しく上下させ、口からは白い泡を滴らせている。御者たちの目は落ち窪み、まるで生きた幽霊が手綱を握っているかのようだった。
「ですが」と事務官は言葉を継ぎ、その指で私の帳簿を叩いた。
「この数字が理解できない。拠点が送り出した木箱、真鍮の薬莢、空の樽。それらのうち、戻ってくるのは一割に満たないのです。帝国の財政は枯渇している。空の樽一つが、次の供給を左右する貴重な資源だというのに。彼らはそれを、どこへ捨ててきたのですか」
私は窓の外で、力なく馬車から降りる男たちを見つめ、感情を排して答えた。
「物流連絡官ブラッドリー軍曹を通じたヒアリングを実施し、資源の『意図的投棄』に関する力学を解明します」
数時間後、招集されたブラッドリー軍曹は、私の前に立つと、隠そうともしない不快感をその日焼けした顔に浮かべた。彼のブーツからは、剥がれ落ちた泥の破片が床に散らばった。
「資源の回収だと? 少尉、あんたは分かってねえ」
ブラッドリーは、低い、嗄れた声で言った。
「前線の集積所は常に敵の観測下にあるんだ。空の箱を丁寧に積み直している暇があったら、一秒でも早くその場を離れなきゃ、次の瞬間にはレンボルグの砲弾が降ってくる。それに、帰り道は『空きスペース』がねえんだよ」
「数字上、復路の積載率は零に近い。なぜ物理的な空隙に資材を積まないのですか」
私の問いに、彼は吐き捨てるように言った。
「負傷兵だよ。血を流して呻いている戦友を目の前にして、『悪いが薬莢を積むからお前は置いていく』なんて言える奴がこの世にいるか? 俺たちは負傷兵を一人でも多く乗せるために、空の樽や箱をその辺の溝に投げ捨ててくるんだ。それが現場の『正義』だ。あんたの帳簿には載らねえ正義なんだよ。空箱を拾うのは、余力がある奴のやる善意の範疇だ」
私は手帳にペンを走らせた。感情を介在させず、事象を「構造的欠陥」として整理する。
「現行のロジスティクスにおいて、復路のリソース配分が定義されていません。資源の回収も、負傷兵の救護も、すべてが『現場の御者の善意』という不確実な領域に放置されている。これは運用として定義されていないことによる弊害です」
私は事務官とヨハンに命じ、「復路運用規定」の策定を開始した。
「『善意』に頼ることは、責任の放棄です。資源の回収を正規の業務フローに組み込み、負傷兵の輸送スペースをあらかじめ確保した積載計画を義務付けます。これにより、現場の御者が『戦友を助けるか資源を拾うか』という不毛な判断に苦しむ必要をなくします。回収は義務であり、そのための時間は供給計画のサイクルに算入されるべきものです」
私は、馬車の内部を物理的に区分けし、資源回収ボックスを固定設置する運用の変更を提示した。これを「帝国標準となるべき還流モデル」として強行する。現場の反発は予想されたが、数値上の正しさを優先した。
*
数日後、ハブ拠点には夕暮れ時特有の、冷え冷えとした薄暗い静寂が訪れていた。
運用の変更自体は、数値の上では劇的な改善を見せ始めていた。復路における資源回収率は前週比で三〇〇パーセントの伸びを記録し、事務官の表情にも安堵の色が混じるようになった。しかし、物理的な効率とは裏腹に、拠点内の心理的な摩擦は限界に達していた。
ヨハンが、煤けた顔で私の執務室に転がり込んできた。
「少尉、不味いな。現場の連中が、物流連絡官という職種そのものを、自分たちの弱みを探る監視員だと見なし始めている」
彼は窓際の影に身を寄せ、外の馬車溜まりを指した。
「彼らにとって、善意で行っていた救護を『規定だからやれ』と命令されることは、自分たちの覚悟を事務的に踏みにじられたと感じるらしい。命を懸けて泥を啜っている連中にとって、後方から理屈でケチを付けられるのは、肉体的な疲労以上に耐え難い屈辱なんだ」
私は机上の、美しく上昇する回収効率のグラフを見つめたまま、微動だにしなかった。
「感情はロジスティクスにおける不確定変数です。しかし、それが業務遂行の阻害要因になるのであれば、排除しなければなりません。心理的負債の解消を検討します」
その時、部屋の隅の暗がりでパイプを燻らせていた分隊長が、重い腰を上げた。紫煙がランプの光に透けて揺れる。
「少尉。あんたの理屈は正解だが、伝え方が致命的に下手だ。組織ってのは、正しいだけじゃ動かねえんだよ」
彼はパイプを叩き、灰を床に落とした。
「奴らは、あんたが自分たちを『代えの効く部品』だと思っていると確信している。そうじゃないってことを、直接見せてやる必要がある。事務官もヨハンも連れて、一度彼らの領域へ踏み込むんだ。腹を割って話すのが一番早い」
分隊長の提案を受け、私はそれを「不可避のコスト」として承認した。
補給隊の待機食堂は、酸っぱいビールの匂いと、洗っていない軍服の臭いが充満していた。
補給に出ている者たちを除いた二十数名の隊員たちが、壁際に並んでいる。卓の上には、冷え切ったスープと硬いパンが置かれていたが、誰もそれに手をつけていない。私、ヨハン、分隊長、事務官の四人は、その拒絶の色に満ちた沈黙の渦中に座した。
天井のランプがチリチリと音を立てて揺れ、隊員たちの顔に深い影を落としている。
「物流連絡官からの報告によれば、現場での不満の核は『回収の義務化が現場の誇りを傷つけている』という点にあります」
私が口火を切ると、一人の若い御者が椅子を蹴立てて立ち上がった。
「当たり前だ! あんた、泥の中で車軸を担ぐ苦しみを知ってるのか! 俺たちは、一分一秒でも早く前線に弾を届けるために、馬も自分も削って走ってるんだ。戻る時だって、死にかけの戦友を必死で積み込んでる。それを後ろの暖かい部屋で計算して、『決まりだから樽を拾え』だの『手順通りにやれ』だの……俺たちの覚悟を笑ってんのか!」
怒号が続き、食堂の空気が物理的に熱を帯びるのを感じた。私はその喧騒を、まるで遠くの嵐を眺めるように無機質な瞳で観察した。
彼らが求めているのは、作業の軽減でも、ましてや謝罪でもない。自分たちが極限状態で行っている「判断」と、その「尊さ」を、組織に正当に認めて欲しいのだ。つまり、彼らにとっての報酬は、金でも休みでもなく、「承認」という名の心理的補填だった。
「分かりました」
私の声は低かったが、食堂の隅々まで響き渡った。
「私は皆さんに、楽をしろと言いに来たのではありません。むしろ、皆さんがこれまで『善意』という脆いものに頼って行ってきた尊い行動を、帝国の揺るぎないシステムとして固定しに来ました」
隊員たちが動きを止めた。私は視線を一人一人に合わせながら、言葉を重ねる。
「皆さんが前線で行っている資源の回収、そして戦友の救護。それは個人の勝手な行動ではなく、本来であれば称賛されるべき、素晴らしく、そして帝国にとって不可欠な貢献です。しかし、それを個人の善意に任せていたこれまでの体制は、帝国軍の怠慢でした。皆さんのような志の高い者に甘えていたのです」
私は、事務官が用意した新しい運用規定の書面をテーブルに広げた。
「私がこれを『運用』として定義したのは、皆さんのその行動こそが、ヴァルデリア帝国軍の『標準』であるべきだと確信したからです。皆さんの覚悟を、単なる現場の工夫で終わらせたくない。この仕組みを全軍に広め、誰もが皆さんと同じように資源を大切にし、戦友を救える構造を作ることが、私の任務です。あなたたちは、帝国のあるべき姿を先取りしている専門家なのです」
食堂の空気が、ふっと緩んだ。彼らが欲していたのは、自分たちの泥臭い仕事が「帝国の勝利」という壮大なパズルの、欠かせない一片であるという確信だった。私は感情ではなく論理によって、彼らの誇りに「規範」という名前を与えた。
対話からさらに数週間が経過した。ハブ拠点の朝は、霧が深く、視界は白く煙っている。
しかし、その霧の中から現れる補給隊の動きは、以前よりも格段に鋭くなっていた。物流連絡官の腕章を誇らしげに巻いた補給隊員たちは、自ら路面の状況を倉庫や事務方に報告し、最適な積載量を提案するようになっていた。
いざこざが完全に消えたわけではない。現場では依然として「積み込みが遅い」「書類の不備」といった小競り合いは続いていたが、それは組織を麻痺させる「摩擦」ではなく、機能を洗練させるための「調整」へと昇華されていた。
ヨハンは倉庫の入り口で、戻ってきた物資をテキパキと仕分けしながら笑った。
「少尉。あの日以来、連中の目の色が変わったぜ。自分たちの成果が目に見える数字になるのが嬉しいんだろうな。現場が、自分たちの意志で回り始めた」
事務官も、積み上がった真鍮の薬莢や木製の樽の山を満足げに眺めている。
「リバース・ロジスティクスの確立により、拠点全体の運営コストを十五パーセント削減できました。これで次の供給量も増やせます」
私は、その成果を淡々と受け止めていた。私にとって重要なのは、特定の個人が頑張ることではなく、誰がその立場に立っても同じように「正しい判断」が下されるシステムを構築することだ。
「体制の安定を確認しました。次は、この課題解決チームの拡大と『非属人化』を目指します」
私は、ヨハン、事務官、分隊長を一同に集めた。
「現在、この拠点の改善はあなたたち三人の優秀な能力に依存しています。これはロジスティクスにおける『単一障害点』です。あなたたちが不在でも、あるいは別の人物と入れ替わっても、この改善プロセスが止まらないようにしなければなりません」
私は、物流連絡官の中からさらに数名を選抜し、課題抽出から対策立案までの思考プロセスを移植するための「標準教育プログラム」の策定を指示した。
窓の外、夜の闇に消えていく補給隊の灯りを見つめながら、私は万年筆を置いた。ヴァルデリア帝国の前線は、依然として絶望的な消耗戦の渦中にある。しかし、このハブ拠点という神経節だけは、腐敗を食い止め、新たな血を送り出し始めていた。




