第19話|同期する歯車
管理棟の多目的室。一週間かけて洗い出された課題の群れは、ホワイトボードの上で巨大な歪みの図解となっていた。ヨハンが指摘した「積み上げられたままの資材」、分隊長が突きつけた「過積載による破損」、事務官が隠蔽していた「帳簿の誤差」。それらは、ヴァルデリア帝国という巨大な機構が末端で引き起こしている、壊疽の記録そのものだった。
「……課題の洗い出しフェーズを終了します。これより、実行フェーズへと移行します」
カレンは黒いペンを握り、ボードの中央に十字を描いた。課題を「即時実行(A)」、「計画的実行(B)」、「要検討(C)」に分類する。
ただし、最初に着手する課題はキャッチアップも兼ねるので簡単なものにすることにした。『第一倉庫の不動在庫移動とロケーション最適化』であれば、内容もシンプルに在庫の場所だけが変わるだけで、業務を変える必要もない。
「我々のリソース――時間、人員、資材――は極めて有限です。全ての課題に同時に取り掛かることは、資源を分散させ、結果として何も変えられないという最悪の選択になります。まずは優先度を決定し、このチーム全体で一つずつ確実に潰していきます。そのために、このプロジェクトを回す全体責任者として『プロジェクトマネージャー(PM)』を選出します」
カレンの視線は、高価な羽ペンを所在なげに弄っていた事務官に固定された。
「事務官殿。あなたがPMを務めてください」
「……私かね?」
事務官は、眼鏡の奥の細い目をさらに細め、心外だと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「少尉、聞き捨てならんな。私の仕事は、帝国の資産を一点の曇りもなく帳簿に刻むことだ。現場の荒くれどもの尻を叩いたり、泥にまみれて荷箱を数えたりするのは、私の身分にそぐわない。それは君の、あるいはこの分隊長の役割ではないのか?」
「PMの役割は『尻を叩く』ことではなく、『リソースの最適配分とリスクの予測』です。情報の集積点である事務室に座るあなたが、全体の進捗を把握するのが最も合理的です。現場の混乱も、輸送の遅延も、最終的にはあなたの帳簿上の『不備』として現れる。ならば、数値が死んだ記録に変わる前に、その源泉を管理すべきです」
カレンは、真っ新な進捗管理表を事務官の前に置いた。
「期限を定め、ボトルネックを早期に発見し、滞りがあれば即座に人員や物資を再配分する。これができない限り、このホワイトボードの課題はただの落書きで終わります」
「……ふむ。管理、という言葉であれば私の専門領域と言えなくもないな。帝都の商館でも、全体を俯瞰する人間は重宝されるものだ」
事務官は、プライドをくすぐられたのか、渋々とペンを握った。
「よろしい、その『管理』という戦場、私が引き受けよう。……では、最初の課題『第一倉庫の不動在庫移動とロケーション最適化』。期限は……現場の片付けもある、一週間は必要だろう」
「いいえ、二日間です」
カレンの声には、交渉の余地はなかった。
「今回の不動在庫の移動は、拠点全体の最適化ではなく、あくまで第一倉庫内の『部分最適』に過ぎません。物理的な配置換えと、それに伴う帳簿の書き換え。この程度の規模であれば、集中的にリソースを投下して二日間で終わらせる。期限を設定したなら、次は『誰に何をさせるか』を定義してください」
カレン以外の全員がこのチームのスピード感を理解し始めた。
*
「組織全体を一度に変えようとすれば、現場は必ず拒絶反応を起こします。まずは、この五人……ヨハン氏、事務官殿、分隊長、私、そしてエリック。この最小単位の『改善ユニット』で着手します。改善の『型』を、我々自身が体得するためです」
一行は、死蔵された物資が通路を塞ぐ第一倉庫に立った。事務官は、汚れるのを嫌い、出来るだけ綺麗な場所から指示を飛ばそうとした。
「ええい、わかっている。ヨハン、あそこの古い通信機パーツを、あっちの奥の棚へ移せ。分隊長、君の部下を三名、台車の搬送に回せ。エリック伍長、移動させた箱の番号を私に報告しろ」
「ストップです、事務官殿」
カレンが割って入った。
「今のあなたの指示は、PMとしての職務を放棄しています。あなたは『通信機パーツを奥の棚へ移動させる』という目的だけを伝えればいい。具体的にどの棚にどう配置すべきかというロケーション設計は、現場を熟知しているヨハン氏に考えさせるべきです。専門家に判断を委ね、あなたは全体の進捗がその判断によって遅れないかを調整することに集中してください」
事務官は呆気に取られた。
「私が……配置を決めなくていいのか?」
「何でも自分で判断するのがPMではありません。適切な者に、適切な判断の権限を振る。それが管理です。ヨハン氏、この通路を確保するために、どの棚をどう使うのが最も効率的か、あなたの意見は?」
ヨハンは顎を擦り、棚の配置を睨みつけた。
「……そうだな。通信機パーツは滅多に動かねえ。逆にこの食糧箱は毎日出し入れする。なら、通信機を一番高い四段目の奥へ追いやり、空いた特等席に食糧を並べる。これなら動線は最短になる」
「事務官殿、ヨハン氏の提案を承認しますか? 承認するなら、その判断に伴うリスク……例えば高い棚への移動に要する追加人員の確保を、分隊長と交渉してください」
事務官は、初めて「調整」という概念を理解し始めた。
「……わ、わかった。ヨハン、配置は君に一任する。分隊長、高所作業用に屈強な連中を二名追加してくれ。その代わり、事務室の記録補助は私が引き受け、君の部下の手を煩わせないようにする」
分隊長がニヤリと笑った。「話が早くて助かるぜ、事務官殿」
*
多目的室の作戦机には、食堂から運ばれた冷めたスープと、岩のように硬い黒パンが並べられた。優雅な会食ではない。
事務官は、埃で汚れた手を見るのも忌々しそうに、ナプキンの代わりに書類の束の端で指先を拭い、黒パンに食らいつく。ヨハンがスープの皿に直接パンを放り込み、行儀悪くかき混ぜながら口を開いた。
「俺がさっき決めた通信機パーツの配置だがな、あれは単に高さだけの問題じゃねえ。奥に押し込めるのはいいが、あそこは雨漏りのリスクがある。防水布を二重に被せる工程を追加してくれ。その分の資材要請を上げるのは、あんたの仕事だろ?」
「雨漏り……? そんな報告は受けていないぞ!」
「現場じゃ常識なんだよ。帳簿に『天井に穴』なんて項目はねえだろ?」
事務官が絶句してパンを喉に詰まらせる。その横から、分隊長が水差しを奪い、豪快に喉を鳴らした。
「事務官殿、驚くのはまだ早いぜ。ヨハンの野郎が配置を変えたせいで、台車の回転半径が変わっちまった。今のままじゃ、馬車の積み込み場へ抜ける角で渋滞が起きる。……エリック、お前、さっきの通路脇に積んでた空き箱を全部どかせ。あそこを旋回スペースに使う」
「了解っすよ、分隊長。……でもね、あそこには事務官殿が隠しておきたかった『出所不明の備品』がいくつか混ざってましたよ? 一緒に片付けちゃっていいんすか?」
エリックの軽薄な問いかけに、事務官はスープを噴き出した。
「待て! それは……調整が必要な案件だ! 勝手に動かすな!」
「PM殿、判断が遅いっすよ。もうヨハンの連中が運び出し始めてます」
事務官は悲鳴に近い声を上げ、パンを片手に、泥のついた軍靴で部屋を飛び出していった。
彼が去った後、作戦机に残ったのは、冷めたスープの残り滓と、急激な情報の同期によって熱を帯びた空気だけだった。
初日の午後、第一倉庫の奥で「物理的な嘘」が露呈した。
ヨハンの提案通りに古い防水布の山を崩した瞬間、背後から台帳に記載のない赤錆びた弾薬箱が五十箱も現れたのだ。
「……事務官! 事務官はどこだ!」
ヨハンの怒声が響く。靴が汚れることを忘れて駆けつけた事務官は、その異様な光景に目を見開いた。
「あり得ん……。私の台帳には、こんな区画に在庫など載っていないぞ」
「事務官殿、驚きは不要です。判断を」
カレンが事務官の横に立った。
「ヨハン氏の作業が停止し、分隊長から借りた人員の工数が無駄に消費されています。どうしますか?」
事務官は狼狽したが、カレンのこれまでの「教育」を思い出した。彼は独断で解決しようとせず、現場を見渡した。
「……ヨハン! 君の感覚で、この『未知の箱』を一時的に、かつ安全に排除できる場所はあるか?」
「ああ、北側の仮置き場ならスペースがある」
「よし、採用だ! 分隊長、大型馬車を一両回せ。ヨハンの判断した場所へ強制隔離しろ! 台帳の不一致は、私が今夜中に無理やり帳尻を合わせる。……全体のスケジュールを止めるな!」
それが、事務官が初めて「全体の進捗」のために、自身の領域の不備を認め、他者の知恵を借りて下した、PMとしての判断だった。
分隊長が「了解だ、PM殿」と低く笑い、馬車の手配に走る。エリックは「流石っすね、現場の司令官」と、事務官の汚れた背中を叩く。カネと情報の番人であった事務官が、現場の泥と埃に混ざり、一つの「意思」となって機能し始めていた。
二日目の夕刻。第一倉庫の通路は、数日前とは劇的な変貌を遂げていた。搬入口から奥まで、視線を遮るものは何もない。
「課題一、完了。部分最適ではありますが、ピッキング効率は大幅に改善されました」
カレンの報告に、事務官は疲れ果てた様子で、だが満足げに深く椅子に座り込んだ。軍服はインクと埃で真っ黒だ。
「……はあ、はあ……。少尉、君は悪魔だ。だが……こうしてヨハンや分隊長に判断を振ることで、自分一人が帳簿と睨めっこしていた時よりも、遥かに大きな力が動くのを感じたよ。……これが『管理』の面白さだと言うのかね?」
分隊長も、自身の義足を擦りながら、整然とした棚を眺めていた。
「……五人でやってみて分かった。領域という壁が、いかに俺たちの足を引っ張っていたか。これまでは隣のミスを叩くことしか考えてなかったが、これからは『どう調整するか』を考えなきゃならねえな」
「その認識は正しいです。ですが、忘れないでください」
カレンはホワイトボードの端に、新たな枠外のメモを書き加えた。
「今回行ったのは、あくまで第一倉庫という限定的な空間での『応急処置』です。一つの穴を塞いでも、拠点全体の物流構造が変わらなければ、いずれまた別の場所で目詰まりが起きます。この成功を土台にして、我々は別軸で『恒久対応案』……すなわち、拠点全体のロケーション最適化と情報の完全同期を設計しなければなりません」
ヨハンが顔を上げた。「別軸? つまり、まだ終わりじゃねえってことか」
「ええ。今回共有した『型』を使い、日常の業務を回しながら、拠点そのものを再定義する。それが本当の戦いです。そのためには、次回のターゲット……『事務官の領域』の解体が必要です。領域の壁を完全になくすためには、情報の透明化は避けられません。次はヨハン氏や分隊長が、事務官殿の帳簿の中に入り込み、改善の提案を行います。全員で情報の闇を暴き、拠点全体を貫く『恒久的な血流』を設計する番です」
事務官は一瞬絶句したが、やがて諦めたように小さく笑った。
「……よかろう。今の私なら、現場の視点を帳簿に組み込むことの利点も、少しは理解できる」
ハブ拠点は、もはや単なる物資の貯蔵庫ではなかった。それは、情報の整合性と物理的な効率を追求する、一つの有機的な戦闘機械へと、その胎動を始めたばかりだった。




