第17話|管理
管理棟二階の事務室は、一階の喧騒とは隔絶された静寂に包まれていた。窓からはハブ倉庫全体が見渡せるが、ここに籠もる事務官にとって、窓の外の光景は単なる「背景」に過ぎない。
事務官は、帝都の裕福な商家に生まれ、コネと金でこの地位を手に入れた男だ。彼にとって戦争とは、帳簿上の数字を操作し、その差分を自身の懐へ流し込むための巨大な計算式だった。彼は、自身のプライドを守るための防壁として、高価な羽ペンと磨き上げられた机を愛用している。
「少尉。昨日のヨハンへのレクチャーは聞いたが、私を彼のような泥臭い現場作業員と一緒にされては困るな」
事務官は、私が差し出した課題提出用の書類を一瞥もせずに言った。
「私の仕事は、帝国の資産を正しく記録することだ。そこに課題など存在しない。数字が合っていることが正義であり、それ以上でも以下でもない」
私は、彼の机の上に置かれた、高価な装飾が施された写真立てを見た。そこには華やかなドレスを着た彼の妻と娘が写っている。
「事務官殿。あなたが過去の慣習を踏襲し、私服を肥やしていることは、計算上の誤差として把握しています。それ自体を断罪するつもりはありません。しかし、前提が崩れれば、その蓄えも意味をなしません。帝国が敗北すれば、あなたの家族を守るための金貨は、ただの金属片に変わります」
「帝国が負ける? 馬鹿げたことを。ヴァルデリアは不敗だ。万が一戦線が下がっても、私のような実務に明るい人間は、次の統治者にも重宝される。敗北は私には関係のないイベントだ」
事務官の言葉には、特権階級特有の根拠なき楽観が滲んでいた。彼は自分を「システムの外側」にいる安全な傍観者だと思い込んでいる。
「……そいつはどうっすかね、事務官殿」
背後で控えていたエリックが、わざとらしく低い声で割って入った。
「レンボルグの連中は、占領地の役人を真っ先に広場に吊るすって噂っすよ。『こいつらが俺たちの税金を吸い取ってた張本人だ』ってな。あんたのその立派な服と、蓄えられた脂肪は、彼らにとって最高の燃料になるでしょうね」
事務官の顔から、わずかに血色が引いた。
「……無礼な。伍長ごときが私を脅すつもりか」
「脅しではなく、リスクの提示です」
私はエリックを制し、淡々と言った。
「あなたが帳簿を弄って得ている利益の数パーセントを、システムの延命……つまり物流の効率化に投資してください。これはあなたの資産を守るための『保険』です。私に協力し、事務部門の課題を洗い出してください。さもなければ、私はあなたの帳簿の『不整合』を、兵站総監部へ正式に報告せざるを得ません」
事務官は数秒間、私を殺気だった目で見つめたが、やがて力なく椅子に背中を預けた。
「……分かった。協力すればいいのだろう。ただし、私のやり方に口を出しすぎるなよ」
私は事務官を立たせ、壁に貼られた巨大な白紙の前に移動させた。
「では、事務部門の業務を四つの象限に整理します。調達計画、供給計画、在庫管理、そして帳簿管理。それぞれの概要と、現在の認識をすり合わせましょう」
私はペンを取り、紙に簡易的な図を描き始めた。
「まず『調達計画』。これは帝都からの入庫予定の管理です。『供給計画』は、前線拠点からの要求に対する発送順位の決定。そして『在庫管理』は、実数と理論値の照合。最後に『帳簿管理』。これら全ての金流の記録です。これらはバラバラに存在しているのではなく、一つの円環としてつながっていなければなりません」
私は紙の上に、矢印で結ばれた循環図を描いた。
「調達が狂えば供給が止まり、在庫が不明瞭になれば帳簿は虚飾になります。事務官殿、あなたの認識では、この循環のどこに最も多くの時間を割いていますか?」
「……帳簿だ。各部署から上がってくる報告書を、本省への提出フォーマットに書き写す作業だけで、私の部下たちは一日が終わる」
事務官は、私が描いた図を食い入るように見つめていた。彼にとって、バラバラだった日々の作業が「フロー」として可視化されるのは初めての経験だったのだろう。
「入庫があれば現場の通い帳がここへ届く。それを私が検収印を押し、台帳に転記する。一方で、分隊長からは発送の依頼が届き、それを供給計画として別途まとめる。……確かにつながっているな。だが、これらは別々の書類として処理されているのが、帝国の伝統だ」
「その伝統が、情報のラグを生んでいます。現場でモノが動いてから、あなたの帳簿に反映されるまで、何時間の遅延がありますか?」
「……最速で十二時間。通常は二十四時間だ。昨日の在庫を見て、今日の判断を下しているのが実態だ」
私はその数値を紙の余白に大きく記した。「二十四時間の情報遅延」。これが、この拠点の知性を奪っている病根の一つだった。
業務フローを整理したことで、事務官の机の上に積み上げられた書類が、どのような役割を持って滞留しているかが明確になった。私は、事務官が「これこそが最も合理的だ」と自負している『通い帳』を指差した。
「業務フローをもとに実態を照らし合わせます。事務官殿、私から一つ目の課題を指摘します。『情報の直列処理による、甚大な待機時間の発生』です」
「直列処理……? 意味がわからん。一冊の帳簿が現場から事務室へ、そして輸送へと順に回る。情報の正解が常に一つしかない、完璧な仕組みのはずだ」
「仕組みそのものは合理的です。しかし、運用が『直列』であることが問題です。現場が記入を終えるまで、事務室のあなたは何もできない。現場で荷下ろしに手間取れば、事務室の部下たちは数時間、帳簿が届くのをただ待つことになります。そして夕刻、ようやく帳簿が届いた瞬間に作業が爆発し、転記ミスや判断の遅れが生じる。情報のバトンリレーが、リレー走者の足を止めているのです」
事務官は反論しようとしたが、机の横で手持ち無沙汰に爪を弄っている部下の姿に気づき、口を閉ざした。
「さらに言えば、紛失を恐れるあまり、あなたは帳簿の持ち出しを厳しく制限していますね。そのせいで現場が『確認』のためだけに、何度もこの二階まで往復している。これは情報のボトルネックであり、組織的な停滞です」
事務官は、自分の部下が必死に数字を合わせようとしていた理由が、単なる「仕組みの不備」にあると突きつけられ、苦い顔をした。
「……しかし、複写なんて高等な技術はない。一つの帳簿を回す以外にどうしろと言うのだ」
「情報の発生源で『分散入力』を行い、並行して処理できる仕組みを構築します。これだけで、情報の遅延は二十四時間から数時間に短縮可能です。あなたの部下を、単なる『待ち時間』から解放すべきです」
午後。事務官自ら、部下たちの作業工程をフローチャートに照らし合わせてチェックし始めた。プライドが高い彼は、一度「自分は管理のプロである」という役割を与えられると、驚くほど細部にまで目を光らせるようになった。
ヨハンと違い逐一報告するのではなく、夕方になるまで報告はなかった。ただし課題はまとまってきている様子は分かったので口出しはしなかった。
「少尉。私からも課題を提示しよう」
事務官は、供給計画の書類を指し示した。
「『リードタイムの不確定性による安全在庫の過剰保持』。帝都からの列車がいつ着くか正確な情報がないため、私たちは欠品を恐れて常に余分な在庫を抱え込もうとする。これが倉庫のキャパシティを圧迫し、管理コストを上げている」
「素晴らしい指摘です。情報の予測可能性を高めることが解決策になりますね」
「これは現場のヨハンにも言えることだが、『資材の有効期限管理の不在』だ。医薬品や保存食には期限があるが、通い帳には『数量』の記載しかない。そのせいで、期限切れ直前の物資を放置し、新しいものから出荷してしまうという事態が起きている。情報の項目不足だな」
事務官は、実務的な非効率を次々と暴いていった。彼は、数字と実態を結びつけることに、ある種の知的な愉悦を感じ始めているようだった。
しかし、彼がいくつかの項目を洗い出した後、私は一つの空白の領域を指差した。
「事務官殿。供給計画の裏側にある『緊急配送への特別手当』。これの承認プロセスがブラックボックス化していますね。ここから流出している資金……つまり、あなたの『副収入』は、課題として挙げないのですか?」
事務官の動きが止まった。彼は羽ペンを置き、私を真っ直ぐに見つめた。
「……少尉。それは『必要悪』というものだ。分隊長や現地の馬主たちを動かすには、帳簿に載らないカネがどうしても必要になる。これを課題化し、透明化すれば、物流の末端は即座に停止するだろう」
「それは構造的な腐敗です。改善の対象です」
「いいや、これは潤滑油だ」
事務官は断固とした口調で言った。
「ここを突くのは賢明ではない。正しさが常に人を動かすわけではないことを、あなたも知っているはずだ。私は他の全ての効率化には協力する。だが、この『情報の隠蔽』だけは、この拠点を守るための不可欠な沈黙として、課題リストには載せない。……これは取引ではなく、統治の技術だ」
事務官は、自分の利権に直結する部分だけは、強固な防壁を張り直した。
「……理解しました。現時点では、その項目は『保留』とします」
私は深追いしなかった。彼を完全に追い詰めれば、協力体制そのものが崩壊する。まずは実務レベルでの改善を優先し、構造的な腐敗は、システムの安定性を確保した後の「変数」として処理すべきだ。
私がメモを取っていると、背後でエリックと事務官の間に、先ほどまでの刺々しい空気とは質の異なる、粘りつくような親密さが漂い始めた。
エリックは事務官の机の横に置かれた、豪奢な細工が施された木箱――帝都の高級な刻み煙草の箱だ――に目を留め、さも感心したように口笛を鳴らした。
「……事務官殿、こいつは驚いた。『金色の翼』じゃないっすか。帝都の夜の街でも、一番高い店にしか置いてねえ極上品だ」
事務官は意外そうに目を細め、上等な銀のパイプに火をつけた。
「……ほう、詳しいな。伍長ごときが口にできる代物ではないはずだが」
「ええ、自分じゃ買えねえっすよ。ただ、軍に入る前はあの界隈で『案内役』をやってましてね。羽振りのいい旦那方が、どこの店でどの女にこの煙草を吸わせるのが一番見栄えがいいか、それを差配してたんです」
事務官の瞳に、今日初めて「同類」を見つけたような下卑た親近感が宿った。
「案内役、だと? ……なるほど、どおりで勘がいいわけだ。あの街の第4区にある『紅い寝床』……あそこの店主を知っているか?」
「ああ、あのケチな老婆っすね」
エリックは事務官の机に軽く腰掛け、声を潜めた。
「あそこは酒は並ですが、踊り子の『質』が他とは違う。特に、裏メニューで出てくるレンボルグ産の踊り子ときたら、そりゃあ……」
「……全くだ! あそこの女たちは、帝都の女にはない野性がある」
事務官は相好を崩し、引き出しの奥から隠していた一本の酒瓶を取り出した。
「少尉は堅物で困る。世の中、数字と正論だけで動いていたら、男はみんな退屈で死んでしまう。あの街の夜が帳簿に載らないカネで潤っているように、この兵站拠点だって、適度な『遊び』がなきゃあ、誰も命を張って荷物を運ぼうなんて思わんのだよ」
「正義感で飯が食えるのは、帝都の広場で演説してる連中だけっすよ。いつ死ぬかわからねえ明日のために、今日、どれだけ美味い思いができるか。……その差配を心得てる事務官殿は、まさに現場の神様ですよ」
エリックが巧みに事務官を煽て、二人はそのまま、どの店のどの女の腰付きが最高か、どの伝票を誤魔化せばその代金が捻出できるかといった、救いようのない下世話な話に興じ始めた。
私が「情報の不一致」という数式的エラーを指摘していた横で、彼らは「欲望の不一致」を埋めるための裏工作という、極めて人間的で不潔なロジスティクスを共有していた。
「少尉、聞こえたか? 伍長の言う通りだ。私が『情報の隠蔽』を聖域にしているのは、それが現場の連中に『明日への活力』を与えるための、必要悪だからだ。これを透明化してみろ。誰一人、ぬかるんだ道で馬車を引こうなんて奴はいなくなるぞ」
事務官は汚れた笑みを浮かべ、エリックが注いだ酒を飲み干した。
エリックは事務官の背後で、私に向かって片目を瞑ってみせた。彼がやっているのは、感情の救済ではない。腐敗した歯車に「共感」という油を注ぎ、とりあえず私の計画通りに回転させるための、一時的なメンテナンスに過ぎなかった。
夜。ホワイトボードの「事務官」の列には、実務的な課題が記された。
彼は依然として冷淡な態度を崩さなかったが、その目は、自分の管理する領域が「単なる帳簿」から「生きた情報の回路」へと変わりつつあることを認めていた。
私は、事務官の守り抜いた「聖域」に微かな不快感を覚えながらも、次のターゲットである分隊長へのレクチャーに向けて、思考を整理し始めた。




