第16話|ヨハン
「課題の洗い出し」期間として設定した一週間のうち、三日が経過した。私は管理棟の一角にある多目的室、今や「課題解決チーム」の拠点となった部屋のホワイトボードの前に立っていた。
ボードの表面は、期待していた「現場の悲鳴」で埋まるどころか、滑らかな白さを保ったままだった。
書き込まれているのは、初日にヨハンによるいくつかの些末な不満のみ。事務官や分隊長の名が記された列には、インクの一滴すら乗っていない。
「……これが、皆さんの三日間の成果ですか」
私は、並んで座る三人の顔を順に見た。ヨハンは気まずそうに視線を逸らしてパイプを弄り、事務官は退屈そうに無地の書類を眺め、分隊長は椅子を大きく傾けて天井のシミを数えている。
「少尉さんよ、そう急かすな。俺たちはあんたと違って、毎日の『回さなきゃならねえ仕事』があるんだ。課題探しなんて、飯が食えるわけでもねえことに割く時間はねえんだよ」
分隊長の言葉は、この拠点に蔓延する停滞の空気を代弁していた。彼らにとっての変化は、現在の安定を脅かすノイズでしかない。
正論――軍規の遵守や物流効率の向上――は、彼らの耳を通り抜ける。私は演算装置のパラメータを切り替えた。論理による説得が棄却された以上、より低次で強力なインセンティブ……生存本能と、守るべき最小単位の安寧を、計算式に導入する。
「……訂正します。私は皆さんに、軍の効率化を求めているのではありません」
私はホワイトボードに「帝国の残余寿命」と書き、その下に「家族の平穏」と記した。
「皆さんは、この戦争がいつ終わると考えていますか。現在の財政の逼迫度を計算すれば、ヴァルデリア帝国が現在の戦線を維持できる限界は、そう遠くない将来に訪れます。補給が途絶えれば、前線は崩壊し、戦火は皆さんの故郷へと波及する。これは感情論ではなく、在庫と需要の推移から導き出される確実な帰結です」
部屋の空気がわずかに重くなった。
「私が求めている課題解決は、帝都の官僚に褒められるためのものではありません。皆さんの家族が、戦火に焼かれない未来を『買い取る』ためのコスト削減です。皆さんがここで五パーセントのロスを放置すれば、それは前線で一人の兵士の死となり、ひいては故郷を守る防壁が一段低くなることを意味します」
沈黙が流れた。ヨハンの手が、膝の上で僅かに震えている。
「……期限を一週間延長します。ただし、明日から三日間、私が一人ずつ現場に同行し、課題の出し方をレクチャーします。明日の一日は、ヨハン氏、あなたと共に倉庫を回ります」
事務官と分隊長は「勝手にしろ」という顔で部屋を後にしたが、ヨハンだけは、書き込まれた「家族の平穏」という文字をじっと見つめていた。人間に動機を与えるのは、高い志ではない。背後に迫る死と、守るべき最小単位の利益だ。
数分後、私とヨハンは第一倉庫の入り口にいた。
現場の叩き上げ組にとって、ヨハンは絶対的な精神的支柱だ。倉庫内で働く兵士たちは、士官である私ではなく、まず伍長であるヨハンに敬礼し、あるいは親しげに声をかける。
「ヨハン氏。本日は、この倉庫の全体感を整理し、業務のフローに沿って問題を抽出します」
「全体感、ねえ……。一応、棚には番号も振ってあるし、どこに何があるかくらいは分かってるぜ」
「その『分かっている』という主観を、客観的な数値へと置き換える作業です。フローを追っていきましょう。入庫、検品、格納、保管、そして払い出し。この一連の流れを、水の流れのように捉えてください」
私は倉庫の一等地とも言える搬入口付近の棚の前で足を止めた。
「ヨハン氏。私からは一つ、この倉庫の致命的な異常を指摘します。それは『サンクコスト(埋没費用)』化した不動在庫の放置です」
「サンク……なんだって?」
「見てください。搬入口に最も近く、作業効率が最も高いこの棚に、埃を被った古い型式の魔導通信機の予備部品が積まれています。記録によれば、これらは過去半年間、一度も動いていない。実戦価値を失った『死んだ物資』です。それらが一等地を占拠し続けているせいで、頻繁に出荷される食料や弾薬が、わざわざ遠くの棚に運ばれている。これは空間という限られたリソースの浪費であり、作業員の体力を無意味に削っています。今すぐ廃棄、あるいは奥の棚へ移動させるべきです」
ヨハンは呆然としたように、その古い箱を眺めた。
「……ああ。それはいつか使うかもって、ずっとそこに置いてあったな。現場じゃあ『いつか』に備えるのが美徳だったんだがな」
「物流において、動かない在庫は毒と同じです。移動させましょう」
*
昼食時。私たちは倉庫の端に増設された、簡易的な作りの食堂へ向かった。板張りの壁に長机が並ぶだけの無機質な空間には、作業着姿の兵士たちの喧騒と、煮込み料理の脂っこい臭いが充満している。
支給されたのは、石のように硬い黒パンと、具材の溶け出した塩辛いスープだ。
ヨハンは、一口サイズのパンをスープに浸しながら、ふと私を見た。
「……少尉さんよ。あんた、さっき『不動在庫』を廃棄しろって言ったな。俺は最初、なんて無慈悲なことを言うんだと思った。だが、あんたの言う通り、あの箱をどかすだけで、連中の歩く距離が半分になる。そんな簡単なことに、なんで何十年も気づかなかったんだろうな」
「それはあなたが『運ぶ側』の視点しか持っていなかったからです。これからは『流す側』の視点が必要になります」
私はスープの入った金属製のカップを見つめた。
「あなたが長年、現場の苦労で補ってきたものは、本来ならシステムの設計段階で排除されるべき不純物です。ヨハン氏。あなたはこれまで、その不純物を自分の体力と精神力で濾過し続けてきた。それは称賛されるべき献身ですが、持続可能ではありません。あなたが倒れた瞬間、このハブは死ぬ」
私が淡々と事実を積み上げるのを聞きながら、ヨハンはふっと苦笑を漏らした。
「……参ったな。あんた、口を開けば理屈ばかりだが……よく見りゃ、うちの娘と同じくらいの歳じゃないか。そんな若さで、帝国の寿命だのシステムの死だの、重苦しいことばかり計算して……。そんなに急いでどこへ行くんだ?」
「私はどこへも行きません。ただ、このシステムを少しでも長く、正常に回し続けたいだけです」
「……苦労するねえ」
ヨハンは、娘を見るような少し柔らかな、それでいてどこか同情の混じった目で私を眺めた。
「ヨハン氏。あなたが当たり前に見落としているものは多い。ですが同時に、あなたが無意識に『現場の工夫』で解決してしまっている『宝』もあります。例えば、湿気に弱い糧食の箱を、あえて床から少し浮かせて積んでいる。それはマニュアルにはありませんが、この古い倉庫の特性を理解した、あなたの中にだけ眠る知見です。私はその宝を抽出し、誰でも再現できる仕組みに変えたいのです。それこそが、あなたが帝国に残せる最大の功績になります」
ヨハンはスープを飲み干し、袖で口を拭った。
「……宝、ねえ。ただのケチな知恵だと思ってたが、あんたにそう言われると、悪い気はしねえな。よし、午後からは俺の番だ。あんたの言う『異常』、俺の目で見つけてやるよ」
午後。私たちは改めて広大な倉庫内を歩き始めた。
ヨハンの動きは明らかに変わっていた。彼は以前のように、部下のミスを見つけて怒鳴るために歩くのではなく、倉庫全体を見渡せる中二階のテラスへ登り、そこから十五分ほど黙って作業の流れを俯瞰した。私は彼の数歩後ろで、その思考の結実を待った。
「……少尉、あそこの馬車を見てくれ」
ヨハンが指差したのは、出発準備中の馬車列だった。
「あそこのベテランが積んだ荷台は隙間がねえが、隣の新兵のやつはスカスカだ。俺は今まで『先輩の背中を見て盗め』と思ってたが、そもそも教える仕組みがねえのが問題だな。全体的な教育の仕組みがないことが本当の課題だ」
「充填率のばらつきですね。そして教育の標準化。これは切り分けた方が良いので別課題として登録します」
私たちはテラスを降り、入庫作業が進む第三倉庫の奥へと足を進めた。第三倉庫は活気がなく、兵士が荷材に座って談笑している。
「鉄道が来る前、あいつらは一時間もタバコを吸ってサボってやがる。やることがないんだから良しとしてきたが、帝国の資源が浪費されてるって観点だと、これも課題だな」
「作業の山と谷の不一致とでも言いましょうか。課題ですね」
ヨハンは、自分の縄張りの不都合を自らの言葉で暴いていく。
「おい、あいつを見ろ」
積み込み場の一角で、一人の作業員が、特定の小隊のマークが入った箱を優先的に積み込んでいた。
「自分の仲が良い小隊の荷物を先に積んでやりたい気持ちはわかる。現場じゃそれが『人情』だった。だが、あるべきじゃねえと認めるよ。ルールがなきゃ、本当に必要な奴に届かねえ」
屋外の連絡通路を通る。吹き抜ける風には、常に鉄錆と家畜の匂い、そして遠くの戦線から流れてくる硝煙の残滓が混じっているように感じた。
先ほどまで熱っぽく語っていたヨハンだったが、ふと足を止め、胸のポケットから刻み煙草のポーチを取り出した。
「少尉さんよ、歩くのが早すぎるぜ。少しは景色でも眺めたらどうだ。ほら、あそこの山、雪が少し低くなってきてる。もうすぐ、本格的な泥の季節が来る合図だ」
私は足を止め、彼が指差す北の連峰を見た。
「泥濘期の到来という事象は、すでに輸送効率の低下変数として計算に組み込んでいます」
ヨハンは火をつけ、紫煙を吐き出しながら、どこか呆れたように私を眺めた。
「変数、ねえ。あんたの頭の中は、数字以外のものは入ってねえのかい。……例えば、戦場以外の場所で何がしたいとか、何を食べたいとか、そういうのは?」
「……。私は軍人であり、兵站将校です。任務の遂行以上に優先すべき事項は定義されていません」
「……ますますうちの娘に聞かせてやりたい台詞だ。あいつは今頃、帝都の寄宿学校で、流行りの帽子がどうとか、お菓子の店がどうとかいう手紙をよこしてくる。平和なもんだが、俺はその手紙を読むために、ここで泥にまみれて箱を運んでる」
ヨハンは目を細め、煙の向こう側にあるはずの故郷を見つめるような顔をした。
「あんたも、元々はどっかの誰かの娘だったはずだろう? こんな殺風景なハブで、親父世代の頑固者を相手に正論を振りかざすのが、あんたの望んだ『人生』なのかい?」
「人生、という概念はあまりに抽象的で評価が難しいです」
私は視線を彼から外し、第三倉庫の搬入口へと向けた。
「ですが、私がここで正論を振りかざし、五パーセントの非効率を排除できれば、あなたの娘さんが帝都で流行りの帽子について語り続けられる確率は、コンマ数パーセント上昇します。私の動機を説明するのに、それ以上は必要ありません」
ヨハンは、燃え尽きかけた煙草を指先で揉み消した。一瞬、彼は何かを言いかけ、それから「……全くだ、敵わねえな」と、短く、絞り出すように笑った。
「理屈じゃねえ、って言いたいところだが、あんたの理屈は結局、俺たちの『生』に繋がってやがる。……よし、休憩は終わりだ」
再び歩き出したヨハンの背中は、先ほどよりも少しだけ大きく見えた。
最後に、ヨハンは事務棟へと続く電話回線を睨みつけた。
「最後だ。鉄道側で検品したリストがあるはずなのに、俺たちは事務棟のやつらはこっちを信用してねえからここで検品をやり直してる。叩き上げの俺たちと、エリート組のあいつら……分かっちゃいたが、直すべきところだ」
ヨハンは倉庫の広大な空間を見渡し、深く息を吐いた。
「不思議だな。自分が荷物を運んでる時は、ただ目の前の箱をどかすことしか考えてなかった。だが、こうやってどこが詰まってるかを考えるのは……なんだか、高いところから戦場を見てる将軍にでもなった気分だ。少尉、面白いぜ、これ」
「あなたは今、個人の労働を、組織の運用へと昇華させています。あなたが運用の仕組みを一つ改善するたびに、前線で救われる兵士が、確実に増えます」
夕刻。ホワイトボードの「ヨハン」の列には、彼自身の言葉で書かれた課題が並んでいた。事務官と分隊長は、その書き込みを見て鼻で笑い、互いに皮肉を言い合いながら帰っていった。彼らとの和解はまだ遠いが、少なくとも物流の心臓部である倉庫の主は、私の論理を受け入れ、自ら思考し始めた。
「エリック伍長。明日は事務官の密着に入ります。準備を」
「……はいはい。ヨハンさんがあんなにノリノリになるなんて、少尉、マジで何かの魔法使いっすよ」
「魔法ではありません。適切なインセンティブを与えただけです」
私は、ヨハンの書いた歪な文字の課題を、美しい数式へと翻訳する作業に取り掛かった。




