第12話|構造への昇華
二日酔いの頭痛は、論理的な思考に対する物理的な報復のようだった。
目覚めた後の自己嫌悪を統計的に分析しようとしたが、あまりのデータの醜悪さに途中で断念した。焚き火の前でエルヴィン小隊長の髭の空気抵抗を論じた記憶が不規則なノイズとして脳内で再生される。
しかし、事務室に顔を出した私の目に飛び込んできたのは、意外な光景だった。
第一小隊の兵士たちが、私が指示を出す前に、需要予測表に基づいた予備弾薬の仕分けを終えていたのだ。彼らは私を見ると、以前のような「得体の知れない機械への恐怖」ではなく、どこか気恥ずかしそうな、それでいて親愛の情を含んだ苦笑を浮かべた。
「よう、少尉。体調はどうだ? 昨日の燃料は、少々不純物が多かったみたいだな」
エルヴィンが、ニヤニヤしながら声をかけてくる。
「……だいぶ良くなりました。小隊長、作業の進捗が予定より早いようですが」
「ああ。あんたがあれだけ必死に数式を垂れ流すのを見せられちゃな。俺たちも、少しは数字ってやつを信じてやらなきゃ悪い気がしてきたんだよ」
私は彼らの変化を観察し、思考を整理した。
人間関係を「構築」することは、組織運営における摩擦係数を劇的に低下させる。私がどれほど正しい論理を振りかざしても、受け取り側に拒絶反応があれば、その適用効率は著しく下がる。昨夜の醜態という高いコストを支払った結果、私はこの集積所における「信頼」という名の、最も滑らかな潤滑油を手に入れたのだ。
長期的に見れば、このアプローチは合理的であると言える。
だが、同時に私は、自分の内側にある決定的な欠落を再確認していた。
兵士たちが笑いかけ、冗談を飛ばすたびに、私はそれに対する「適切な定数」を脳内で検索し、もっともらしい反応を演じなければならない。彼らが私を「理解」したと思っている一方で、私は依然として彼らを「変数」としてしか認識できていない。
人間関係という高度に複雑な多変数関数を処理し続けることは、私という演算装置にとって、過剰な負荷でしかなかった。
「……向いていませんね、やはり、私には」
誰に聞こえるでもなく、私は呟いた。
泥と笑い声に満ちたこの現場は、私には少し眩しすぎた。私はもっと冷たく、もっと抽象的な、数字だけが支配する世界を、どこかで求めているのかもしれなかった。
その日の午後、事態は急変した。
管理官に呼び出された私の前に置かれたのは、兵站総監部のフォン・ベルトーネ准将の印が押された公式な転属内示書だった。だが、そこに書かれた私の行き先は、帝都ではなかった。
「ヘイル少尉。おめでとう。私の……いや、我々が第十四集積所で上げた成果が、ついに中央に認められたぞ」
ヴェーバー管理官の顔は、抑えきれない高揚感で赤らんでいた。
「私は本日付で中佐への昇進、および帝都の兵站総監部への栄転が決定した。そして君だが……」
ヴェーバーは、机の上の地図の一点を指さした。そこは、第十四集積所を含む四つの前線基地へと物資を振り分ける、広域物流の結節点――「第三ハブ補給倉庫」だった。
「私がこのシステムを『自らの指導の成果』として上申したため、君を直接帝都へ連れて行く合理的名分は失われた。だが、私は君をこの泥沼に埋もれさせておくつもりはない。君は今日から、第三ハブ倉庫の総括実務官だ。私の息がかかった場所で、より広域の数字を管理してもらう」
私は内示書の行間を読み取った。
ヴェーバーは、私の知的能力を自分の実績として完全に奪うことで、帝都への切符を手にした。しかし、彼は実務能力のない自分が帝都で化けの皮を剥がされることを恐れている。だからこそ、私を「自分の支配下にあるハブ拠点」に配置し、中流から自分の実績を支え続けさせようとしているのだ。
私の知性は、彼の政治的キャリアを維持するための、外部演算ユニットとして定義された。
「……管理官、おめでとうございます。妥当な判断です。第十四集積所という単一の『点』ではなく、複数の拠点を繋ぐ『線』の管理に私の演算リソースを割くことは、物流効率を最大化させる上で極めて合理的です。転属を受理します」
「ははは! 相変わらずだな、ヘイル少尉。君は政治に文句を言わない。だから使いやすいんだ。君は中流へ行け。そこから、私のために完璧な数字を積み上げろ」
ヴェーバーが部屋を出た後、私は事務室に戻り、ハンスとニコにこの事実を伝えた。
「……そうですか。管理官は帝都へ、カレンはハブ倉庫へ」
ハンスは、丁寧に、しかしどこか諦めたような笑みを浮かべた。
「管理官の手柄になったのは不本意ですが、あなたがより大きなところへ行くことは、軍全体にとって正しい選択です。……寂しくなりますが、あなたなら、きっと上手くやれるはずです」
一方、ニコ・ラングはテスターを握ったまま、硬直していた。
「……え、異動? 倉庫って……あそこの巨大なハブに行くんですか」
「ニコ・ラング補助兵。内示が出ました。一ヶ月後、私はここを離れます」
「……なんだよそれ。やっと、やっとあんたのやり方に慣れてきたっていうのに。……いや、別にいいですけど。あんなデカい倉庫、あんたみたいな数字マニアには天国みたいな場所だ。……あーあ、せいぜい山のような木箱に囲まれて、難しい顔してればいいじゃないですか」
ニコは顔を赤くしてそっぽを向いたが、その声にはいつもの刺々しさよりも、年相応の戸惑いと寂しさが滲んでいた。
「どうせ、僕のことなんてすぐ忘れるんでしょ。……まあ、いいです。」
*
異動までの猶予は一ヶ月。
戦時中において、一ヶ月という時間は永遠にも等しいが、今の第十四集積所においては、それは奇跡的なほど穏やかな時間となった。
引き継ぎ作業は、拍子抜けするほどスムーズに完了した。
それもそのはずだ。私はここに来て以来、徹底して「非属人化」を推し進めてきた。私の不在がシステムの麻痺を引き起こさないよう、あらゆる判断基準を文書化し、自動化してきたのだ。
私が作成した「標準運用マニュアル」をハンスに渡し、予測表の更新手順を覚えさせる。それだけで、私の仕事の九割は完結した。
「……引き継ぐことが、ほとんどありませんね」
ある日の午後、静かな事務室でハンスが呟いた。
「あなたがここで行った最大の仕事は、自分という存在を、兵站の歯車から取り除いても機械が回り続けるようにすることだった。それ自体が、何よりも高度な引き継ぎです」
「それが設計者の責務です。特定の個人に依存する構造は、脆い」
前線では依然として消耗戦が続いていたが、私の構築したシステムのおかげで、この集積所の稼働率は安定し、エラーは最小限に抑えられていた。
私は、残された時間を数学の研鑽に充てた。
エルヴィンたちは、時折事務室に顔を出しては、「おい、帝都に行く前に、もう一回髭の講義をしてくれよ」などと冗談を言ってきたが、私はそれを適宜、丁寧な数式で論破して追い返した。
ニコ・ラングも、相変わらず文句を言いながらも、私の指示を完璧にこなしていた。
「ほら、少尉。言われた通りの数値で調整終わりましたよ。……次は、何すればいいんですか。もう、あんたから教わることなんて、残ってないんですか?」
夕暮れ時、テスターを片付けるニコの横顔は、集積所に来たばかりの頃より、少しだけ精悍に見えた。
ここは戦場の一部でありながら、私の作った論理の壁に守られた、異質な空間だった。
しかし、この凪が、より巨大な嵐の前の静けさに過ぎないことを、私は心のどこかで理解していた。私が向かう先は、個別の「点」ではなく、複数の前線を束ねる「線」を設計する場所なのだから。
*
旅立ちの日。
集積所のゲート前には、二台の軍用車両が停まっていた。一台はヴェーバー中佐を帝都へ運ぶもの。もう一台は、私を第三ハブ倉庫へと運ぶものだ。
私は、最小限の私物と大量の計算ノートを詰め込んだ鞄を手に、見送りに来た人々を見渡した。
ハンスは、いつも通り丁寧に整えられた軍服で、静かに敬礼を捧げた。
「カレン少尉。どうか、お元気で。あなたの正しさが、新しい配属先でも変わらないことを願っています」
そして、ゲートの向こう側には、非番の兵士たちが集まっていた。
第一小隊。私に無理やり酒を飲ませ、私の醜態を笑い、そして私の数字を信じた男たち。
エルヴィンが、泥に汚れた帽子を高く掲げた。
「少尉! 倉庫番になっても、俺たちのロット番号を忘れるなよ! 弾が足りなくなったら、あっちの門を突き破って取りに行くからな!」
兵士たちが、一斉に歓声を上げた。それは「英雄」に対するものではなく、自分たちの生死を不器用に、しかし誠実に支えた「仲間」に対する見送りだった。ニコが何かを叫んでいるようだったが歓声にかき消されていた。
私は車に乗り込み、窓を開けた。
「……第十四補給集積所における私の任務は完了しました。お世話になりました」
私は一度だけ、彼らに向かって短く敬礼を返した。
車が動き出し、集積所の景色が遠ざかっていく。
泥だらけのテント、錆びたドラム缶、そして最後まで手を振るニコの姿。
彼らは明日も、私の作った数表に従って、死に近い戦場へと赴く。
私の正しさは、彼らの生存確率を数パーセント上げたかもしれない。だが、同時に、彼らが「効率的な消耗品」として戦い続けることを可能にしてしまった。
車窓から見える風景が、荒廃した前線から、巨大な石造りの倉庫群が並ぶ「ハブ」へと変わっていく。
私は鞄からノートを取り出し、新しいページを開いた。
第三ハブ補給倉庫。そこは、個別の悲鳴が「物流統計」という名の無機質な数字に変換され、整理される場所。
私はこれより、末端の泥を離れ、運命を回す側……「中流」へと足を踏み出す。




