第10話|標準化
視界の端が白く爆ぜたような感覚の後、重力が不自然に増大した。
次に意識が戻ったとき、私は事務室の冷たい床に横たわっていた。頬に触れる板敷きの感触が、異様に鮮明だった。
「少尉! しっかりしてください!」
耳元で、取り乱したハンスの声が響く。視線を動かすと、彼は私の肩を支え、必死にその顔を覗き込んでいた。その背後では、ニコ・ラングが青ざめた顔で立ち尽くし、手にした魔導触媒の点検用具を床に散らしている。
「……ハンス。計算が、途切れます。離して」
「計算どころじゃないです! 三日間一睡もしてないんですよ!」
ハンスは私の抗議を無視し、駆けつけた衛生兵と共に私を無理やり担ぎ上げた。
集積所の隅にある、簡素な医療待機所。湿った毛布の上に横たわらされた私に対し、老練な衛生兵は、診察するまでもないと言いたげに私の瞳孔を確認した。
「重度の過労だ、少尉。心臓が悲鳴を上げている。いいか、今すぐ目を閉じて眠れ。これは衛生兵としての権限だ。四時間は動くことを禁止する。わかったか」
四時間。その間にどれだけの供給データが未処理のまま積み上がるかを計算しようとしたが、思考が粘土のように重い。
「……許可します。四時間の休息は、長期的な演算能力の維持において……必要なコストだと判断しました」
私は、自分に言い聞かせるように呟き、瞼を閉じた。
意識が半分微睡みの中に溶け出した頃、扉が開き、複数の軍靴の音が部屋に響いた。
「なんだ、計算機少尉が故障したって聞いたから見に来てみれば。死体みたいに転がってるじゃないか」
聞き覚えのある声。第一連隊のエルヴィン小隊長だった。
「エルヴィン、小隊長……。供給に支障が出ましたか」
「いや、今のところはな。あんたが作ったあのガチガチのルールのせいで、現場はあんたがいなくても、決められた通りに動かざるを得ないんだよ。皮肉なもんだな。あんたが一番、自分の作った仕組みのせいで『いらない人間』になってるぜ」
エルヴィンは嫌味っぽい冗談を口にしたが、その目は笑っていなかった。背後にいた第二中隊の軍曹が、気まずそうに枕元に包みを置いた。
「……前線で手に入れた乾燥果物だ。あんたに倒れられると、次のロットで何を引かれるか分かったもんじゃない。早く起きて、また俺たちを帳簿で脅してくれ」
彼らは一様に、私という「冷徹な管理者」の不在を危惧していた。私がいなければ、兵站は再び無秩序へと戻る。彼らにとって私は不快な女だが、それ以上に「予測可能性」という名の盾だった。
私は彼らの言葉を分析しながら、一つの結論に達した。私という個体への依存。これは組織として致命的なエラーだ。私は、私がいなくても回る「汎用的なパッケージ」を構築しなければならない。
*
衛生兵が去った後、私はハンスに頼み、無理やり事務机をベッドの脇まで運ばせた。
「休めって言われたじゃないですか!」
「横になったまま作業します。ハンス、過去一ヶ月の供給実績と、各部隊の消耗率の相関図を」
私は、自分自身の「勘」や「現場の空気感」を殺していく作業に没頭した。これまでの供給精度は、私自身の属人的な演算能力に依存していた。だが、それでは全軍には広まらない。
私は、この集積所で成功した運用を、三つのパッケージに集約・標準化した。
第一に、「在庫のロット管理」。
端数供給を廃し、梱包単位での管理を強制する。これにより集計ミスを根絶し、輸送効率を最大化する。
第二に、「戦況変化による需要予測」。
敵味方の兵力比、地形係数、交戦継続時間の三点から、一日の標準的な消耗期待値を算出する数理モデルだ。現場の指揮官がどれだけ「足りない」と叫ぼうとも、この表の数字と現在の在庫を照らし合わせれば、供給の可否は自動的に決定される。
第三に、「触媒石の緊急射出供給」。
数理モデルから外れた真の緊急事態に限り、信号弾をトリガーとして自動的に物資を射出する物理的救済措置。ただし、これは濫用すれば次回のロット配分からペナルティを課すという、厳しい運用ルールとセットにする。
「……少尉、何をしてるんです? こんな単純な数式と表で、現場の地獄が分かるとでも?」
ハンスが覗き込み、震える声で尋ねる。
「分かりません。ですが、地獄を正確に把握する必要はないのです。必要なのは、地獄を維持するための『最小コスト』を確定させることです。ハンス、指揮官たちの熱量や兵士の勇気は、この数式における 0.05 程度の補正値に過ぎません。その誤差のために輸送計画を狂わせることは、結果としてより多くの死を生みます」
私は、数十枚に及ぶ数表を完成させた。
これを使えば、算術しかできない下士官であっても、私の八割程度の精度で補給計画を立てることができる。私は、自分自身の脳内から「配慮」という名の不純物を完全に濾過し、純粋な論理の結晶を掴み取った。
「ハンス。これで私は、いつ死んでもよくなりました」
私の言葉に、ハンスは顔を背けた。窓の外では、ニコ・ラングたちが動いている。
明日からは、この「標準パッケージ」が彼らの運命を、より冷酷に、より正確に支配することになるだろう。
四時間の休息を終えた私は、完成したスキームを携えて集積所管理官の部屋を訪れた。
管理官は、私が差し出した書類のタイトル――「兵站標準化プロトコル:ロット管理、需要予測、及び緊急射出供給の統合運用」――を見ると、その目が老練な官僚特有の鋭さを帯びた。
「……ヘイル少尉。これは、第十四集積所だけの工夫ではないということか?」
「はい。この三点をセットにしたスキームは、変数を調整すれば北方戦線でもレンボルグ国境でも同様の成果を出せます。つまり、ヴァルデリア帝国全軍の兵站ドクトリンとして採用すべきだと愚考します」
管理官は、私の言葉の重みを慎重に量るように沈黙を保った。
現在、帝国の兵站は各現場将校の経験と、中央からの「どんぶり勘定」で成り立っている。そのため、ある場所では物資が腐り、ある場所では弾薬が足りずに全滅するという非効率が常態化していた。
私の提案は、その無秩序を中央集権的な「数式による統制」へと変革するものだ。
「在庫の透明化、予測の自動化、そして物理的な救済手段の規格化か。これが採用されれば、補給の失敗という名の『責任』の所在が明確になるな。数表通りに動いたか、否か。それだけだ」
「その通りです、管理官。現場の感情的な訴えは、この数式によって無効化されます。リソースの浪費は数値として可視化され、全体最適を阻害する個体は自動的に抽出されます。これは、戦争を継続するための『最も安価なオペレーション』です」
管理官は、深く頷いた。
彼にとって、これは単なる効率化の提案ではない。帝都の軍令部に対し、「自分こそが全軍の混乱を収束させる鍵を見つけた」とアピールするための、最高の軍功チケットだった。
「いいだろう、ヘイル少尉。この報告書は、私から軍令部、および兵站総監部へ直接提出する。君の言う通り、これはもはや一地方の工夫で終わらせるべきではない。帝国の『意志』として、前線に強制すべきものだ」
私は敬礼し、部屋を出た。
事務室に戻ると、エルヴィンが私の席で待っていた。
「少尉、管理官のところへ行ったらしいな。……俺には、あんたが戦争という化け物に、もっと効率よく人を食わせるための薬を飲ませているようにしか見えねえよ」
「それが、最も多くの人間を活かす方法です」
私は、感情を排して答えた。
エルヴィンは、何も言わずに部屋を出て行った。
見えているのは、帝国全土を網羅する供給の血管が、私の作った数式に従って脈動し始める、巨大な幾何学模様だった。
*
帝都・ヴァルデリア。壮麗な石造りの軍令部庁舎。その最深部、兵站総監部次長フォン・ベルトーネ准将の執務室には、前線から送られてくる数多の「悲鳴」が報告書として積み上がっていた。
「……また弾薬不足の訴えか。第十一連隊は、昨日の要求からさらに二割の上乗せを求めてきている」
副官が溜息混じりに書類を置く。
「現場の将校は自分たちのことしか考えていない。全体の在庫などお構いなしだ。このままでは三ヶ月後には予備役の触媒石すら底を突く」
ベルトーネ准将は、窓の外に広がる帝都の街並みを眺めていた。帝国は今、袋小路にいた。財政は限界に達し、レンボルグとの消耗戦は底なしの泥沼。勝利の二文字は虚空を漂っている。
その時、執務机の片隅に置かれた、地方の集積所から届けられた一通の報告書がベルトーネの目に留まった。
「これは何だ?」
「ああ、第十四補給集積所の管理官から届いた上申書です。彼が考案したという、兵站の『標準化ドクトリン』だとか。現場の小生意気な工夫でしょう」
ベルトーネは無造作に書類を手に取り、一読した。
数分後、彼の眉間の皺が、驚愕の色へと変わった。
「……ロット管理による透明化。戦況比を用いた需要の『事前確定』。そして、緊急射出という物理的救済と、その濫用を罰する制約スキーム……」
ベルトーネは眼鏡を掛け直した。
そこには、現場将校の感情的な「悲鳴」を完全に沈黙させるための、冷徹な論理が記述されていた。兵士を、人格ではなく「消耗定数」として処理する数式。
「このオットー・ヴェーバーという管理官……。彼が提示しているのは単なる効率化ではない。兵站という名の『カオス』を、中央から一律に制御するための支配言語だ」
ベルトーネの頭脳は、即座にその価値を計算した。
このスキームを全軍に強制すれば、現場の不当な要求を切り捨て、国家の限られたリソースを「死なない程度に」最小限配分し続けることができる。
一パーセントの効率化が、数万人の兵士の寿命を、あと一週間だけ延ばす。その「一週間」を繰り返すことで、戦争というシステムを永遠に稼働させ続けることができるのだ。
「准将、どうされました?」
「……宝を見つけたのだよ。この管理官は、今の帝国に最も欠けている『部品』だ。感情を持たず、等号を合わせるためだけに存在する計算機」
ベルトーネは報告書を強く握りしめた。
「彼をこのまま泥に塗れた集積所に置いておくのは、最大の資源浪費だ。彼を、もっと広い範囲……帝国という巨大な患者の心臓部を管理する権限を与えれば、どうなるか」
ベルトーネは、手元の白紙の辞令に視線を落とした。
カレン・ヘイルという小さな歯車が、間接的に認知され、より巨大な、そしてより冷酷な機械の中枢へと引き寄せられようとしていた。




