第65話 新たな武器
しばしの休息を終え、俺たちはカジノを後にしようと、出口へ向かって歩き出した。 だが、その背中に低い声がかかる。
「おい、待てよ」
振り返ると、鰐淵がカウンターに肘をつき、気怠げにこちらを見ていた。
その視線が、ルーレット版の上にある三十六枚のチップに向けられる。
「チップを交換していけ」
「……チップを交換?」
俺は眉をひそめた。 換金しろという意味か? だが、こんな場所で現金を受け取っても荷物になるだけだ。
断ろうとした俺の思考を先読みするように、鰐淵はニヤリと口角を吊り上げた。
「勘違いするなよ。金の話じゃねえ」
彼は懐から一冊の分厚いリストを取り出し、カウンターの上に放り投げた。
革張りの表紙には、鴉の紋章が刻印されている。
「そのチップは、俺が今までこのカジノで敗者から巻き上げた能力と交換できる」
「──何?」
俺は思わず足を止めた。
「鴉羽の理念は『勝者がすべてを得る』だ。敗者の財産も、尊厳も、そして才能さえもな」
鰐淵がリストを指先で叩く。
「身体強化、火炎操作、精密射撃。好きなのを選びな」
俺はゴクリと喉を鳴らし、その黒いリストを受け取った。
ずらりと並ぶ能力の数々。だが、俺の指はある一つの項目で止まった。
「……これだ」
俺がリストの中の能力を選ぶと、鰐淵が意外そうに眉を上げた。
「ほう? 『位置交換』か。地味なモン選ぶな。火炎操作とか怪力の方が派手で強いぞ?」
「いや、これでいい」
「……まあ、あんたがそれでいいならなんでもいいが」
鰐淵が指を鳴らす。
すると、カウンターに積まれていた三六枚のチップが、黒い霧となって崩れ落ちた。
霧は渦を巻き、俺の胸元へと吸い込まれていく。
「うぐッ……!」
心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような衝撃。
だが、痛みはない。代わりに、奇妙な感覚が脳に焼き付けられた。
──空間把握。
視界に入る『モノ』との距離感が、数値のように鮮明に感じ取れる。
意識すれば、目に映るどんなものとでも瞬時に『居場所』を交換できるという確信があった。
『……へェ。面白いナ』
影の中で、ベンケイが笑う気配がした。
『俺も影の中から奇襲できるし、二人で使えば敵を翻弄できル』
俺は視線を足元の影──ベンケイへと向けた。
神出鬼没に影から現れ、戦場を縦横無尽に駆ける相棒。その自由な機動力を、俺はずっと羨ましいと見ていたのだ。
俺自身はあくまで生身の人間。移動速度には限界がある。
だが、この能力があれば──。
(お前と同じ領域で戦える)
敵を撃つことも、仲間を守ることも、この能力ならできるだろう。
「ちなみに能力が使えるのは二四時間だけだからな」
充分だ、今夜中にケリをつける。
俺たちはカジノを後にした。
外に出ると、湾岸地区特有の湿った夜風が頬を撫でた。
気嵐は少し晴れ、月明かりが冷たくアスファルトを照らしている。
振り返れば、あれほど煌びやかだったカジノのネオンは幻のように消え失せ、そこには古びた雑居ビルが佇んでいるだけだった。
鰐淵も続いて出てきた。ポケットに手を突っ込み、飄々《ひょうひょう》とした様子だ。
「お前に能力を貸してる間、俺は使えねえんだ」
彼は手を上げて、大袈裟に首を横に振ってみせた。つまり、これからの二十四時間は、彼はただの非力な人間というわけだ。
「殺すかい?」
トントン、と自分の首筋を指先で叩く鰐淵。
挑発的だが、その目には奇妙な落ち着きがある。
今の彼には無敵のバリアもない。今夜の戦いにおいて脅威ではないし、無理に殺す必要もないだろうが。
俺は判断に迷い、ミツルたちの意見を聞こうと視線を巡らせた。
その視線の先で──白羽は、幸せそうにアップルパイを頬張っていた。
「美味いアップルパイだろ、それ。『パティスリー・リュクス』の限定品だ」
鰐淵が唐突に言った。
その店名を聞いた瞬間、白羽の動きがピタリと止まる。
そこは、開店前から行列必至の超有名店。その限定品ともなれば、戦争のような争奪戦を勝ち抜かなければ手に入らない幻の逸品だ。
「うぐっ……!」
喉を詰まらせる白羽。
同じくパクついていたカノンとアリアも、その価値を知ってか知らずか、「え、そんな高いやつだったの?」と居心地悪そうに目を泳がせている。
完全に、胃袋を掴まれていた。
「……に、逃がしていいんじゃないかな〜」
白羽が、上擦った声で提案してくる。口元のパイ屑を拭う仕草が、何ともバツが悪そうだ。
カノンたちもコクコクと無言で頷いている。
……まあ、この場の空気をあえて壊すこともないか。
「ああ、そうですね。今回は見逃しましょう」
俺が頷くと、鰐淵はふぅ、と安堵の息を吐いた。
「助かるよ。ライフが残ってるとは言え、首を切られるのは目覚めが良くないからな」
彼は首をさすりながら、ニヤリと笑った。
「じゃあな。……またやろうぜ。今度はイカサマなしでな」
鰐淵は背を向け、片手をひらりと振って闇に消えようとした。
このまま何事もなく去っていく。
誰もがそう思った、その瞬間だった。
ヒュンッ──!
風切り音すら置き去りにする、二つの閃光。
超高速の『光の矢』が、夜の闇を切り裂いて飛来した。
「あ?」
鰐淵が間抜けな声を漏らす。
一つは、正確に彼の眉間を貫通していた。
頭を射抜かれた鰐淵の肉体は、硝子細工のように崩れ落ち、無数の光の粒子となって霧散する。
もう一本の矢は、俺の頭を狙っていた。
反応が遅れた。剣を抜く暇がない。
死を覚悟した瞬間、視界が白く輝いた。
ガギィィィンッ!
目の前に展開された、半透明の光の障壁。
矢はその表面で激しく火花を散らし、弾け飛んだ。
横を見れば、カノンが手をこちらに伸ばし、冷や汗を流しながらも立っていた。
「……ま、間に合いました」
「おおぅ、敵襲だねぇ」
白羽が、食べかけのパイを持ったまま楽しそうに呟く。
影から、ベンケイが焦った様子で飛び出し、俺の前に立った。
「すまなイ、ヨシツネ。感知できなかっタ」
「いや、俺も油断していた。助かったよ、カノン」
「い、いえ、お役に立てて……よかったです」
カノンにお礼を言いながら、俺は矢の飛んできた方角──遥か遠くのビルの屋上を睨みつけた。
物理的な距離は一キロ以上あるだろう。そんな場所からの狙撃など、想定外だ。
「……この能力は。綾香女学院の姫野さんですね」
「姫野……『弓姫様』ってやつか」
そういえば、こいつも復讐対象の一人だったな。最初に訳も分からず殺された恨みがある。
「いい度胸だ。挨拶にしては、随分なものを寄越してくれるな」
俺は刀の柄に手をかけ、腰を落とした。
もう油断はない。
一度見た軌道だ。あの程度の速度なら、今の俺の目と剣で──切り落とせる。




