第54話 詐欺師の幻影
「上は気にしなくて大丈夫よ」
張り詰めた空気の中、小春が紅茶の温度でも確かめるような口調で言った。
「雨粒一つ、通さないから」
その絶対的な自信に、俺の強張っていた肩の力がふっと抜ける。
そうだ、東陵最強の防御役がいるのだ。防御に関しては俺が心配することじゃない。
「──退かないなら、ここでやることになるが?」
真田が一歩、前へ踏み出す。
ドォォォ……ッ!
アスファルトが軋むような重低音と共に、彼の周囲の空気が歪んだ。
純粋な暴力の気配。言葉による交渉など不要と言わんばかりの、圧倒的な殺気だった。
大蛇の上の男──黒沼は、ヒュウと口笛を吹いて肩をすくめた。
「交渉は決裂かぁ……。じゃあ、始めようか」
巨大な蛇がズルリと身を翻す。闇に溶け込むように、彼らは音もなく路地裏へと消えていく。
黒沼が影に消えると同時だった。
上空を旋回する蝙蝠の群れから、無数の〝針〟が豪雨のように降り注いできた。
「小春ッ!」
「問題ないですわ」
小春が片手を掲げると、全員の頭上に青白い氷のドームが展開された。
カンカンカンッ!
激しい金属音が炸裂するが、氷の盾には傷一つ付かない。
「蝙蝠を操っている以上、そこまで離れてはいないはずだ……追うぞ!」
真田の判断は早かった。
俺たちは弾幕を避けるように、黒沼を追いかけて大通りの脇に口を開けた薄暗い路地裏へと滑り込んだ。
路地裏に入ると、嘘のように静寂が戻った。
上空を旋回する蝙蝠の羽音も、氷のドームを叩く金属音も聞こえない。ただ、湿ったコンクリートの匂いと、古びた街灯があるだけだ。
「……逃げ足の速い野郎だ」
真田が舌打ちをし、暗闇の奥を睨む。
黒沼たちが乗っていたはずの巨大な蛇の痕跡は、どこにもない。
一本道だ。隠れる場所などないはずなのに、彼らは煙のように消えていた。
「なにか、嫌な気配がしますわ……」
小春は油断なく周囲に目を配り、俺たちは呼吸を合わせて追跡を続行する。
カツ、カツ、と俺たちの足音だけが響く。
数分ほど歩いただろうか。
不意に、ユウトが足を止めた。
「……変だな」
「どうした?」
「さっきから、同じ景色が続いていないか?」
ユウトが指差したのは、赤錆びた自動販売機だ。
「この自販機を見るのは、これで三度目だ」
言われてみれば、壁の落書きも、足元のゴミの位置も、さっき見たものと同じ気がする。
一本道を直進しているはずなのに、気づけば同じ場所に戻っている。
「ループ……?」
「初めてみる能力ね」
カエデが銃を構えながら呟く。
「幻覚か、空間操作か……。あら?」
その時、路地の奥から濃い霧が立ち込めてきた。
視界が白く塗りつぶされていく。隣にいるはずのカエデの輪郭が、あやふやにぼやけ始めた。
「……カエデ先輩? ユウト?」
俺は手を伸ばす。
だが、俺の手は空を切った。
「──ッ!?」
霧が晴れた時、俺の周りには誰もいなかった。
真田も小春もユウトもいない。
ただ一人、俺と──足元の影に咄嗟に飛び込んできたベンケイだけが残されていた。
「ヨシツネ、気をつけロ。……何の気配もないゾ」
ベンケイが影から飛び出し、刀の柄に手をかけて周囲を睨む。
壁が、地面が、まるで生き物のように呼吸している気がした。
『ケケケ……迷子かなぁ〜』
壁の中から、忍び笑いが響く。
右か、左か、上か。反響して位置がつかめない。
「そこカッ!」
ベンケイが反応し、左の壁を斬り裂く。
だが、刃は壁をすり抜け、空振りに終わった。壁のシミが人の顔のように歪み、嘲笑うように消えていく。
「幻術……?」
焦りが募る。 物理的な攻撃が通じない相手。どこから本体が来るかもわからない恐怖。
『ここだよぉ~』
今度は背後。
振り返ると、壁からフードを目深に被った小柄な男の上半身だけがニューッと生え出し、ボウガンを構えていた。
「しまっ──」
回避が間に合わない。そう直感した瞬間、乾いた発射音が響いた。
ヒュンッ!
短い矢が俺の背中へ吸い込まれるように飛来する。
「ヨシツネッ!」
キンッ!
刹那、ベンケイが矢を刀で弾き飛ばした。
『チッ、惜しいねぇ』
フードの男は悪びれもせず舌打ちすると、そのまま壁の中へと沈んでいく。まるで水面に沈むように、波紋一つ残さず姿を消した。
『君はここで野垂れ死ぬんだ。仲間と逸れて、孤独にね』
声が反響する。右から、左から、上から。
嘲笑と共に、再び壁から複数のボウガンが突き出された。
一つじゃない。三つ、いや五つ。
「ヨシツネ、惑わされるナ! 本物は一つダ!」
「わかってる……!」
ベンケイの叫びに頷く。
(──目で見るな。流れを感じろ)
不意に、剣道の師の声が脳裏をよぎった。
視覚情報だけに頼るから騙される。
俺は反射的に、突きつけられた五つの銃口から視線を外し、目を閉じた。
『はぁ? 諦めてお祈りか?』
フードの男の嘲笑が聞こえる。トリガーに指がかかる音がした。
だが、俺の意識はそこにはない。
感じる。不自然な空気の揺らぎ。殺気の源流。
(……そこだ!)
俺は目を開けず、ボウガンが見えていた壁ではなく──右側の何もない空間に向かって、刀をフルスイングした。
「は?」
虚空から、男の驚いた声が漏れた。
空間がガラスのようにひび割れ、その向こうから、フードの少年が弾き出された。ベンケイが即座に切りかかるが、フッ、と彼の実体が再び霧のように霞む。
ベンケイの刃は空を切り、男の気配は完全に消え失せた。
「逃げられたか……」
「深追いは危険だナ。それより、霧が晴れるゾ」
術者が去ったことで、周囲を覆っていた濃霧が徐々に薄れていく。
だが──霧が晴れた路地裏に、仲間の姿はなかった。
「……マジかよ」
俺は静まり返った路地で、一人立ち尽くす。
どうやら、ここからは自力で切り抜けるしかないらしい。




