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塔の子たち:二十五階の審判―“教育塔”に集められた十五人の若者たち。正しい答えを選ぶほど、誰かが死ぬ。  作者: 妙原奇天


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第14話 塔の崩壊

 非常警報のサイレンは、谷の壁に何度もぶつかって、すり減った刃のような音になって戻ってきた。山あいの空は薄い雲に覆われ、風が回るたび、白い粉塵がゆっくりと形を変える。木々の葉は裏を見せ、鳥は遠くで一度鳴いて黙った。谷底では、小さな川の流れがかすかに濁っている。濁りの色は、ここにないはずの建物の色だった。


 近隣の消防団の無線には、地図に載っていない座標からの通報が、淡々と「誤報」のタグで処理されていく。オペレーターの声は機械的で、落ち着いていて、言い間違いをしない。「確認のため、別系統で照合中。現地画像は不明。アクセス道路の安全性未確認」。赤い車は出動を遅らせられ、署の玄関前で横並びのまま待ち、ホースの金具が乾いた日差しでやや熱を帯びる。その間に、山の斜面に貼りつくように建てられた白い箱の外壁には、目に見えない速さで亀裂が走った。音はない。音は中の方へ吸い込まれる。


 内部。細いダクトは、金属の匂いと埃と、消毒液の薄さを混ぜ合わせた味を持っていた。レンは両肘と両膝の皮が擦れる痛みを噛みながら、前を行く剛の靴底の影だけを見て進んだ。剛は曲がり角で体を半分ねじり、「右」と短く指示する。声の高さは落ち着いていて、しかし息が急いでいた。通風口の先、金網の向こうに、薄い自然光があった。灰色の光でも、人工の白とは質が違う。網に手をかけ、押す。錆びたネジが、一度だけ抵抗して、外れた。外気が流れ込む。胸の内側の固さが、少しだけ緩む。


 高所だった。断崖の張り出しは、手の平二枚分ほどの幅しかない。足場というより、石のくぼみ。下はすぐ落ちる。風は上から下へ動き、白い粉塵を帯のように運ぶ。二人は岩肌に指を伸ばし、爪の下に砂を溜めながら、身体を横へ移動させた。上からは、崩れていく内部の咆哮が、くぐもって聞こえる。振り返ると、窓のない上層の外壁に、初めて黒い穴が開いていくのが見えた。白い表面が皮膚なら、黒い穴は口だ。口は、声を出さずに開く。


 同じ頃、町のケーブルテレビ局の編集室では、午後のニュースのテロップを打つ若いスタッフが、SNSのトレンドを横目で追いかけていた。白い紙コップのコーヒーは冷め、砂糖が底で溶け残っている。画面の右上の小窓には、首都圏のスタジオにいる識者の顔が映り、用意されたフリップを掲げている。「若者の倫理観の低下が…」「家庭教育と学校教育の連携が…」。言葉は滑らかに並び、どの順番でも意味があるように見える。だが編集室の窓の外、稜線の向こうで何が起きているか、ここにいる誰も、今この瞬間を見ていない。見ないでも番組は作れるからだ。作れる番組は、長持ちする。


 別のところ。教育委員会の小会議室では、午後一番の臨時会が始まるところだった。紙の資料は綴り紐でまとめられ、表紙には「倫理適性評価・再教育プログラム検証委員会(第○回)」。委員の名札は立ち、椅子は足音を吸った。最初の議題は「近時の報道等への対応」。最初に発言したのは、肩書の長い人物だった。「まず、事実関係の確認が必要です。供給元の不明瞭な情報に過剰反応をしないこと。われわれは感情ではなく、実証に基づいて判断する必要がある」。感情という言葉を口にするとき、彼の声はいつも少し優しくなる。優しさは、机の上に置かれたボイスレコーダーに吸い込まれる。


 塔の残る内側。甲斐斗は崩れゆく床を踏み分け、螺旋階段の中心へ走っていた。握りしめた卒業者証の金色が、粉をまとって鈍くなる。額の汗に粉塵が貼りつき、皮膚が硬くなる。彼は確信していた。ここまで従順に、機能的に、役割を演じ、正しい選択を続けた自分は、報われるべきだ、と。崩壊の轟音の中、偶然残った梁と梁の間を抜け、最上層の管理ドアにたどりつく。ドアは歪み、わずかな隙間を見せている。肩で押す。筋肉の音が骨の中で鳴り、隙間が広がる。体をねじ込み、内側へ滑り込む。


 そこは、小さな監理室だった。壁に並ぶモニターの半分は砂嵐だが、一部はまだ生きている。画面には、廊下、踊り場、閉ざされたドアの前に並ぶ白い椅子。誰も座っていない椅子が、いつでも人を迎える姿勢で止まっている。甲斐斗は震える指で「権限移譲」のタブを開き、卒業者IDの入力欄に徽章の番号を打ち込む。画面に現れるのは、確認メッセージ。「卒業者特権:映像記録の閲覧権/教材化の監修権/受講生の選抜推薦権」。彼は笑った。上、とはそういうものだ。上は、見る権利と言い換えられる。見せる権利でもある。持っている者が、見せるものを選ぶ。


 次の瞬間、天井の梁が悲鳴をあげる。粉塵の雪が降り、画面のいくつかが暗転した。電源ではなく、映すものの側が消える。最後に残った一枚にだけ、外壁の亀裂の縁にしがみつく二人の小さな人影が映る。甲斐斗は画面に手を伸ばした。ガラスが冷たく、指先が自分の体温を忘れる。その瞬間、モニターは黒くなった。見えないものは、監修できない。


 谷の反対側では、役場の危機管理課の電話が鳴り続けていた。「どこまでが所管ですか」「登山道の封鎖は林務課?」「県警への連絡はどこから?」。手順書には、ない施設の事故についての項はない。ないものは、ないまま処理される。紙の上の矢印がつながらず、担当印が押せない。押せない印の代わりに、口頭で「善処します」と言う。善処という言葉は、いつでも音がいい。


 崖の張り出し。剛が体重を預けた岩が、乾いた悲鳴を上げて割れ、欠片が斜面を滑っていく。砂が踵から抜け、足場が消える。剛は、ほんの一瞬だけ、笑った。笑いは息に混ざって、すぐ風にほどけた。「行け、先に!」


 レンは首を振る。「一緒にだ」


 「俺はこういうの、得意じゃねえ。けど、お前は書け。お前が見たものを、ちゃんと世に出せ。殴るより効く時がある」


 上から瓦礫の塊が転がり落ち、剛の肩を打つ。身体が大きく傾く。指先が、壁の薄い水分で滑る。レンは反射で腕を伸ばし、手首を掴んだ。爪が皮膚に食い込み、痛みが鋭く走る。剛の目が、一瞬だけ少年の目になり、「悪かった」と呟いた。重みがふっと消え、手は空を掴む。落下の音はなかった。風の匂いだけが、急に濃くなった。濃くなった匂いは、長く残る。


 ふもとに赤い車が着く。ホースが伸ばされ、水が粉塵に向けて撒かれる。霧のような水は、空気の重さを変える。報道陣は規制線の外からズームレンズを構え、「事故」と「事件」の言葉を慎重に使い分ける。慎重な言葉は、誰も傷つけない顔をして、誰かの傷を見えない場所に押し込む。誰かが言う。「再発防止策が必要だ」。誰かが答える。「教育の現場に寄り添いたい」。寄り添うという言葉は、距離を測らないまま使われる。寄り添っているかどうかは、寄り添われる側が決めるのに。


 SNSでは、短い動画が次々に流れた。遠くから撮られた白い箱の一部、白い粉の煙、サイレンの音、山の稜線。サムネイルには「天国の塔」「自己責任」「教育再生」。文字は強い。強い文字ほど、弱いものを運ぶのが上手い。コメント欄には「どこにでもある話」「うちの子に関係ない」「どうせ若者のモラルが」「上がやったに決まってる」。どの言葉にも、顔がない。ない顔は、痛みを受け取らない。


 レンは岩肌に額を押し付け、喉の奥に鉄の味を感じながら、横へ移動を続けた。剛の消えた空白は、すぐに風で埋まるわけではない。空白は、空白のままそこにいる。どこかに古い保守用の梯子があるはずだ。通風口があるなら、点検口もある。身を縮め、手探りで進む。指先に、冷たい鉄が触れた。梯子の丸い棒。錆のざらつき。レンは呼吸を整え、足をかける。足の裏に鉄の硬さが伝わる。硬さは、嘘をつかない。


 ゆっくりと降りる。棒から棒へ、確かめるように。上空で、塔の中心が蜂の巣のように崩れる音が続く。音は大きくなったり、小さくなったりして、一定ではない。一定ではない音は、怖い。一定の音は、眠くなる。白い粉塵の幕が空を曇らせ、太陽が紙の裏に回ったみたいに色を失う。視界は浅く、足元だけがはっきりしている。はっきりしている場所に、重心を置く。


 塔の名前を知る者は少ない。古い地図に載っていないからだ。名前のないものは、説明しにくい。説明が難しいものは、処理が遅い。遅れは、儀式の一部みたいに誰にも責められない。責められない遅れは、次回に引き継がれる。「次回」はいつでも来る。


 教育系の団体の広報が、短い文を出す。「今回の事象について、心よりお見舞い申し上げます。事実関係の究明が必要であり、関係機関と連携して参ります。若年層の健全な育成に引き続き尽力いたします」。文の中には、塔という名詞も、崩壊という動詞もない。ない言葉ほど、紙面に馴染む。


 静かな住宅街のリビングでは、夕方の主婦向け番組が臨時ニュースに切り替わり、アナウンサーが真面目な顔をして、今わかっていることと、まだわかっていないことを丁寧に話した。「山間部で施設の一部倒壊。関係者によると…」「現時点で被害の詳細は…」。わかっていないことが多いニュースほど、言葉遣いは礼儀正しくなる。礼儀は、空気を整えるが、空白を埋めはしない。


 塔の近くの山道には、黄色いテープが張られ、制服の人が立つ。テープの向こうで粉塵が舞い、白い幕が薄く揺れる。誰かが言う。「見せられない」。誰かが聞く。「誰のために」。答えない沈黙が、それ自体で線を引く。線は、いつでも美しい。


 レンは梯子を降り切り、苔のついたコンクリートの踊り場に足を置いた。足の裏が滑りそうになり、腰を落として体重を分散させる。踊り場は狭く、格子の錆びた扉が一枚。押すと、外へつながる狭い通路が見えた。草が生え、風が通っている。人の気配は薄い。薄い気配の道は、真実の道に似ている。歩く音が小さく、しかし長く残るからだ。


 背中のジャケットの内側で、紙の角が肋骨に当たった。角の痛みは、さっきより弱い。弱くなった痛みは、消えたわけではない。身体が慣れただけだ。慣れることは、いつでも危険だ。危険に名前をつけるために、レンは観察者ノートを開く。手の震えは、字を歪ませる。歪んだ字は、真っ直ぐな嘘より役に立つことがある。


 ——外部の視線。見えない塔。地図にない座標。誤報。遅延。

 ——スタジオの言葉。倫理、家庭、連携。形のいい積み木。中身のない重さ。

——管理室の画面。閲覧権、監修権、推薦権。上=見る権利。見せる権利。/印:上は「観客席」。舞台は入れ替え可能。

 ——剛の落下音なし。風の匂いのみ。名前を呼べず。/痛みに名前。剛。

 ——粉塵の幕。白。白の裏の灰。水が重さを与える。白の重さは、時間で沈む。


 字を止め、耳を澄ます。谷の向こうで、またサイレンがひとつ鳴った。鳴り方は最初より弱い。疲れた音。疲れた音は、終わりの合図に似る。似ているだけで、終わりではない。終わりは、誰かが決めないと来ない。決める権利は、いつも上の方に置かれる。上は今、崩れている。


 ふもとの臨時会見で、責任者は深く頭を下げた。フラッシュの光が何度も顔を白くし、白い顔はすぐに画面に並ぶ。白は、どこにでも似合う。「心よりお詫び申し上げます。具体的な経緯につきましては調査中であり…」。質問の声が重なり、マイクが向けられ、言葉がそれぞれ違う方向から飛ぶ。飛んだ言葉は、誰の胸にも刺さらないように、うまく丸められる。丸い刃は深く入る。深く入っても、血は見えない。


 レンは通路を抜け、背の低い雑木林へ出た。枝が頬をかすめ、葉の表面のざらつきが心を落ち着かせる。土の匂いが濃い。土は、何が落ちても受け止める。受け止めるから、何も言わない。言わないだけで、何も感じていないわけではない。足元で、細い枝が一度折れて、すぐ静かになる。静けさの中で、胸の紙が小さく鳴る。鳴る音は、拍手にならない。


 谷を抜ける風が、白い粉を少しずつ落とし、木の緑を取り戻していく。取り戻す色は、最初からそこにあった。なかったのは、見る目の方だ。見ないでも暮らせる町では、夜になり、テレビが穏やかな音で家を満たす。明日には正しい言い方で構成された「特集」が放送される。賢い聞き手は、うなずき方を知っている。うなずく夜に、塔は地図から消える。地図から消えた塔は、話の中で形を変える。変わった形は、次の塔に似る。


 レンは歩きながら、ノートの最後に短く書いた。——ぼくらの痛みは、教材にされる。拍手に変換される。変換の手元を、紙で記録する。紙は、燃えにくい。燃えても、灰が残る。灰は、匂いになる。匂いは、次の人の鼻に届く。届いた匂いが、立ち止まらせる。立ち止まる力が、自由の始まり。


 そして顔を上げる。山の稜線の向こうに、薄く町が見える。小さな建物、薄い煙、夕方のアナウンス。どこかの家の窓で、明かりがひとつ点いた。点いた光は、ここからでも分かるくらい弱い。それでも、暗がりに線を引くには十分だった。レンは封筒に触れ、角の位置を確かめ、歩幅を一つだけ大きくした。崩れかけの正しさの向こうで、まだ名のついていない道が、夜の手前で細く続いていた。

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