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朱音さんパワーアップイベントです。
第九章:刀剣の限界と銃弾の理
明治四十二年(一九〇九年)十二月中旬。
空は重い暗闇に沈み、冷たい雪がひらひらと舞い降りていた。藤原私邸の庭園で、朱音の剣閃が宙を舞う雪の粒を切り裂いていく。
朱音の緋色の羅紗袴と赤い羽織は、凍える空気の中で湯気のように微かに震えていた。彼女が振るうのは、先祖伝来の刀ではなく、特訓用の数打ちの刀。その切っ先は、空気を斬る度に、鋭い悲鳴を上げた。
朱音の表情は暗い。伊藤博文暗殺の報せ以来、彼女の心は一つの課題に囚われていた。
「これではだめだ。伊藤殿はピストルで撃たれた。抜かれたピストルから護るには、届かぬ刀やピストルの抜き撃ちでは間に合わぬ。もっと早くならねばならぬ」
古流剣術の達人としての自負は、近代の銃弾という理不尽な速度の前に、初めて絶対的な限界を突きつけられていた。
朱音の狂気的な鍛錬を見ていた尾崎が、いつものように賑やかな声をかける。
「朱音様はお嫌いでしょうが、此方は如何ですか?米国より輸入しました小型ピストルのデリンジャーと申します。二発しか撃てませんが、袖に隠し持つことができる護身用に大変優れたピストルです!」
朱音は顔を歪めた。銃器は、彼女の血統的な価値観から最も遠い俗な道具だ。
「…馬鹿を…いや、否定だけでは護れはせぬか…」
冷徹な理性が、血統の矜持に勝った。伊藤の死は、彼女の価値観をねじ曲げるほど重い教訓となった。
「良かろう、そのデリンジャーを持とうではないか。早速、鍛錬所に向かうか。行くぞ尾崎!」
朱音は、俗物の道具を持つことを決め、尾崎を伴い、黒革のブーツの音を石畳に響かせた。
私設の鍛錬所。
尾崎から渡されたデリンジャーで、朱音は標的を撃つ。乾いた銃声が響き、的の空いた穴は間が離れ、標的は力なく倒れた。
朱音は眉をひそめる。
「尾崎よ。このピストルは少し離れると弾が定まらぬ。これは私の腕が悪いのか?」
「朱音様は初めてでは上出来ですよ。そのデリンジャーはあくまで護身用。筒が短い銃は、距離が離れれば弾は乱れます」
尾崎のその言葉に、朱音の達人の思考が閃いた。
「そうか。近ければ弾は乱れぬか。ならば尾崎よ!お主は的を狙って弾を撃て、私は刀でそれを逸らす。数打ちの刀でそれができれば、現場でも使えるはずだ!」
流石の尾崎も、目を見開いた。
「朱音様、さすがにそれは頭がおかしいですよ…!銃弾を刀で斬るなど、神話の類です!」
朱音は、血統主義者の傲慢さと、剣士の絶対的な自信を込めて言い放った。
「何を腑抜けたことを申す。やろうと決意して努力すれば、どんなことでも達成できる。達成できないのは、その人がやろうとしないからだ!」
尾崎は、顔を覆いそうになるのを堪えた。
(あっ、これは何を言っても駄目なやつだ)
渋々、尾崎は銃をデリンジャーから、伊藤博文を殺したのと同じM1900に持ち替える。
「朱音様、この銃は伊藤殿を殺したものと同じです、生半可ではございませんよ!」
的の隣に立った朱音は、どうせ廃刀になる数打ちの刀を抜く。折っても構わぬ。彼女の瞳は、尾崎の構える銃口一点に集中していた。
「用意は出来た!撃つがよい!」
尾崎も諦め、引き金を引いた。
銃声が響く。一発目。朱音は刀に弾を当てられない。二発目、三発目…やはり、弾の速度は、剣士の反応速度を凌駕する。七発まで撃ったところで、尾崎はカートリッジを入れ替える。
「朱音様、やっぱり無理ですって!諦めましょう!」
朱音は、悔しげに「うぬぬ」と唸る。
「弾を見てからは無理だ。ならばどうする…いや、弾は乱れぬだったな。ならば、トリガーと銃口の動きで当たりをつけるか?」
朱音は尾崎に振り向き、短気を抑えた冷静な声で命じた。
「尾崎よ、もう一度だ。やり方を変える!」
尾崎は、人間離れした主の指示に、覚悟した。
「分かりましたよ、お嬢様。弾がありませんので、後、十四発ですよ!」
再び銃を構え、一発目。
朱音は、尾崎の指の動きと銃口の微妙な傾きを読み取り、瞬時に刀を振るった。
高い金属音が鳴り響く。弾丸は、朱音の数打ち刀の鍔に当たり、刀は折れたが、弾丸は軌道を逸らした。
朱音は、痺れる右手を抑え、尾崎に言った。
「どうだ尾崎。当てられたぞ。次は角度を変えれば刀も折れはしまい」
尾崎は、手で顔を覆った。
「朱音様、人間ですか?」
朱音は、次の数打ち刀を抜き、冷ややかに言い放った。
「人間だ。だが、理を尽くせば結果は伴う。次だ尾崎!」
尾崎は、残りの十三発を撃ちきる。朱音は、そのうち十発の弾丸を逸らすことに成功した。数打ち刀は三本折れたが、朱音は完全に見切った。
刀と弾丸との角度が三十度以下ならば、刀は折れぬ。
尾崎は、両手で顔を覆い、その場でガクッと膝をついた。
「…」
「どうした尾崎。これだけ出来れば実戦でも通じよう。笑うところだぞ?」
朱音は、人類の限界を超えた偉業を達成したにもかかわらず、平然としていた。
尾崎は、顔から手をどかし、疲れ果てた表情で呟いた。
「帰りましょう、朱音様…」
帰りの馬車でも、俗な相棒は、一言も喋らなかった。
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