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第八章:ハルビンの銃声と緋色の涙


明治四十二年(一九〇九年)十月下旬。


大陸の寒気が肌を刺す季節。空は重く曇りがちで、秋の終わりを告げる肌寒さが覆っていたが、雨や雪の予兆はない。静寂をはらんだその日、初代内閣総理大臣・伊藤博文は、厚手のコートに身を包んでいた。秘書官の森槐南もり かいなんや随行員たちも、同様に厳重な冬支度だった。


東清鉄道の貴賓車。歴史の転換点となる会談を前に、伊藤は隣席の森に、安堵に満ちた声をかけた。


「森よ。今回の露西亜との協調は上手くいきそうだな。蔵相ウラジミール・ココフツォフの反応も良い」


伊藤の顔に、老獪な政治家としての笑みが浮かぶ。


「伊藤殿もご安心でございますな。露西亜も韓国併合の件に納得していただけるでしょう」


森も深く頷くが、伊藤の表情は再び陰った。


「だが、併合については議会も慎重にならねばならん。韓国国内の全てが納得した訳ではないのだからな」


伊藤博文の眉間に、国家の未来に対する憂慮が刻まれる。


「議会も強硬派が優勢ですものね」


森もまた、その焦燥を共有するように眉をひそめた。


運命の列車の速度が、徐々に落ちていく。


午前九時二十分頃。目的地、ハルビン駅のプラットフォームに、重々しい貴賓車が静かに滑り込んだ。


駅構内には、ロシア側の歓迎団、日本側の随行員、そして無数の報道関係者がひしめき合い、盛大な歓迎が待っていた。その熱狂は、冷え切った大陸の空気を吹き飛ばすかのようだった。


伊藤博文は、その歓迎ぶりにホッと息をついた。


「やはり会談は上手くいくぞ」


老元勲は、歓迎団や報道関係者一人ひとりに、にこやかに応じていく。彼の周囲は、一瞬の歓喜に包まれた。


だが、その一瞬の「歓喜」こそが、致命的な隙だった。


時間は午前九時三十分。歓迎の群衆の中に紛れていた一人の男が、ロシア儀仗兵の背後から、静かに、しかし決然と伊藤博文へと近づいていった。


男の名は、安重根。


伊藤博文の至近距離まで踏み込んだ刹那、男の右手が閃光を放った。隠し持っていた拳銃M1900が、甲高い金属音を連続して轟かせた。銃声は七度。


三発の銃弾が伊藤博文の体にめり込み、老元勲は、周囲の空気を赤く染めながら、その場に崩れ落ちた。


狂乱した安重根は、銃の弾倉を交換し、さらに六発を周囲に無差別に撒き散らした。その一発が、駅舎の時計に深く食い込み、時を「七時十二分」に凍結させた。


安重根は、警備に取り押さえられながら、断末魔のような叫びを上げた。


「私は大韓独立軍の将軍として、韓国侵略の元凶・伊藤博文を処刑した!」


地面に臥し、視界が血で滲んでいる伊藤博文は、捕縛された男の顔を、最後の力を振り絞って見た。韓国人。併合に慎重論を唱えていた自分を撃ったのか。


「そうか!馬鹿な奴だ!」


彼の最後の言葉は、失望と無念を凝縮したものだった。


既に痛みを感じない。伊藤は、朦朧とする意識の中で、周囲を見渡す。


「俺はだめだ。誰か他にやられたか?」


血を流しながら這い寄る森の姿があった。


「森もやられたか」


視界は闇に沈み、意識は遠のく。


「伊藤殿!伊藤殿!」


最後に聞こえたのは、忠実な秘書官の悲痛な叫びだけだった。


冷たい空気が、宮中特別警護の任についていた藤原朱音の肌を刺した。秋の終わりを感じさせる曇り空の下、朱音はいつもの緋色の羅紗袴と赤い羽織を纏って、天皇家拝領の刀を携えて、宮中の静寂を守っていた。


その日の朝、朱音の耳に届いた一報は、その静寂を一瞬で打ち砕く、轟音のようだった。


「伊藤博文公、ハルビンにて凶弾に倒れる」


報せは、瞬く間に宮中を駆け巡った。


総理の座を退いたとはいえ、伊藤博文は、大日本帝国憲法の立役者であり、明治の元勲中の元勲。その死は、国家の柱を失ったに等しい。


朱音の冷静さは、この報せの前で初めて、大きく揺らいだ。彼女にとって、政治家個人の資質は「俗」な評価に過ぎない。しかし、伊藤博文は、天皇陛下の御世の礎を築いた者であり、国の進むべき道を熟知している「数少ない賢人」の一人だと、朱音は認識していた。


特に、朱音が内閣直属特務官として携わった、韓国併合という重大な国策について、伊藤は「議会も慎重にならねばならん。韓国国内の全てが納得した訳ではない」と懸念を示していた人物だ。


その伊藤が、併合に反対する韓国人の凶弾に倒れた。


朱音は、特務官室の一室で、その衝撃を静かに受け止めていた。


午後の刻。天皇陛下の特別警護の交代の任に就いていた朱音に、御所の中から、明治天皇の深く、重い吐息が届いた。


「伊藤が殺されたか……」


朱音の全身に、その陛下の嘆きが、稲妻のように走った。


血統主義者である朱音にとって、陛下の憂慮は、自身の使命と存在意義のすべてである。彼女の冷静で浮世離れした仮面が、その瞬間に崩壊した。


「陛下、お力落としなさいませぬよう」


朱音は、御所の外から、小さく、しかし明確に、主への忠誠を込めた言葉を捧げた。


その時、彼女の澄んだ黒瞳から、一筋の光が零れた。血統の矜持のために、逆賊を討ち、血に塗れることを厭わなかった緋色の特務官が、初めて流した涙だった。その涙は、伊藤博文という一人の偉人の死に対するものではなく、国家の未来に対する陛下の憂いと、正しき血の賢人を失ったことへの、激しい失望の念だった。


後日。帝国議会より、伊藤の死を悼む声明が発せられた。


「国家の柱を失った」


議事堂の一角で、その声明を静かに聞いていた朱音の表情は、既に元の冷静な仮面に戻っていた。涙は、二度と見せない。

だが、その鋭い黒瞳は、議場全体を冷徹に見渡していた。

朱音には、伊藤の死を悼む声の裏で、韓国併合強硬派の議員たちが、歓喜の笑みを浮かべているのが見えた。


(俗な血どもめ)


伊藤という「慎重論者」の死により、韓国併合はもはや避けられない流れとなる。強硬派は、伊藤の血を踏み台にして、国家の政策を推し進めるだろう。

朱音の心に、激しい憤りが湧き上がった。この俗な世間は、常に正しき賢人の足を引っ張り、その死すらも、自らの利のために利用する。


(逆賊の討伐は、まだ終わらぬ)


朱音の任務は、もはや国内のテロリストを峰打ちすることではない。伊藤博文の血を踏み越えて、国家の舵取りを誤ろうとする「政治的な逆賊」、そして「大陸の闇」そのものに向かうことを、彼女は予感していた。


朱音は、議場を後にする際、腰の刀の柄を、強く握りしめた。その感触は、彼女の血統が、これから担う血塗られた使命の重さを、改めて伝えていた。


「最後までお読みいただき、ありがとうございます。もしよろしければ、この作品を応援していただけると励みになります。作品ページの【ブックマーク】や【評価】をいただけると、モチベーションに繋がりますので、どうぞよろしくお願いいたします。」

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