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第七章:偉人の功罪と国家の行先


明治四十二年(一九〇九年)五月。新緑の眩しい飛鳥山。


藤原朱音は、内閣特務機関の同僚である尾崎と共に、実業の父・渋沢栄一の私邸を訪れていた。


渋沢栄一男爵は、製糖会社の贈収賄事件、通称「日本製糖疑獄」により、世論の激しい批判に晒されていた。新聞や雑誌『万朝報』は、「道徳を語りながら不正企業を擁護した」と、その道徳経済合一の理想と現実との乖離を厳しく指弾している。


朱音は、恭しく応接室に通され、深々と一礼した。隣に立つ尾崎の態度は、彼女のそれとは対照的に、やや世俗的で親しげだ。


「渋沢男爵、此度は下手を打ちましたな」


朱音は、一切の忖度なく、単刀直入に切り出した。その口調は、十五歳の少女のものとは到底思えない、格式張った重みがあった。


渋沢は、齢を重ねた顔に深い皺を刻み、苦々しげに答える。


「私は創立には関与したが、経営の実務には携わっておらず、粉飾や不正の詳細は知らなかった。その点は、どうか理解していただきたい」


朱音は、静かに頷く。


「分かっている。が、名を貸すのであれば、内部まで精査すべきであったと考える。ただ名前だけを貸すのは、いかがなものか。そなたの唱える道徳経済合一にも反するのではないか?」


朱音の血統主義者としての厳格な倫理観は、実務を知らなかったという言い訳を許さない。彼女にとって、高貴な血統や名声を持つ者は、その名前の重みに責任を持つべきなのだ。

渋沢は、朱音の透徹した論理に喉を詰まらせた。


「道徳経済合一を唱える者として、社会に疑念を抱かせたことは誠に遺憾であります。申し訳ございません」


深々と頭を下げる渋沢に、朱音は冷厳さを緩めた。


「分かっているなら良い。そなたのこれまでの献身、まことに見事。そなたなくして、今の日の本はなきである。顔を上げられよ」


朱音の態度は、批判者というより、むしろ「正しき血」が「功績ある俗人」を糾弾し、赦免を与えるかのようだった。

朱音は、隣の尾崎に目配せする。


「まだ半年先ではあるが、古希の祝いである。受け取られよ」


朱音の指示を受け、尾崎は手にしている包みから、金色の輝きを放つカフスと、色鮮やかな飴の包みを取り出した。


「お納め下さい、渋沢殿!このカフス、なかなか良い色をしてますよ!飴もお好きと伺いましたので、添えさせてもらいました!」


尾崎は、俗な親しげさを隠すことなくニヤリと笑う。

朱音は、その軽薄さに再び深くため息を吐いた。


「尾崎、お主はもう少し礼儀正しくできんのか?相手は男爵ぞ」


尾崎は、朱音の小言にも動じず、また笑った。


「すみません。どうも育ちが悪いもので」


その光景を見て、渋沢栄一も、先ほどの沈鬱な表情を崩し、思わず朗らかに笑った。朱音の厳格さと、尾崎の俗な明るさが、硬直した空気を打ち破ったのだ。

朱音は、笑う渋沢栄一を見て、姿勢を正した。


「収賄に関わった衆議院議員の捕縛は済んでいる。近く審議が行われ、裁可がくだされる。渋沢男爵も暫くは世俗が煩いだろうが、耐えられよ」


彼女は、まるで天の采配を告げるかのように、静かに言い放つ。


「何かあらば、わたくしまで言われるが良い。総理閣下へ、共に申し上げましょう。では、これにて、御免こうむる」


朱音と尾崎は、渋沢に再び一礼し、踵を返して退出した。

飛鳥山を後にする馬車の中。外の陽光が、朱音の緋色の袴を照らしていた。

朱音は、尾崎に向かって、静かに問いかけた。


「尾崎。渋沢栄一という男。そなたは、どのように評価する?」


尾崎は、肩をすくめた。


「俗な私は、彼の偉業を軽々しく論じられません。ですが、彼なくして、この大日本帝国に資本主義は根付かなかった。功も罪も、彼の『俗な血の奮闘』の結果でしょう。道徳と経済、二兎を追うのは、貴族でなくても難しい」


朱音は、尾崎の言葉に反論しなかった。彼女の血統主義は、平民の功績を素直に認めることを躊躇させるが、渋沢の偉業は否定しようのない事実だった。


「…功罪は、歴史が裁く。だが、彼のような俗な英雄が、この国を支えているのもまた事実」


朱音は、そこで会話を打ち切り、窓の外の景色に視線を向けた。

尾崎は、その沈黙を破るように、より重い話題を切り出した。


「朱音様。それよりも、閣下は今、韓国併合について、深く思案されておられます」


朱音は、ピクリとも動かなかったが、その瞳の奥に、一瞬の緊張が走った。


「それは、単なる外交問題ではない。陛下の御世が、いかにして大陸と向き合うかという、国体の未来に関わることだ」


尾崎は、冷静な口調で続けた。


「韓国皇帝陛下の退位、そしてこの後の併合。日本という国は、急速に剣を振るい、領域を広げています。朱音様。あなたの剣は、これから、大陸の闇に対峙することになるかもしれません」


朱音は、ゆっくりと目蓋を閉じた。


(逆賊は、国内の不穏分子だけではない。陛下の御世の安寧を脅かす、すべての敵)


朱音の右手は、黒漆の鞘に収められた刀の柄に、無意識のうちに触れていた。彼女の冷静さは、来るべき国家の運命と、それに対して自らの剣が果たすべき使命を、静かに受け止めていた。


「剣は、陛下の恩ために」


朱音のその一言は、馬車の狭い空間に、鉄のように冷たい決意として響いた。


「最後までお読みいただき、ありがとうございます。もしよろしければ、この作品を応援していただけると励みになります。作品ページの【ブックマーク】や【評価】をいただけると、モチベーションに繋がりますので、どうぞよろしくお願いいたします。」

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