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第三章:灰桜色の密偵と俗世の味
午後。議会を終えた朱音は、一度私邸に戻り装束を替えた。
任務の装いである鮮やかな緋色の羅紗袴はそのままに、上着は燃えるような紅の羅紗羽織ではなく、やや地味な灰桜色(はいざくら色)の紋無し羽織を纏っていた。
緋色は「象徴」であり「威嚇」の色。だが、これからの任務は「探知」であり「潜伏」である。朱音は、派手な自分の装束を、世俗の眼からわずかでも隠す必要があった。
彼女の目的は、今朝総理を襲撃した三人の「逆賊」の背後にある、組織の拠点を探ること。内調(内閣情報調査室)の初期報告では、彼らが東京の古書店街にある、とあるカフェーを秘密裏の連絡場所としていたらしい。
「カフェー・ド・リーブル」——
馬車を使わず、朱音は黒革のブーツで石畳を静かに歩いた。彼女の凛とした佇まいは、灰桜色の羽織をもってしても、周囲の俗な通行人とは一線を画していた。
カフェーの扉を開ける。
そこは、コーヒーの芳ばしい香りと、古書の紙の匂い、そして西洋音楽の流れる、近代的な空間だった。朱音のような、古式ゆかしい美貌を持つ女性には不似合いな場所。
朱音は、部屋の中央から少し離れた、壁際の席を選んだ。そこは、周囲の様子を把握するのに最適だった。
店員が緊張した面持ちで近寄る。
「…ご注文は」
「紅茶を。濃く淹れるように。それと、サンドイッチを」
朱音の声は、周りの話し声に紛れることなく、静かに響いた。紅茶は、貴族の館で供されるものと同じ水準でなければならない。その浮世離れした貴族性は、どんな状況でも崩れない。
注文の品が届くまでの間、朱音は壁に飾られた西洋画を、まるで透視するかのように眺めた。彼女の視線は固定されているが、達人としての聴覚と気配察知能力は、店内にいる全ての客の会話に、等しく耳を傾けていた。
やがて、運ばれてきた紅茶の香りが、朱音の鼻孔をくすぐり一口飲む。
(……俗な味。だが、及第点)
彼女は、サンドイッチを、貴族の食事作法に則り、音一つ立てずに口に運ぶ。その優雅な動作は、周囲の猥雑な会話や笑い声と、強烈な対比をなしていた。
そして、情報収集を開始する。
朱音の視線は、店内にいる三組の客に注がれた。いずれも新聞や本を広げているが、その視線は頻繁に扉や壁の時計を気にしている。
朱音は、それらの会話を、まるで糸を紡ぐかのように繋ぎ合わせていく。
一組目の客は、頻繁に「アジト」という単語を使った。
二組目の客は、「神田の廃屋」という地名を小声で交わしていた。
三組目の客は、「例の御方が、今夜、最後の集会を開かれる」と、扇動的な言葉を囁き合っていた。
(神田の廃屋。今夜。そして「御方」…)
朱音は、紅茶を啜る手を止めた。これらの情報は、内調が得ていた初期情報と完全に合致する。襲撃団体の本拠地。そして、彼らの首魁——「逆賊の頭目」——が現れる場所。
朱音は、サンドイッチを半分だけ残した。既に、食事への興味は失せている。
彼女は、懐から小銭を出すと、音を立てずにテーブルに置いた。会計は、サンドイッチと紅茶の代金としては、釣り銭を受け取るには多すぎる額だった。
(俗世に、手間をかけさせる必要はない)
朱音は、席を立った。黒革のブーツが床を踏む音は、ほとんどしない。
店を出る直前、朱音は一瞬だけ、店内にいた三組の客に視線を投げかけた。その黒瞳に宿る冷たい光は、彼らをまるで「標的」として測るかのようだった。
店外へ。灰桜色の羽織を纏った朱音は、再び東京の街に溶け込んでいく。
(今夜、決着をつける)
朱音の右手が、緋色の袴の傍らに佩いた刀の柄に、軽く触れた。
彼女の冷静さの中に、微かな高揚感が混じる。先祖伝来の刀を振るい、高貴な血統の名誉にかけて、俗世の逆賊を討つ時が来たのだ。
朱音は、神田へと向かうべく、夜の帳が降り始めた街路を、迷いなく進み始めた。
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