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第十二章:大逆の報と抜銃の極意
明治四十三年(一九一〇年)六月。
窓外に、夏の訪れを告げる眩しい日差しが照りつける、ある朝。
藤原朱音は、護衛官の尾崎誠一と共に、総理大臣・桂太郎を警護し、議会へ向かう馬車の中にいた。
車内の空気は、朝の光とは裏腹に、冷たく重く澱んでいた。
朱音はいつもの緋色の羅紗袴と赤い羅紗の羽織姿。その隣で、尾崎は緊張で顔を硬くし、街路の一点一点に鋭い視線を送っている。
彼は、前方に潜む闇を肌で感じていた。
桂太郎は、膝の上に置いた書類に目を落としながら、その重苦しい静寂を破った。
「閣下。陛下への謀反を企てた首謀者たちが捕らえられたと聞きました」
朱音は、「逆賊」という言葉を飲み込み、「首謀者」と言い換えた。
彼女の興味は、その俗な血がどこまで国家の根幹を揺るがそうとしたのか、という一点にあった。
桂太郎は、深く、痛切な息を吐いた。
「そうだ、藤原君。国体を揺るがす者どもを許すことなどできん。
先の伊藤殿の暗殺もそうだ、この国は今、根底から揺らいでいる。
陛下の御身に何かあれば、日本は崩れよう」
桂の言葉は、単なる政治的な危機感を超え、「大日本帝国」という国家体制そのものの脆弱性を示唆していた。
幸徳秋水を筆頭に、菅野須賀、新村善兵衛、古川尚志、宮下太吉ら多数の社会主義者、無政府主義者たちが、恐るべき天皇暗殺計画の露見により、次々と憲兵隊に捕らえられた。
後に「大逆事件」と呼ばれる、未曽有の危機である。
この事件は、朱音の血統主義を最も深く刺激し、「逆賊」の定義を国内のテロリストから、国体そのものを否定する思想へと極限まで広げる、最悪の事態だった。
「閣下、幸徳という男は、どちらかといえば穏健派と聞いておりましたが」
朱音の問いに、桂は、政治家としての冷徹な一面を垣間見せる。
「そうだな、朱音君。だが、組織を御せぬ者が首魁では、暴走する者も出る。
今回の菅野、新村、古川、宮下が企図した陛下暗殺計画のような事もな…馬鹿な奴等だよ。
そんな真似をすれば、我々も弾圧をせざるを得ないからな」
桂は目を伏せ、国体の維持のためには、手段を選ばないという非情な決意を言葉に滲ませた。
「それに、君もだぞ、藤原君」
桂は、朱音に向き直った。
その眼差しは、総理としての警戒心と、朱音という「偶像」への依存が入り混じっていた。
「今や君は、国家の象徴だ。
緋色の剣士は、国内の不穏分子への最大の抑止力であり、国民の精神的な支柱でもある。
決して死んではならん」
朱音は、この「偶像」としての重圧を全身で受け止めていた。
彼女の剣術は、もはや彼女個人の血統の矜持のためだけにあるのではない。
国家の威光そのものを体現しているのだ。
「分かっております。その為の修練も、この様に」
朱音の瞳に、人間離れした自信と、わずかな挑戦の光が宿った。
次の瞬間、朱音の左手が、電光石火の速さで、緋色の羽織の袖口から滑り出た。
瞬きをする間もなく、その左手は、コート越しの馬車の窓を突きつけるように固定された。
朱音の指が握っていたのは、あの尾崎から渡された小型ピストル、デリンジャー。
それは、銃による抜銃術。
伊藤の死後、尾崎と共に銃弾の理を突き詰め、特訓を重ねた、近代の脅威に対抗するための「新しい型」だった。
彼女の指は、一瞬の躊躇もなく、トリガーに深く掛かっていた。
桂太郎は、その一連の動作の極限の速さに、反射的に息を呑んだ。
「…見事なものだ」
桂太郎は、朱音の人間離れした技量を、静かに称賛した。
朱音の緋色の剣士は、もはや古流剣術の達人ではない。
彼女は、血統の誇りと近代の道具を、「生」と「死」の境界線で融合させ、「国家の盾」として、その存在を完璧に確立していた。
朱音は、デリンジャーを音もなく袖の中に戻した。
その動作は、抜刀よりも早く、流れるようだった。
「陛下の御世と、この国体の安寧のため。
俗な道具であろうと、その理は尽くさせていただきます」
朱音の瞳は、馬車の窓の外、賑やかな東京の街を見つめていた。
その輝きは、もはや甘味に興じる乙女のものではない。
大逆の闇と、それを打ち砕く「緋」としての、決意に満ちていた。




