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第十一章:緋色の偶像アイドルの夜会


明治四十二年(一九〇九年)十二月二十五日夕刻。恩賜館(明治記念館)の開かれたガラス扉の玄関から、暖炉の火が照らす絨毯敷きのホールが見えた。奥からは、軽やかな楽団の演奏が聞こえてくる。


二人は、受付に紹介状を差し出し、軽く一礼した。朱音の緋色のドレスを見た受付の顔は、抑えきれない興奮でわずかに上ずっていた。


「藤原様、ご確認いたしました…!」


続々と着飾った人々が、晩餐室(金鶏の間)へと入っていく。本来であれば控室を経由するのが常だが、今回は尾崎が伴っている身だ。「緋色の剣士」の登場は、最後まで引っ張る方が、プロパガンダとしての効果は高い。


朱音は、ドレス(ローブ・デコルテ)の裾を広げ、優雅にカーテシーにて一礼した。緋色が、暖炉の火を反射して、鮮烈に映える。尾崎もまた、着慣れぬ燕尾服に身を包み、帽子を左手に持ち、右手を胸に当てて一礼する。その動作は、藤原公に叩き込まれた努力の跡が見えたが、朱音の完璧さには遠く及ばなかった。


「ご招待いただき誠にありがとうございます。藤原朱音でございます。そして此方は…」


朱音は、左手で尾崎を軽く押し出し、公然と告げる。


「わたくしの婚約者、尾崎誠一でございます」


「藤原朱音様との婚約になりました尾崎誠一と申します。本日はこのような光栄な場にて、皆様と席を同じくできますこと、誠にありがたく存じます」


尾崎の言葉は、完璧な定型文だった。


楽団が演奏を止め、室内は一瞬静まり返り、そしてワッと人々が声を上げた。


「あの方が朱音様!噂通りなのね、あの緋色!」

「尾崎…誰だ?藤原殿の婚約者だと!」


反応は様々だ。興奮、嫉妬、そして朱音の高貴な血統に、尾崎という俗な血が結びつくことへの疑念。


「やはりこうなるか」


朱音は、ため息を吐き、周囲を見回す。彼女の瞳は、社交の場に留まっていなかった。


「閣下は帝国ホテルで、渋沢殿は近くの富士見亭だったか」

「渋沢殿は後で来るみたいですよ、朱音様」

「そうか。では、挨拶回りだ…尾崎、落ち着いてきた様だな」

「はい。では参りましょう、お嬢様」


朱音の周りには、宮中の関係者、華族、軍人、外交官、そして報道関係者が、既に群がり始めていた。給仕が配膳する料理の湯気が、ざわめきの中に漂う。


朱音は、主だった人物や華族、外交関連者、そして何よりプロパガンダの媒介者である報道関係者に、淀みなく挨拶し、尾崎を紹介していく。皆、興奮気味に対応してくる。


特に報道関係者は必死だ。


「藤原様、後で一枚ご写真を是非、お願いいたします!」


朱音は、任務と個人的感情に葛藤するが、ここで拒否することは「緋色の剣士」という偶像の役割を否定することになる。


「ありがたく。お受けいたします」

「ありがとうございます、藤原様!」


報道関係者の顔が、興奮で赤く高揚する。(どうせここまで世俗に広まっているのだ、仕方がない)朱音は、諦念と共にそれを受け入れた。


席に着き、フランス料理のフルコースが供される。食前酒はシャンパン、前菜はキャヴィアのカナッペ。豪華な料理が次々と並ぶが、朱音の食は太くはない。


「流石に多すぎるな尾崎、食え」

朱音は、フォークに刺したローストビーフを、尾崎の口元に近づけた。


「行儀悪くありません?普通この様な場所ではしませんよ」

「婚約を発表したばかりなのだぞ。親密さを見せるべきだ」

「確かにそう…ですね。いただきます」


尾崎は照れくさそうに口を開けた。それを見た女性方から、ワッと黄色い声が上がった。二人の「親密な俗事」は、狙い通り人々の関心を強く引いた。


コース料理を粗方食べ終わり、紅茶を啜りながら、朱音は尾崎に確認する。


「確かめておくが、次はダンスだ。踊れるだろうな」

「踊れます。藤原公にみっちり叩き込まれましたから」

「良し。ならば行くぞ。緋色とお前を、再び見せつけるぞ」


楽団の曲が優雅なワルツに切り替わる。尾崎は朱音の手を取り、舞踏室のダンスの輪に加わった。朱音の緋色のドレスが、尾崎の燕尾服と共に軽やかにステップを踏む。周囲の目は、再び二人に集中した。


「やっぱり恥ずかしいですよ、朱音様」

「慣れるのだな。これからは幾らでもこの様な場はあるぞ」


朱音は、囁きながら、鋭く続けた。


「それよりも、気づいているだろう」

「はい。いますね、報道陣の中に一人」


その男は、他の客や記者とは異質な、凶行に走る者特有の血走った眼で、朱音に狙いを定めていた。


「狙いは私の様だ。私は次のダンスパートナーと代わる。注目が私に集中した時に、狙え」

「分かりました。晩餐会の場を冷やさないよう、片付けます」


ダンスが一区切りついた瞬間、朱音は優雅に宮中の老臣を次のダンスパートナーとして誘うよう促し、ダンスを再開した。


「賊が紛れております。こちらで対処いたしますので、そのように」

「分かりました」


朱音から離れた尾崎は、静かに男を観察しながら、報道陣の後ろへと回り込む。


(胸元が僅かに膨らんでいた。デリンジャーの様な小型の拳銃だな)


そして、皆の視線が緋色の偶像に集中したその時、男が胸元から拳銃を取り出す刹那、男の背後に密着した尾崎は、男の顎を曲拳きょくけんにて正確に打ち抜いた。

男は意識を失い、膝を崩し…はしなかった。尾崎が素早く支え、近くにいた警備の者に穏やかな表情で言う。


「この方は身体の具合が悪い様です。後はお願い致します」


と男を引き渡し、更に小声で囁いた。


「賊だ。慎重に取り調べろ」


警備の者は、尾崎の纏う機関員の空気に、無言で頷いた。

ダンスも終わり、主賓、主催者が退場する。

残っているのは、朱音たちと、しつこい報道関係者たち、そして警備の者のみ。記者たちは、朱音に問答と写真を強請する。


「分かったと言っておる。順番だ。だが、任務に関わることは機密である。聞くのではないぞ」

「東京日日新聞です。では、尾崎殿のことは…」

「無論、機密である。我の特務官としての任務が終わる頃にならば答えられよう。書くのではないぞ。破った者にはそれなりだ」


富士見亭より走り込んできたのだろう、息の荒い若い記者が言う。


「時事新報です。ではご写真をお願い致します」

「良かろう。好きに撮るがよい」


一通り取材も終わり、ようやく二人は退場する。時刻は二十二時をとうに過ぎていた。

ガス灯の暖かな火が、暗闇の中、ありがたい。二人は帰りの馬車に乗り込んだ。


「尾崎、いつもより今日は疲れたよ」

朱音は、偶像の重さから解放されたように、そっと頭を尾崎の肩に預けた。


「そうですね」

尾崎は朱音の髪を撫でた。


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