月下のメリーゴーランド
月下のメリーゴーランド
「今日も遅くなるの?」 由美の声は、夕食の食卓に広がる冷たい空気に吸い込まれていくようだった。健太はスマートフォンから目を離さず、疲れた顔を由美に見せまいとうつむいたまま「ああ、新しいプロジェクトでな」とだけ答えた。その言葉は、由美との間に引かれた見えない壁のようだった。二人の間に積み重なったのは、言葉ではなく、ただ重たい沈黙ばかりだった。由美が寂しさを募らせていることに、健太は気づいていながら、どう言葉をかければいいのか分からなかった。
最近、夫婦の間に流れる空気は冷たい。由美は、健太が仕事ばかりで家族を顧みなくなったと感じていた。夫のスマホを覗きたい衝動に駆られる。それは、夫の行動を監視したいというよりも、夫の心を知りたいという切実な願いだった。しかし、それは夫婦の信頼を壊す行為だと理性で抑え込んでいた。だが、ある日、友人の言葉をきっかけに、由美の心にひとつの考えが浮かんだ。それは、孤独と不安に耐えきれなくなった彼女の、最後の手段だった。
その夜、健太が風呂に入っている隙に、由美は彼のスマホにアプリをインストールした。インストール中、指先が微かに震える。罪悪感と、拭いきれない不安が胸を締め付けた。由美は一度、手を止めた。しかし、迷いはすぐに消え、インストールを続けた。「子供の見守り」という名目だが、由美の目的はただ一つ。夫の行動を監視することだった。壊れかけた信頼を、自ら確かめようとしていた。
アプリの地図には、健太のアイコンが会社の近くから動かない。やはり残業か。由美は安堵する。だが、週末の夜、子供が寝静まった後、健太のアイコンが突然動き始めた。会社とは真逆の方向へ。由美の心臓がどくどくと音を立てる。アイコンは市の郊外にある、廃墟となった遊園地で停止した。
「嘘……」
そこは、健太が由美にプロポーズした、二人の大切な思い出の場所だった。湿った土と錆びた鉄の匂いが鼻をつく。ペンキは剥げ落ち、木馬は錆びついている。かつての輝きは見る影もなく、二人の関係のようだ、と由美は思った。由美の疑念は怒りへと変わる。まさか、思い出の場所で浮気相手と密会しているのか。夫婦の愛は、あの日の夢とともに、もう朽ち果ててしまったのだろうか。
次の週末、健太が同じ場所へ向かったのを確認した由美は、意を決して一人、その遊園地へと車を走らせた。怒りに任せて駆け寄った彼女の目に飛び込んできたのは、荒れ果てたメリーゴーランドの前に立つ健太と、その隣で静かに微笑む見慣れない女性の姿。由美の胸に激しい痛みが走り、握りしめた拳が震えた。
「健太!」
由美の叫び声は、夜の静寂を切り裂いた。二人は驚いて振り返った。女性は、由美が抱いた怒りとは裏腹に、まるで壊れかけた宝物を守るかのように優しい笑顔を浮かべていた。
「もしや、奥様?私、元園長の加奈子と申します」
由美が混乱していると、健太が説明を始めた。彼は、由美が寂しがっていることに気づいていた。そして、二人にとって大切なこの場所が廃墟になっていることを知り、妻を喜ばせようと密かに修理していたのだという。言葉では伝えきれない深い愛情を、この行動で表現しようとしていたのだ。ペンキを塗り直すたびに、楽しかった日々を思い出し、由美の笑顔を想像していた。
「記念日に、もう一度由美とここでデートしたくて。俺、言葉にするのが苦手だから……」
健太は言葉を詰まらせた。その沈黙が、由美の心を締め付けていたすべての疑念を溶かしていく。由美の心に安堵と感動が広がった。自分の疑念が恥ずかしく、そして夫の深い優しさに胸が熱くなった。夫の隣にいた女性は、ボランティアで手伝ってくれていた元園長だったのだ。健太は言葉で愛を語る代わりに、行動で二人の絆を再構築しようとしていた。
後日、健太と由美は子供を連れて、生まれ変わったメリーゴーランドを訪れた。塗り直されたペンキは鮮やかに輝き、カラフルな電飾が夜空に煌めいている。優しい機械の音とともに、メリーゴーランドはゆっくりと回り始めた。きらきらと光るメリーゴーランドを前に、子供は目を輝かせた。
「パパとママ、ここで結婚したの?」
子供の無邪気な質問に、二人は顔を見合わせ、笑い合った。
「そうよ。そして、これから、また新しい思い出を作っていくの」
由美の言葉に、健太は静かに微笑んだ。それは、アプリの画面上には決して映らない、二人の心が通い合った瞬間だった。
そしてこの日、由美は初めて知った。夫婦の信頼とは、言葉やアプリの画面に映るものではなく、互いを思いやる心と、その心を示す行動によって築かれるものなのだと。
二人の愛のメリーゴーランドは、再び回り始めたのだ。その優しい光は、これからもずっと、二人の未来を照らし続けるだろう。この物語が問いかけるのは、夫婦の信頼をどこまで信じることができるか、そしてあなたなら、どんな形で愛を伝えますか、ということだ。