29:全てはとうの昔に終わった話
「ええ、戻れますよ」
「はい?」
出迎えの言葉は予想外のもので、ヒダキは思わず聞き返した。
時は十数分前に遡る────。
────ヒダキとスコーピオンを乗せた車が富士山麓に隠蔽された拠点に着いたのは、午後五時を回っていた。
木々に囲まれ、鬱蒼とした雰囲気の中に立つ一軒のコテージ。それが拠点であると聞かされた時、二人は半信半疑であった。
外観はただのコテージで、夏くらいに別荘として利用されていそうである。ただ、周囲の雰囲気は避暑地という様子でなく、陰鬱とした空気が漂っていた。お化け屋敷、という印象がどうにも拭えない。
「中へ行きましョう」
キムの先導に従って玄関に上がる。
誰かが待っているなんてことはなく、そのままリビングらしきところに通された二人は、ソファに座って戸惑っていた。
「なあ、これ担がれてねぇか?」
「さすがにこんな大規模な嘘を吐かないでしょう、多分……」
居心地悪そうにする二人。
それも当然だろう。コテージに入ってから、おかしなものは何一つ見ていない。何一つだ。場所を隠蔽するための結界や、魔力を拡散させる方陣も、敷地周辺の監視カメラも見ていない。
隠れ潜むにはいくらも向いていない本当に普通のコテージであるのだ。
このリビングもそうである。ソファにカーペットに本棚にテーブルに。
シックに統一された調度品は落ち着いた空気感を醸し出す。潜伏生活の焦燥とは真逆のものだ。
差し出された水に手をつけられずにいると、スコーピオンはこれから本格的な治療を行うとして呼び出された。
取り残されるヒダキに、キムから声がかけられた。
「ティアドロップ様がお待ちです」
第二の魔法少女。その名前をここで聞くとは。
驚きながらも好奇心に釣られ、ヒダキはキムの後に続く。ここに至っては、着いて行かない選択の方があり得ない。
全てを詳らかにしてくれようと気合いの入ったヒダキは、二階の南側の一室、最も大きな部屋へと導かれた。
「中へどうぞ。私はここまでですので」
廊下で留まるキムに見送られ、ヒダキはその部屋へと踏み入る。
奥行きのある明るい部屋だ。
まず目立つのは大きな窓。外にある森で視界が閉ざされている。採光は天窓に頼っているようで、上から光が降り注ぐ。
部屋の中央には巨大なベッドが置かれていた。介護用の、柵の付いたものだ。
恐る恐る近づくヒダキに、そのベッドから放たれた言葉が、最初のものとなる。
時が追い付いた。
戻れると言ったのはベッドに横たわる少女だ。魔法少女ティアドロップその人である。
棺桶に収まるように、タオルでくるまれてベッドに安置された彼女は、ヒダキを一目見てそう言った。
聞き返したヒダキに、彼女は繰り返し告げる。
「戻れますと言いました」
「戻るとは、何にですか……?」
首を傾げるヒダキ。数瞬置いて、ティアドロップの言葉が指すものに思い当たった彼女は、目を大きく見開いた。
「まさか……」
ティアドロップは薄く笑い、ヒダキの驚きを肯定する。
「あなたを元の身体に戻せますよ」
妖しく笑う少女に、ヒダキは動揺の視線を向けた。
ティアドロップに促されて、ヒダキはベッド脇のサイドチェアに腰掛ける。話が長くなるだろうと彼女は言うのだ。
(ん……?)
窓際に生けられた花やアロマに誤魔化されているが、近くに寄ったヒダキの嗅覚に訴えかけるものがあった。
それはあまり嗅ぎ慣れない匂いで。
("死臭"か)
しかし、眼前の少女であれば相応しい。
ティアドロップは死にかけだ。
半死半生、いや七割ほど死んでいる。
脇に座ったことで、ヒダキにもそれが理解できた。
まず、身体の欠損が目立つ。
左半身はなく、巻かれたタオルがそこだけへこんでいる。中身がないと如実に示していた。
ピクリとも動かない右半身を見るに、そちらは繋がっているだけであろう。力なく投げ出されているところから、不随であることが伺えた。
それから、幾本もの点滴とベッドに備え付けられた機器が無理やり永らえさせていることを示し、肌のカサつきや目元の皺が魔法少女であっても逃れられない死期を悟らせる。
元気な魔法少女ならば、肌が荒れるようなことはない。彼女たちは皆健全な状態を維持するように魔法を働かせているからだ。それは無意識に行われ、自発的に解除することは叶わない。
つまり、ティアドロップはそんな根幹部から魔法を運用することが出来なくなってきているのだ。
ヒダキの視線に何かを感じたのだろう。
ティアドロップはムスッとした表情をする。
「……私はいいんですよ。それよりもあなたのことです」
そう、ヒダキのことだ。
彼女が言うには元の身体に戻せる、と。
「ただ、問題が一つだけありまして……」
「問題、ですか」
戻すだけならすぐにでも出来る。ティアドロップはそう言い切りながら、しかし問題があるとした。
報酬を求めて渋っているのか。ヒダキはそう受け取ったが、どうにもそうではないらしい。
「だってわたしはもう長くないですし」
そう言われてしまえば、今度はヒダキが苦い顔をせざるを得ない。
本人にも自覚があるのか、ずるい真似をしたとティアドロップは笑って誤魔化す。
それに乗って、ヒダキも問題点について問うことで話の流れを戻した。
「ルイーネですよ、ルイーネ」
まさかあの女が何もしてこないとは思ってないでしょう?
ティアドロップは心底嫌そうに吐き捨てた。
ハイペリオンの回収をタイフーンに命じていた辺り、ヒダキ自身に対して何かしらの用があるのは察することが出来た。
それを思えば、元の身体に戻ったとてそのまま安全に暮らしていけるわけがないのは、至極当然の話だろう。
「あの女はあなたの身体が欲しくて欲しくて堪らないですからね。わたしに邪魔されて今頃吠え面かいてることでしょう」
喉をひきつらせてティアドロップが笑う。
おかしくてしょうがない。そんな様子だ。
「あの……。どうして狙われているのでしょうか」
そこでヒダキが当然の疑問を口にした。
狙われている理由、それが分かれば対処のしようがあるかもしれない。そんな一縷の望みに賭けてのことだ。
あるいは納得が欲しかったのかもしれない。
自身が狙われている理由を知ることで、事態への理解を深めて心の安定を保とうとする。そんな一面もあったのだろう。
「さて……。それを話すにはまず、あなたがどれだけ理解しているかを確かめる必要があるでしょうね」
「理解? 何についてのですか?」
「このセカイについてですよ」
そこで一度区切ると、ティアドロップは思案する素振りを見せた。
「あなた、ワカバをどう思う?」
「ワカバは良い子ですけど……」
「そうですね。ですが聞きたいのはそこではありません」
──あの子の髪色、他の人と違うでしょう。
ヒダキはその一言で、ワカバの髪がブロンドであることを思い出す。あまり気にしていなかったが、珍しい色だ。
まさかそれで差別していると思われたのかと心外そうな面持ちになった彼女に、ティアドロップはそうではないと言う。それは普通でないのだと。
理解が追いつかない様子のヒダキを見て、ティアドロップは話の切り口を変える。
「では魔物、あれはなんという名前がつけられていましたか?」
「『アンクライファー』、だったと思いますが」
ティアドロップはさらに問う。それは誰が名付けたか知っているのかと。
ヒダキはルイーネではないかと答えるが、それは不正解だった。ルイーネではなく別人の名付けだと言う。
ではそれは誰か。
ヒダキが聞けば、あっさりとした答えが返ってきた。ベルツ博士であると。
「まあ、彼はこの話で重要ではありません。重要なのは名付けに用いられた言葉の方。あなたはこれの仲間を普段の生活で聞いていますか?」
「……えっと」
戸惑うヒダキ。思い返せば、あまり聞き馴染みはないように思える。
「あなたの魔法少女として付けられた名前。ハイペリオンがどこのものかは知っていますね?」
「ええ。ギリシャ神話に出てくる太陽神だと」
「それはどこですか? ギリシャとはどんなところですか?」
「…………」
ヒダキには答えられなかった。
「先ほどの『アンクライファー』は、ドイツの言葉です。ドイツとは? どこにあって、どのような文化を持っているのですか?」
これもまた答えられなかった。知っているはずなのにその知識が抜け落ちている。
ヒダキは何か足元が揺らぐような気配を感じていた。不安定な、水に浮かぶ木の上に立っているようなぐらつき。
数秒後には全てがひっくり返ってしまう予感に、背筋が粟立つ。
「金髪の少女をワカバ以外に見たことがありますか?」
見たことはなかった。
「……しかし、スコーピオンは赤毛です! 彼女も珍しい髪色ですよ!」
何を焦っているのか分からぬままに、ヒダキは似た例をひねり出そうとした。
ティアドロップはそれに対してこう返した。では、その彼女の他に同じ髪の色を見たことがありますか? と。
知らないことがこれほどまでに恐ろしいとは考えたこともなかった。
ヒダキは手が白くなるくらい強く握り締める。
「良いですか?」
幼子に言い含めるように、優しくティアドロップが言葉を紡ぐ。
「我々は既に敗北した後です」




