2:魔法少女への変身
その叫び声を聞いた瞬間、幸次郎の身体は自然と動き出していた。
彼自身理解できていなかったが、突き動かされるように走り出す。何かに追い立てられるように、急いで。持っていた惣菜をその場に放り捨てて。
階段を飛ぶように降り、幸次郎は悲鳴の方へと駆けた。アスファルトの固さが足を痛めつけるが、彼は止まることなく音の方へと向かう。
知らぬふりなど出来なかった。
革靴の走りにくさに苛立ちを覚える。
「くそっ……!」
身体の重さがショックだった。何だかんだまだ自分が若いものと思っていた幸次郎としては、現実に胸を刺される思いだ。
上がった息と悲しみに喘ぎながら、それでも懸命に足を動かした。
再び聞こえてきた悲鳴は、先程よりも近くになっていた。ただ、途中で止まってしまったことが幸次郎の不安を煽る。
へばる足腰に喝を入れ、彼は路地を急いだ。
夜間の閑静な住宅街で叫んでいるのに、住人は誰も反応していない。
死んだような町を駆けながら、幸次郎はそんなことが気になっていた。
そしてその答えは出ないが、予想は出来る。
魔法少女。
不可思議な力を扱う彼女たちが居るのだ。
であればおかしなことの一つや二つ、起こったとしても疑問はない。
(ああきっと、そうだろうさ)
幸次郎には確信があった。
これは魔法少女が関わっている。彼はそう信じていた。理由など無い。
ただの直感だ。
だがその直感のおかげで、彼は倒れる少女を見ても取り乱さずに済んだのだった。
路地を曲がったところで、電信柱にもたれるように一人の少女が座り込んでいた。項垂れる彼女に意識はなく、力なく投げ出された手は血だまりに浸かっている。
「おい! 大丈夫か!」
幸次郎は慌てて駆け寄った。
少女の額からは出血が酷い。さらにはドレスの上からでも分かるほどに痛め付けられていた。
そう、ドレスだ。
この少女は住宅街に似つかわしくない派手なドレスを身に纏っている。フリルのついた可愛らしいものだ。
魔法少女である。
頑強なはずの少女は傍目にもひどく弱っていた。
今にも死んでしまうのではないか。幸次郎は歯噛みする。
警察と救急を。
携帯を取り出したところで、彼の動きがピタリと止まった。
──カツン。カツン。
暗がりの向こうから何かが響いてきた。
それは足音だ。
ヒールがアスファルトを打ち、声高に主張している。何を? 主の存在をだ。
居るはずのないものや有るはずのないものを見たり聞いたりした時、採るべき手段は一つである。
逃走だ。
留まり、対抗しようなどと考えてはいけない。
ひたすらに逃げの一手を打つべきで、しかし幸次郎はそれを理解しながらもその場を離れられなかった。
理由は簡単で、倒れた魔法少女を見捨てられなかったのだ。
タイミングを見るに、足音の主と魔法少女は何かしらの関わりがあると見るべきで、当然その関わりと言えば敵対関係を考えるべきだろう。まさかこの状況で仲良しの何かがやって来たと思えない。
そして、魔法少女が勝てない相手に幸次郎では太刀打ち出来ない。軍がさじを投げるような化け物相手に、一市民が何がしかを出来るはずがないのだ。
そんなことは全て理解した上で、それでも幸次郎一人で逃げることを良しと出来なかった。
足音が少しずつ大きくなっていく。
魔法少女の脇にしゃがみこんでいた幸次郎は、足音の方を見据えたままゆっくりと立ち上がった。
(何が出来る?)
何も出来ないことを彼自身よく理解している。しかし、だからと言って諦めることはしたくなかった。
そして一つの決断をする。
彼は少女を背に庇うように進み出た。
選びとったというわずかな充足感を胸に、幸次郎は死地と分かってそこへ飛び込む。
その時、歩み出た彼の爪先が何かを蹴った。
視線を足元に向ければ、そこにあったのはコンパクトだ。
どうしてだろうか。拾い上げなければいけないという思いが、幸次郎の胸の内で突然湧き起こった。
強迫観念にも似たそれに突き動かされ、怪しげな足音が迫るもののコンパクトを拾い上げる。
──カツン。
顔を上げればすぐそばに足音の主が居ることだろう。
屈んだ幸次郎の視界に歪んだヒールが入る。血のように紅いそれは、牙が生えたように歪だ。とてもじゃないが、まともな手合いとは思えなかった。
一瞬の静寂。幸次郎は視線を下げたままであり、ヒールの主はその場に立ち止まる。
この時幸次郎は、逃れようのない死の未来を予見していた。
当然だろう。血まみれの少女とそれをやった奴、その前に立って頭を下げた隙だらけの姿。
例えるなら猛獣の檻に冗談半分で立ち入ったような、死んでも仕方ない状況が生まれていた。
コンパクトを強く握りしめて幸次郎は怒った。ただただ怒った。死にたくないと嘆くことも助けてくれと叫ぶこともなく、彼はひどく怒り狂っていた。
それがおかしなことだという自覚はある。怒っている場合ではない。だがそれでも、彼は許せなかった。魔法少女に負担を押し付ける有り様を、それによって守られていたこれまでの己れ自身を。
「邪魔だ」
嗄れ声が聞こえた瞬間、幸次郎は天地が逆さまになったと思った。凄まじい衝撃に頭を揺さぶられ、視界は明滅している。
気づけば蹴り飛ばされ、塀に叩きつけられていた。ブロック塀が崩れて幸次郎が道路に投げ出される。
ドチャリ、と力なく路面に落ちた。
まるで感覚がない。もはや痛いという段階を越えて何も分からなかった。
彼の左半身はトラックに引き潰されたようにグチャグチャで、溢れる出血がそう遠くないうちに幸次郎の命を吐き出しきってしまうだろう。いやむしろ、まだ息があることの方が驚くべきだ。
それほどに見るも無惨な姿に変えられていた。
──カツン。
薄れ行く意識の中で、幸次郎はヒールの音を聞いた。
倒れた魔法少女ではどうにも出来まい。抗おうにも意識が失われていたのだから。
それはつまり、幸次郎も死に少女も死ぬ最悪の結末を示していた。
(くそったれ……)
何も出来ていないことへの怒り。
身体が死に行くことへの恐れ。
少女を守れなかった悲しみ。
それらが混ざり合い、幸次郎の胸の中でぐつぐつと煮え滾っている。それはまるで溶けた鉄のようで、しかし血とともに流れ出して力を失っていく。
もう長くはない。
全てこれで終わり──。のはずであった。
幸次郎は叩き潰されてなお、コンパクトを手にしたままであった。
強く握り締めていたことが原因であろうか。
はたまた、何か別の要因か。それは構わない。
問題なのは、死の危機に瀕して魔法少女の変身端末であるコンパクトを所持していたことだ。
コンパクトの機能は大きく分けて二つ。
魔法少女を維持する機能と、魔法少女を生み出す機能である。
それらが、暴走した。
「──夜を焼こう」
「魔法少女、変身」
この日、桧田木幸次郎という男は死んだ。