19:爪痕は大きく
関東平野の一部が湿地帯と化した。
ナメクジのもたらした大雨は大地を撹拌し、巨大なる湖へと作り変えたのだ。だが、供給がなければ水は減るもので、あとに残ったのは泥と瓦礫ばかりである。
「まぁた、このニュースかよ。軍も魔法少女も頑張ったんだけどなぁ……」
養育院の自室でニュースサイトを眺めながら、ヒダキは一人ため息を吐く。
前代未聞の魔物災害は大きな爪痕を残した。
あれから四日。
未だ行方知れずの被災者も多い。
ナメクジを撃滅した後、ヒダキは軍によって回収された。乗ってきたヘリだ。
同乗していた彼らは回収部隊である。肉片のサンプルと残留した魔力を収集し、解析に回すのが役割だった。
ヒダキの回収はそのついでである。
ぐずぐずに煮崩れしたようなナメクジの残骸から引っ張り出されたヒダキは、それはもうひどい有り様だった。
左腕だけでなく鎖骨や肋骨も折れており、全身の打撲に加えて、ナメクジの体液が腐食性を持っていたために火傷まで負っていた。もうボロボロである。
魔力の枯渇と大魔法使用の反動で立つことすらままならないヒダキは、そのままヘリで北関東支部までとんぼ返りする羽目に。
早々に二度目の切り札を使ったことで、ミサキ医官にこっぴどく叱られることになった。
ヒダキが養育院に帰ってこられたのはつい昨日の話になる。それまで病室に軟禁されていた。
今も火傷や骨折は治りきっていないが、魔法少女の身体は頑丈である。治癒の速度は常人と比べ物にならず、軽い運動程度ならもう可能であった。
ヒダキはクッションにもたれて、ことの顛末を調べる。帰ってきたばかりの昨日もネットニュースは漁ったが、さらに一日経過したことで、いくつか分かってきたこともある。
ナメクジは、大災級という区分にカテゴライズされることになった。これが初の分類だ。
大規模かつ壊滅的な損害を広域で発生させる魔物が指定されると言う。ほんの数時間で数十万人を路頭に迷わせたのだから、それも納得だった。
あのまま侵攻を続けられていたら、どれほどの被害になったことか。
今の倍は被害が拡大していたに違いない。
ナメクジへの対処が遅れたとして、魔法少女保護局は世論に叩かれている。
ヒダキとしてはそう思わないが、もっと早く事態を収拾できたと考えられているようなのだ。
ネットニュースのコメント欄は保護局叩きで荒れていた。
そのようになっているのは、ヒダキが突撃して朝を迎える前に事態が終息したことにある。大災級の魔物の脅威を、人々は正しく認識できていないのだ。
多くの人は、避難民でさえも、全てが終わってから知ることとなった。実感が湧かず、戸惑うばかりなのだ。
そこに保護局から悪い知らせが大量にもたらされれば、その責任は知らせをもたらした者に行く。
政治家が保護局への統制を強めようとしているとか。まだ飛ばし記事の類いになるが、国会へ法案提出の動きがあるそうだ。
(あとで真山の様子を見に行くか)
何か甘いものでも差し入れてやろう。
彼女が無理させたことも一因ではある。仕方ないことだし最良の結果に結び付いたと自負しているが、それはそれ。
さすがのヒダキも同情していた。
気の滅入る話ばかりだ。
ヒダキはネットニュースサイトの巡回を止めて、スマホを放り出した。クッションに深く身体を預け、力を抜いて目を閉じる。
脳裏に浮かんだのは病室でのやり取りだ。
『ヒダキ、マイを知らない?』
見舞いに来たはずのヒカリがまず口にしたのは、その場に居ないマイのことだった。
彼女がヒカリよりも先に訪れていたりすることはなく、ヒダキは連絡をとったりもしていない。マイの方は連絡先を教わっていないのだから、それも当然だろう。
それを伝えれば、ヒカリは申し訳なさそうな顔をした。しおらしい様子で彼女は言葉を紡ぐ。
『ごめんね。お礼を先に言うべきなのに。助けてくれてありがとうって。……でもその、マイが行方不明なの』
ヒダキは大きく目を見開いた。驚きの声も出た。
まさか間に合わなかったのか。そんな思いが胸に去来する。
ヒカリが見舞いに来た時のヒダキは包帯でぐるぐる巻きにされていて、その顔色は伺い知ることが出来ないのだが、それでもはっきりと分かるくらいに血相が変わった。
『違うの、あんたが来てくれた時には一緒に居たの。あの光を見て、バスで山の向こうに避難して。その後から姿が見えなくて』
ヒカリの目元が擦ったように赤い。今は落ち着いているようだが、居なくなったことに気が付いた時は大変だったのだろう。
しかし、聞くにおかしな話だ。
どこかではぐれたにしても、はぐれるようなタイミングがあるか。
『もしかしたらここに来ているかと思ったんだけど……』
ヒダキはそれを聞いて、ふと思った。
何故ヒカリはそう考えたのか。マイが見に来るような理由があるのか、と。
それを問うてみれば、ヒカリは少し考えてから言った。
『だってあいつ、あんたのこと気にしてたんだもん』
ヒカリが言うには、マイはヒダキをとても高く評価していたらしい。
評価していた、と言うのは何だか偉そうだとヒカリが感じたためである。
あれはすごい、私には分かる、もっと伸びる、でも課題はある。マイは繰り返し語っていたそうだ。
──なんだか、すごく見下されていたようですね。
ヒダキがそう言うと、ヒカリは申し訳なさそうに顔を歪めた。彼女は痛みを堪えるような声色で謝罪を口にした。
ボロボロになって助けてくれた恩人にするような話でないことは分かっている。
しかし、もうここくらいしか思い当たる場所がなかったのだ。
沈痛な面持ちのヒカリを慰めつつ、ヒダキは思考を巡らせる。
話の途中で感じたことがあった。それはまるでマイが自分の意思で行方をくらませたのではないか、ということだ。
避難の最中はバスに乗っていたと聞いた。であれば、降りたタイミングでなければ居なくなることは出来ない。自発的な失踪。それがヒダキの結論だ。
オブラートに包むのを四苦八苦しながら考えたことを伝えると、ヒカリは目尻に涙を浮かべた。
『やっぱ、……そう思う?』
悲しみに喉をひきつらせながら、彼女は言った。
それからここ最近の、マイの様子を語り始める。彼女はヒダキと一緒だった日立の警戒任務の後からおかしくなっていたのだと言う。
『なんだかずっと顔が険しくて、泣きそうだったんだよあいつ。泣くのを我慢しているみたいな。こっちを睨むみたいに見たかと思えば、捨てられた子犬みたいになったりして。話を聞こうとしても突っぱねるし』
はあ、とヒカリが大きく息を吐いた。
がしがしと荒く手櫛で髪を梳かすが、逆効果だ。傷んだ茶髪はさらに乱れ、ボサボサの頭が綺麗に整うことはない。何度か手櫛を入れて、しかし効果のない様子に彼女は舌打ちして、さらなる近況を話す。
『避難所に居た時もひどい顔だった。雰囲気も一段と暗くて、目は据わってたし。あの時はこんなことになったせいかと思ってたけど違ったのかも。バス乗って避難する話をしたら震えてたから、マイでも怖いことあるんだなと思ってたんだけど』
なんにも分かってなかったんだ、あたし。
俯いてヒカリが呟いた。
ヒダキはそれを黙って聞くことしか出来ない。慰める言葉はもう持ち合わせていなかった。
しばらくの沈黙の後、ヒカリが椅子から立ち上がった。
見舞いに来たはずなのに重い話ばかりしてごめんと謝り、助けに来てくれてありがとうと感謝を述べると、彼女は医務室から出て行った。
ヒダキは見送ったその背中を思い出し、口の中に苦いものが広がるのを感じた。鉄錆とはまた違う味だ。
あの時、見舞いに来たヒカリの話を聞いて、己れがひどく思い上がっていたことを自覚した。
助けられると信じていたし、どうにか出来るものと決めつけていた。
実際、どうにかは出来た。事態は終結し、今は復興のフェーズだ。
だが、どうにもならないことと直面したことで、己れに出来ることはひどく狭い範囲のことであると実感したのだ。
ヒダキには壊すことしか出来ない。
人を探すことも、家を直すことも、怪我を治すことも、大人数の食事を用意することも出来ない。
全てが終わった後では、用無しだ。
「──だからこそ、出来ることはやり遂げるんだ」
それだけは、と心に決めて。
◆
ヒダキからは見えていないことが一つある。
それは医務室を出る時のヒカリのこと。
彼女はあの時背中を向けて。
にぃ、と唇を弧に歪めて笑っていたのだ。