アイガネさんと僕
川で鯉を見たことがあるだろうか。僕の家の近くの川にはオレンジや白や、なんだかまだら模様のやつが泳いでいる。たまに金色っぽいやつを見かけた時は今日は運がいい日と決め付けて学校帰りに当たり付きのアイスを買うのが僕の決まりだ。今日のように。
通学路から少し外れたところにある行きつけのコンビニ。僕はいつも買っているソーダ味のアイスを手に店員のお兄さんの下へ。なけなしのお小遣いから128円もの大金を渡すと早速店先でアイスを食べ始める。かじりつくと少し歯にしみる。虫歯ではないと信じているので大丈夫。お、そろそろ棒の先が見えるところだ。袋に書いてある通りならここに星のマークと当たりの文字が入っているのが当たりらしい。つまるところ僕はこのアイス、当たったことが無い。
アイスの外れ棒を手に僕は秘密の場所へ向かう。うちの親は厳しくてアイスの買い食いがばれようものなら烈火のごとく怒り出すだろう。烈火のごとくというのは国語の授業に出て来たかっこいい言葉だ。使えたので少し満足した。それでこの外れ棒を持ったまま家に帰ると非常に危険なのだ。何かの拍子に捨てるところを見られでもしたら、もしくはゴミ箱に捨ててあるこれに気付かれでもしたら……、どうなるかは想像したくもない。
この棒を持ち帰るなんて恐ろしいことはできない。しかし僕の行きつけのコンビニにはペットボトルと缶のごみ箱しかない。アイスを買うのを諦めるのは嫌だ、だっておいしいからね。そこで僕は閃いた。川に捨てればいいやって。なにせこれは木の棒だ、いつか自然に還るはず、多分ね。
川沿いを歩き続け僕はある場所に目を付けた。僕の家は川の上流の方にあるのだけど、そこから更に上流へ行くとどんどん道が細くなっていく。多分人が全然いないのだろう。それでしばらくすると川が曲がるところに出るのだけど、そこに古い橋があってさらにそこからの視界を塞ぐように木が生えている。道はどうも橋の向こうに続いているみたいだからこっちに来る人はみんな橋を渡るはずだ。でもそこから川は見えない。つまりその橋の下の辺で捨てれば誰にもばれないのだ。というかこんなところに来る人がそもそもいないだろうから正に秘密の場所。それに気付いてからは金色の鯉を見つけた日にここに来るのが僕の習慣になっている。
「あ!」
僕は思わず声を上げた。誰もいないはずのその場所に先客がいたからだ。地面に座って川の方を見つめている女の子は声に気付いてこっちを見た。学校で見覚えのある顔だ。
「アイガネさん、だよね」
彼女は別のクラスの人で、確かそういう名前だったはずだ。一度も同じクラスになったことが無いしうろ覚えなのは仕方ない。そして向こうは残念ながら僕のことを知らないらしい。こっちを見るその顔はまるで睨んでいるみたいで恐ろしい。
「えっと、僕ね、三組の宗田。アイガネさんのことは運動会とかで活躍してたの見たことあったから名前覚えてたんだ」
アイガネさんは足がとても速い。話では運動神経全般がすごくいいらしいけど僕が見たのはリレーで走っている姿だった。バトンを渡された時は一番後ろだったのに先頭の人の背中に手が届くぐらいにまで縮めていたのを覚えている。
「あんなの覚えてるなんて悪趣味ね」
悪趣味? どういうことだろう、褒めたつもりだったんだけど。それはともかく今アイガネさんはとても不機嫌そうに見える。よっぽど僕が運動会のことを覚えていたのが気に入らなかったんだろうか。こんな時にどんな言葉をかければいいんだろう。悩んでしまう。
「あなた、こんなところに何しに来たの?」
こちらが悩んでいるとアイガネさんの方から話しかけてくれた。せっかく名乗ったのでどうせなら名前も呼んで欲しかったけれどそれは贅沢というものだ。僕はアイガネさんの隣に座って、この時とても嫌そうな顔をされたけれど、どう答えるべきか悩む。
アイスの棒を捨てに来たんだなんて言えるわけないじゃないか。
「え、っとねえ……」
アイガネさんの視線が痛いぐらいに突き刺さる。めちゃくちゃ鋭くて怖い目付きをしていてとても怖い。早く何か答えなきゃいけないのはわかるけれどそんな簡単に出てこないんだ。
僕がアイガネさんの視線から逃れるように川を見ると、そこに目立つ色の魚がいるのが見える。あれは間違いない、鯉だ。
「僕はねっ、こ、鯉を見に来てんだっ!」
すっごく変な声が出た。アイガネさんの方を見るのが怖い。でも気になるので横目でちらっ、と見てみるとなんか気持ち悪いものでも見るみたいな感じで引いてた。
「鯉ってさ、すごく綺麗でかっこいいと思わない!? ほらあそこにいるの見えるでしょ!?」
しかし今更引き下がれないので僕はそのまま走り抜けることにした。川を泳いでいる鯉を指差してなんか適当に褒めちぎる。
「あの鯉はさ、ちょっと赤っぽいでしょ? 川の中にいるとすごく目立ってさ、赤鼻のトナカイみたいな? あいつがいるとすごく気分が上がるんだ!」
ちょっと自分でも何を言ってるかわからない。でもアイガネさんは僕の必死な様子を見てかヘタクソな褒め方について何も言わなかった。もしくはただ単に呆れてただけかも。僕もこれ以上は嘘っぽくなるばかりなので一旦話すのを止める。
無言のまま川を見つめる時間は少し気まずい。アイガネさんの方を見ると彼女は全然気にしていないのかずっと顔がその向きで固定されてるんじゃないかってぐらいに川を見ている。僕も真似して川の方を見てみるけど水が流れているばっかりで何が楽しいのか全然わからなかった。
「アイガネさんは何をしてるの?」
無言の時間に耐えられなかったのと単に気になったのとで直接そう聞いてみた。でもアイガネさんは答えるつもりがないのか顔をこっちに向けようともしない。このままだとまた気まずい時間に戻ってしまう。僕はそれに耐えられる自信がない。かといってせっかくここまで来たのにこのまま帰るのもなんだかもったいない。アイスの棒がポケットに入ったままだし。
よし決めた、僕一人で喋り続けよう。
「ここってさあんまり人がいないでしょ? 鯉を好きなだけ見てられるんだ。ほら、ここより下流だとクラスメイトとか通った時に何してんのとか言われるでしょ? 鯉見てるんだって言うのもちょっと恥ずかしいし。それで時々ここに来てたんだよね」
さっき言った鯉を見に来たという話を膨らませてみた。もしかしたら僕は作家の才能があるのかも、と思うぐらいすらすら言葉が出て来る。この調子でどんどん行こう。
「アイガネさんも鯉見に来たの? そうだったら嬉しいなあ、僕らは鯉友達、略して鯉友ってことでしょ? 今度僕の好きな錦鯉の写真を持ってきてもいいかもなあ」
もちろん錦鯉の写真なんて無いのでここでぜひとか言われたら困る。そもそも錦鯉ってどういうやつだっけ? 金色のやつ?
「……えっとお。……あ。アイガネさんは授業って何が好き? 僕は理科とか好きでさ。アルコールランプを消すのめちゃくちゃ得意なんだよ。この前の授業では三個連続で消したんだよ」
前言撤回、やっぱり僕に作家の才能は無いや。もう鯉の話が無くなっちゃった。っていうか僕、鯉について何にも知らないんじゃ。
学校の話をしてみるもアイガネさんはやっぱり何も言ってくれない。これ以上は迷惑かな、って思えてきたしそもそもずっと一人で話し続けるのもつらい。この辺で止めとく方がいいかなあ。……というかこのままだとアイスの棒が捨てられないんだけどどうしよう。うーん、悩む。
悩みながらほっぺを揉んでいるとなんだか視線を感じた気がしてちら、と横を見るとアイガネさんが前を向く姿が見えた。ということはもしかして今こっちを見てた?
僕はもうちょっと話を続けることにした。
「最近は算数の授業も難しくなってきてさ図形の問題とかややこしくない? 僕ああいうの苦手みたいでさ。去年も図形の時はよくわからないままだったんだよね」
うーん、とりあえず理科はあんまり興味無さそうだから算数の話題を振ってみたけどあんまり乗ってこないや。算数も嫌いかな。それとも勉強は全部嫌いとか? それなら仲間だ。じゃあ学校の話はやめよう。
「アイガネさんは家では何してる? 僕はね、帰ったらまず宿題なんだ。お母さんがすぐにやれって。終わるまで目の前で監視してるの。怒ると怖いし頑張って早く終わらせるんだ」
おかしいな、結局勉強の話をしてる気がする。まあこの後は家で遊ぶ話だからいいか。えっと、まずは何から。
「……厳しいんだ。お母さん」
おや。アイガネさんが話に乗ってくれた。しつこいから返事してくれたのかも。
「そうなんだよねえ。僕のお母さん厳しくてさ。あ、でも叩いたりはしないよ。ただ怖くてさ、怒る時なんか鬼の形相だよ。最近すごい人気のコトギン知ってる?」
「漫画なのは知ってる」
「そっか。えっとね、それに出て来るガイツ軍曹っていうのが似てるんだけど、もう怒ってるとそれそっくりでね。帰ったら調べてみてよ。もうすっごく怖いから」
アイガネさんは残念だけどこれには返事をしてくれなかった。本当に似てるんだけどな。
「仲は良いの?」
「え?」
アイガネさんの方から質問してくるなんて思ってもなかったので思わず大きな声が出てしまった。ちょっと、いや、すっごく失礼だったかも。
「あ、違うよ? ほら急にね、言われたからね、びっくりしただけだよ」
「何が?」
あ、気にしてなさそう。じゃあ余計なこと言うんじゃなかったな。額を掻きながらアイガネさんを見ると僕の方に視線を向けていた。その鋭い目付きに思わず僕は川の方に目を向ける。
あ、鯉だ。
なんかよくいる感じの目立たない地味な感じの鯉がいた。それを見て僕はちょっと落ち着いたのでアイガネさんの質問に答え出す。
「仲はね、お母さんとだよね? えっと、まあ悪くないと思うよ。すぐ怒るし、怒ったら怖いんだけど、でもまあ大体は楽しいかな。料理もおいしいし、時々漫画買ってくれるし」
コトギンもお母さんに頼んで買ってもらったっけ。そろそろ次の巻が出るらしいけど次も買ってもらえるかな。そんなことを考えながらちらっ、と横目で見たアイガネさんは何か考えてるみたいで足元を見ていた。じっと見ていても何も言われないからじっと見続けているとちょっとだけ思ったことがある。アイガネさんの目付きって鋭くて怖いとも思ってたけど、それだけじゃなくてかっこいいな、って。
あ、こっち見た。
「何?」
こっちに向けられるとやっぱり怖い。声もなんだかとにかく怖い。
「あ、えっとね。ほら、アイガネさんはお母さんとどうかなって。あ、お父さんともさ。ちなみに僕はお父さんとの仲も悪くないかな。出張とかであんまりいないんだけどさ、お土産買ってきてくれるし。たまに家にいるときは一緒にゲームしたりするんだ」
「そう」
思わずだだだーっ、と話したけどアイガネさんの返事はたったそれだけだった。一人で盛り上がっちゃったかな。うーん、どうしよう。そもそも忘れていたのだけど僕はここにアイスの棒を捨てに来ただけなのだ。アイガネさんが見てる前で捨てるわけにもいかないんだけどなあ。本当なら今頃は木の根元の目立たないところに捨てて帰ってたのに。
そう思っていたらアイガネさんが立ち上がった。
「あれ、帰っちゃうの?」
「私の勝手でしょ」
それはそうだ。別に僕たちここで会おうなんて約束してたわけじゃないし。そもそもまともに話すのも初めてだ。
「また学校でね」
「別に会わないでしょ」
アイガネさんはそう言い残して去って行った。心を開いたって感じが全然しなかったなあ。どうせこんなところで会ったんだからちょっとぐらい仲良くなりたかったんだけど。
「……それはそうと」
僕はポケットからアイスの棒を取り出す。ゆっくりと川のそばまで降りて行って木の根元辺りに投げ捨てた。そしてその場から川の中を見る。鯉が泳いでいるのが見える。実は本当にいっぱいいるのかな。鯉。
「……またここに来るよなあ」
次にアイスを買うのがいつになるかはわからない。明日かもしれないし、一週間後かもしれない。その時はまたここに来るつもりだ。
「アイガネさんはまたここにいるのかな」
アイガネさんがどうしてあそこにいたのかはわからない。話をしても全然答えてくれないし、僕はアイガネさんの質問にちゃんと答えたんだけどなあ。でも、ちょっとだけ思ったことがある。
「また会えるといいなあ」
アイガネさんと話をするのは楽しかった。なんだか新鮮で、僕の友達にあんな人はいないし。もっと色んな話がしてみたい。アイガネさんがどんな人なのか知りたいんだ。
そうして家に帰った僕はいつものように宿題を終わらせる。家に帰ればいつも通りでアイガネさんに出会ったからってそこは変わらない。でも僕はこの日、いつもより真剣に宿題に取り組んでいたと思う。
翌日、学校で僕は休憩時間に図書室へ行った。いつもは外で友達と遊んだりしているのだけど今日はちょっと用事があったんだ。
「図鑑、図鑑と」
僕は生き物の図鑑を探していた。僕はアイガネさんとまた話がしたいのだ。あの場所に行けば会えると決まったわけじゃないけど、もしあそこにいたなら何を話すのか考えておかないといけないんだ。特にどうしても調べておかないといけないことがあって。
「あった、川の生き物図鑑」
僕が探しているのは鯉について書いてある図鑑だ。僕はあの場所に鯉を見に来てると言ってしまったので色々と鯉について調べておかないとアイガネさんに怪しく思われてしまう。それは良くないので僕は鯉について色々と調べようと思ったのだ。
「へー、鯉って外国の魚だったんだ。雑食? あ、何でも食べるんだ。好き嫌いないなんてすごいなあ」
調べてみると鯉について僕は何も知らなかったらしい。危ない危ない、もし何も知らないことがばれてたらきっとアイガネさんはあの鋭い目で僕を睨み付けていただろう。そうなったら怖くて震えてたかもしれない。
学校が終わった。僕は例の場所に行くべきか悩みながら帰っていた。本当は鯉を見たいわけじゃないし、今日はアイスも買っていない。アイガネさんがいるかわからないから家を通り過ぎてわざわざ行くのも面倒と言えば面倒だった。
「あ!」
でも今日の所は行くことに決まった。金色のあいつが川を泳いでいるのが見えたから。
「今日も来たの?」
アイスの棒をポケットに入れた僕は例の場所に来た。そして今日もアイガネさんはそこにいた。鋭い目と嫌そうにひん曲げた口の端で僕を出迎えてくれた。
「僕はずっと前からここに来てたんだよ。帰り道に金色の鯉を見かけたらここに来るって決めてるんだから」
これは嘘じゃない。まあここに来るのが決まりじゃなくてアイスを買うのが決まりなんだけど。
「……そうなんだ。じゃあ、邪魔したかな」
「え? あ、いや、邪魔とかそうなのはないから好きにしていいよ。ほら、僕アイガネさんと話するのも楽しいし」
思わず話さなくていいことまで話しちゃった気がする。僕の言葉を聞いたアイガネさんは僕を不思議そうに見ている。
「えっと、僕、変なこと言った?」
「……私と? ……いや、何も」
「えー?」
結局アイガネさんが何を言おうとしたのかはわからなかった。僕はちょっと迷ったけどアイガネさんの隣に座る。
「……君、結構馴れ馴れしいね」
「そうかな? でもほら、近くにいた方が声が聞こえやすいよ」
アイガネさんが小さく舌打ちした。こういうのは聞こえない方が良かったかも。そんなに嫌だったかな。でも大丈夫。今日はたくさん色々な話ができるよう準備してあるからね。先生も何事も準備が大事って言ってたからね。
「アイガネさん知ってる? 鯉って冬眠するんだよ」
これは今日図書室で知った最新の知識だ。鯉について最先端を行く僕の知識にアイガネさんも興味津々なのは間違いない。驚きのあまり声も出てないみたいだと横を見るとなぜだか変な顔でこっちを見ていた。まるで、何言ってるんだこいつ、って感じに見える。
「何の話?」
「鯉だよ。ほら、今も泳いでる」
今日も空気を読んでくれたのか目の前に流れる川で鯉が泳いでいる。たぶんこの前もいたやつだ。ちょっと地味な色をしている。
「鯉はね、冬になるとね、じっとして動かなくなるんだ。だから泳いでるのが見れるのってあったかい今の時期だけなんだよ」
こんな知識を披露したのには訳がある。これは作戦だ。アイガネさんはこんなすごいことを知っている僕を知的だと思って色々と話をするようになる、というわけだ。それが僕の思い浮かべていた展開だったのだけれど、残念なことに何の言葉も返ってこない。ちらりと横目で見るとアイガネさんはじっと川の方を見つめるばかりだ。
「……えっとぉ、じゃあねえ。知ってた? 鯉ってすごく強くて汚い川でも生きていられるんだよ。他の魚が死んじゃうようなところでも生きていられるんだって」
アイガネさんはこの話にも何も言ってくれなかった。むう、もしかして鯉の話に興味無いんじゃ? 学校の話の方がいいのかも。……昨日も同じこと考えた気がするけど、まあいいか。
「アイガネさんはテストどうだった? クラス違うけどこの前テストあったよね? 僕は理科の点数がよくてお母さんにも褒められたんだよ」
「……そう」
あ、返事があった。短い一言だけだけど。うーん、一応ここには鯉を見に来てることにはなってるけどアイガネさんとお話する分には学校の話の方がよさそうだ。
「アイガネさんは理科得意? あ、でもアイガネさんは体動かす方が好きなのかな」
「どうしてそう思うの」
「僕はあんまり……、え?」
今度は尋ね返してきた。そんな風に会話できるなんて思ってなくて何も考えずにしゃべり続けるところだった。危ない危ない。
「えっとねえ、ほら、アイガネさん足早いでしょ? だから体動かす方が好きかなって」
アイガネさんは僕の言葉を聞いて少し嫌そうに顔をしかめた。あれ、運動とか嫌いなのかな。
「運動嫌いなの?」
「……嫌いじゃない」
「じゃあ好きなの?」
「……いや」
僕は思わず首を傾げる。つまり、嫌いじゃないけど好きでもないってことなのだろうか? そんなことあるかなあ? んー、いやあるかも。僕は川を、そこを泳ぐ鯉を見た。実は僕も鯉のことは別に嫌いじゃないけど特別好きなじゃない。つまりアイガネさんにとっての運動は僕にとっての鯉なんだ。……なんだか違う気がする。
そんなことを思っていたらアイガネさんが小さく呟いた。
「息が切れるまで動いてれば、考えなくてすむから」
アイガネさんの視線は全然こっちを向いてなくて、地面を向いていた。声もとても小さくて聞き取るのがやっとで、もしかしたら今の言葉は僕に向けたんじゃなくてただの独り言なのかもしれない。だから僕はそれに対して何も言わなかった。
しばらくしてアイガネさんは帰る、とだけ言ってどこかへ行ってしまった。僕もポケットに入っていたアイスの棒を捨てるとそのまま家に帰る。帰り道で考えていたことは一つだけだ。
「さっきの、どういう意味なんだろう」
それからというもの、僕は毎日放課後に例の場所へ向かった。僕はアイガネさんともっと話がしたかったのだ。いつも無愛想でたまにしか返事もしてくれなかったけれど、少しずつ色々な事を話してくれるようになった。
「鯉の滝登りって知ってる? 滝を登ったら竜になるんだよ」
「馬鹿馬鹿しい。そんなことあるわけない」
「国語のテストどうだった? 僕はねえ、80点も取ったんだよ」
「私は95点だった」
「あそこの鯉さ、すごく目付きが鋭いよね。アイガネさんみたい」
「は?」
「そういえば鯉って食べられるらしいよ。僕は食べたことないけど。そもそも魚よりもお肉の方が好きだなあ。給食に時々ステーキみたいなのがでるでしょ? あれが好きでさあ。アイガネさんは何が好き?」
「もう給食で何が出ても喜ぶような歳じゃないでしょ。それに魚の方が美味しい」
「アイガネさんって大人っぽいよねえ。……子供っぽくないって言う方がいいかな」
「馬鹿にしてる?」
僕らは放課後に毎日会って話をした。たくさんの話をした。好きなものの話や学校の話、鯉の話もした。時々だけどアイガネさんは返事をしてくれた。僕はきっと学校中で一番アイガネさんの色々な事を知っていると思う。勉強が得意で、好き嫌いが無くて、足が速くて、大人っぽいというよりは子供っぽくない感じの女の子。ただそんな僕でも知らないことがある。
「この前お母さんに最近は宿題もちゃんとやるし勉強も頑張ってるって言われたんだ。テストの点も前よりずっといいって」
「……そう」
「アイガネさんはすごく頭良いしお母さんやお父さんに褒められ慣れてるでしょ」
「……そういえばそろそろ夏休みね」
「夏休み! いいよねえ。僕いっぱい遊ぶ計画を立ててるんだ。先生も計画を立てて行動しなさいって言ってたからね。偉いでしょ!」
アイガネさんは家族の話をしたがらない。そういう質問をすると決まって別の話にすり替えるのだ。後から思うとあんな簡単に話をすり替えられてしまう僕の方に問題がある気もする。それはともかく初めて会ってからもう一か月も経つのにどうしてか何も話してくれないからとても気になっている。
「……アイガネさんの家族かあ」
テーブルの上に朝食がある。アイガネさんはパンよりはご飯かな。魚好きだって前に言ってたし鮭の切り身とかみそ汁もきっとあると思う。それらが三つずつテーブルの上にあるんだ。そしてその前にはアイガネさんに似て険しい顔をしたお父さんとお母さんそしてアイガネさん本人が座っている。無言のまま食べるんだろうか、それとも家ではいっぱい色んな話をするのかもしれない。例えば学校の話をしているかも。アイガネさんは頭がいいからたくさん褒められてるんだ。100点のテストを見てすごい、頭がいい、賢い、みたいな感じだと思う。羨ましいなあ。
「……本当にそうなのかな」
実は僕はアイガネさんのことを何も知らないのかもしれない。
学校からの帰り道、川を見ると鯉が泳いでいる。鯉に家族はいるんだろうか。いや、いるに違いない。たまに何匹か一緒に泳いでいるのを見た気がする。金色のと違う色のやつが一緒に泳いでいたんだ。しばらく川の中をじっと見つめていると近くにもう一匹いるのが見えた。あいつらはきっと家族に違いない。
「……今日もアイガネさんいるかな」
僕はアイスを買いに行った。
アイスの棒を隠し持っていつものように秘密の場所へ。そこにはやっぱりアイガネさんがいた。僕はいつもみたいにアイガネさんの隣に座る。
「明日で終業式だね。夏休みが始まるよ。僕楽しみでさあ」
「あなたは宿題とか後回しにしそうね」
最近はこんな風に色々と話してくれるのがとても嬉しい。ただ内容がちょっぴり嫌味っぽいのは気になっている。
「僕はねえ、宿題なんて後でいいかなと思うんだけどお母さんが厳しいからね。できるやつは七月中に全部終わらせろって言われるの」
一昨年は八月に入っても終わってないのがばれてえらい目にあった。ノート一冊漢字の書き取りで埋めろだなんて恐ろしい罰だ。終わる頃には手の下の方がノートにこすれて真っ黒になっていた。お母さんに終わったよ、って持って行ったらノートの中身を確認する前に手を洗えって怒られたんだ。
「まあでもね、今年はちょっと頑張ろうと思ってさ。実はもう算数の宿題終わらせてるんだよね」
まだ夏休みは始まってないけれど宿題は昨日全部配られている。僕は昨日帰ってから教科書を何度も読み返しながら算数のドリルを全部終わらせたのだった。
「二学期のテストは満点を目指すんだ。だから今の内から頑張るの」
「真面目なのね。満点取るのはあなたが思うより難しいかもしれないのに」
「別に難しくてもいいんだよ。精一杯頑張ってみようと思って」
アイガネさんが不思議そうな表情で僕を見ている。僕もこんな風に思う日が来るとは思ってなかったけど、そう言う風に思ったんだから仕方ないじゃないか。
「あ、そうだ。アイガネさんは夏休みの間もここに来るの?」
「……たぶんね」
このたぶんは来るってことだと思った。何を考えているのかわからないことが多いけどこういうのはなんとなくわかる。
「そうなんだ。じゃあ夏休みも来ようかな」
「あなた鯉を見に来てたんじゃないの?」
「え、あ、そうそう。だから鯉を見に来るんだよ?」
そう言えばそんな名目だった。最近はアイガネさんと話す目的でここに来てたからなあ。僕が川に目をやると、そこには鯉が一匹。遠くにいるけどあいつはいつもここにいるやつだ。目付きが鋭く見えるやつだ。その鯉はなんだか寂しげに見えて、隣に座っているアイガネさんと重なって見えた。
「……アイガネさんは夢とかあるの?」
「夢?」
「うん。鯉はさ、滝を登ると竜になるんだよ。そんな感じでなりたいものがあるのかなって」
「別に鯉が竜になりたいとは限らないと思うけど」
え、竜になりたくないの? 僕だったら絶対になりたいのに。川で泳ぐより空を泳ぐ方が楽しそうだもの。あ、でも夏は冷たい水の中の方が気持ちいいかな。
「夢……」
アイガネさんはそこで黙り込んでしまった。どうしよう、変なこと聞いちゃったかな。こんな時は僕の方から言わないと。
「あ、僕はね。実はまだあんまり決まってないんだよね。聞いといてなんだけどさ。でもまだ先でしょ? 大人になるのってまだまださ」
「なりたいものはないけど、なりたくないものはある、よ」
「え?」
思わずアイガネさんの方を見るとなんだか寂しそうな、悲しそうな、そんな顔をしていた。
僕は家のベッドで横になっている。電気も消して目も閉じている。でも起きている。お母さんに早く寝なさいと言われているのにまだずっと起きている。なぜならずっと考え事をしていて何だか眠れないからだ。
僕はアイガネさんのことをずっと考えていた。
「なりたくないものって何なんだろ」
あの後アイガネさんは何も話してくれなかった。僕は何度も聞いてみたけど全然答えてくれなかった。でも僕は馬鹿じゃないから実はその答えに心当たりがある。
「アイガネさん、きっと目付きが鋭くなりたくないんだよね。前に僕がそう言ったら怒ってたし」
あの時の僕を睨んでいる目は本当に怖かった。思わず震えそうなぐらい。そんなに怒るぐらいだからきっと優しい目付きになりたいんだ。
「……まあ、そんなわけないんだけど」
本当は違うのはわかってる。僕は馬鹿じゃないって言ったけど本当は馬鹿なんだ。そんなに頭はよくないし、運動もあんまりだし、毎日やるって言ったこともすぐにやめてしまう。
実のところ僕はアイガネさんに憧れている。頭がよくて運動もできるなんて本当に羨ましい。それを知ったのは最近のことだけど。それはともかく、おかしいのはあんなにすごいアイガネさんがあんな風に、こう、なんて言うか……。そう! まるで幸せじゃないみたいに見えることだ。
「……すごくても幸せになれるわけじゃないのかな」
不思議なことにアイガネさんよりも僕の方が幸せなんじゃないかと思う時がある。僕が見ることのできるアイガネさんはいつだって不機嫌で、無愛想で、時々寂しそうだ。
僕が毎日アイガネさんに会いに行くのは、そう、単に笑った顔を見てみたいからだった。
朝、テレビでニュースをやっている。
『列島に台風が近付いています。今回の台風は九州に上陸し本州を縦断する可能性が高く――』
「台風が来るみたいだから外出ちゃ駄目よ。今日も雨がひどいし……。でも今の内に買い溜めしとかないとねえ。後で日持ちするもの買いに行くから手伝ってね」
「はーい」
台風のニュースだ。明後日ぐらいに直撃する予定でテレビには何年か前にあった似た動きの台風が来た時の映像が映っている。風で看板が吹っ飛んで、雨で家が水に浸かって、川は増水して車が流されている。
台風が過ぎた時、あの場所はどうなってるんだろう?
次の日、雨は昨日と同じぐらいかな。でも風が強くなってきた。雨は斜めに降っているし時々すごい風の音が聞こえる。明日はもっとひどいんだろうか。
台風が来た、もの凄い音でちょっと怖い。あと一時間もしたら通り過ぎるとお母さんは言っているけど全然信じられない。家が崩れないか心配だ。
結局、家は無事だった。昨日の雨と風が嘘みたいな空の色だ。僕は友達と約束していると言ってお母さんに許可を得て外へ遊びに行った。川には近付いちゃいけないと言われたけど。でも、まあ、こっそり行けばばれないよね?
川はいつもよりずっと水が多くて流れも早い。こんなところに落ちたらきっと助からないと思う。鯉はこんな川の中でも生きているんだろうか? もしも僕が鯉だったら今頃流されてどうにもならなくなってるかも。
いつもの場所、だけどそこはいつもとは違う。今まで僕らは川の縁のなんか草が生えてて坂になってるとこに座っていた。でも台風はやっぱりすごかったみたいで、今そこには流されてきたんだと思う大きな木が居座っている。それに水も多くてあんなところに行ったら僕らも流されてしまうだろう。
僕はあまりに様変わりした風景を見終わると、橋の上にいるアイガネさんを見た。
「今日は鯉なんて見れないよ」
今日はアイガネさんから声をかけてきた。珍しい。
「……鯉は強いからさ、きっとあの中を泳いでるんだよ」
僕はそう言いながら川を見下ろしているアイガネさんの隣に行った。
しばらく黙って川の流れをじっと見つめていた。すごい濁っていて見ているだけで流されている自分を想像してしまう。正直、怖い。
「アイガネさんは怖くない?」
「何が?」
「この、川」
アイガネさんはすぐには答えなかった。じっと川を見つめている。もしかして答える気が無いのかなと思ったけど、アイガネさんは何か悩んでいるみたいに見えたからきっと考えてくれてるだけなんだ。仕方ないので僕は前に空の色が青いのは海の色が反射してるからという話を思い出し、どうして川がこんな茶色いのに空は茶色くないんだろうと思っていた。……あれ、空と海が逆だっけ?
そんなつまらないことを考えていたらアイガネさんがようやく口を開いた。
「この川は怖いけどそこまででもない」
そこまででもない。そこにアイガネさんの考えていることの全てが詰まっている気がした。……僕は一つ決意をしていた。アイガネさんのことをもっと知りたい。だから、僕は聞かないといけない。
「……アイガネさんはどうしてここに来たの?」
僕はこの答えを聞くまで今日は帰らない。
「あなたそろそろ帰ったら?」
夕方、空がオレンジ色になっていていつもなら帰る時間。色々と聞き出そうと試行錯誤してみたのに結局まだ何も聞き出せていない。アイガネさんはどうしてここにいるのか。僕はそれを知って……、知ってどうしたいんだっけ?
「ねえ、帰る前にアイガネさんがどうしてここに来たのか教えてよ」
「そんなこと知ってどうするの?」
「どうって……」
僕にとってアイガネさんは憧れだ。でもそれだけじゃない。だから僕は今アイガネさんの隣にいる。だから、僕は、アイガネさんの。
「力になりたいんだ」
だってアイガネさんはとてもすごいのにどうしてか全然幸せじゃないみたいだ。何か嫌な事でもあったのかもしれない、悩みがあるのかもしれない。僕は馬鹿だけど、でも何か力になれたなら、そう思ったんだ。
「今日はアイガネさんがここに来た理由を教えてくれるまで帰らないよ」
「……馬鹿じゃないの。あなたが帰らないなら私が帰るから」
アイガネさんが大きな溜息をついて歩き出す。
「僕、明日までここにいるからね」
アイガネさんから返事はなかった。しかしどうしよう。このままここにずっといたらお母さんに怒られてしまう。いや、それだけじゃすまないかも。そもそもどこに行くかなんて言ってないから家出とか行方不明とかになっちゃうんじゃ。流石にそれはまずいなあ。でも帰らないって言っちゃったし、どうしよう。
そんな風に五分ぐらい悩んでいたら足音が聞こえた。
「うわ、まだいる」
そこにはアイガネさんの姿があった。
「何でまだいるの?」
「帰らないって言ったじゃん」
「いつも話に出て来るお母さんが心配するんじゃない?」
「うん。実はどうしようって思ってた」
「……そんなに何でここに来てるか知りたいの?」
「うん」
僕はアイガネさんのことを見た。アイガネさんも僕のことを見ていた。
「だってアイガネさんは僕の憧れだから」
「憧れ?」
「僕がアイガネさんのことを知ったのは運動会の時だって言ったでしょ?」
「ああ、あったねそんなこと」
この話になるとアイガネさんはいつも嫌そうな表情を見せる。不思議だ。
「あの時アイガネさんが一番後ろだったのにたくさん抜かして2位でゴールしてさ」
「走るの速いとか思ったの?」
「まあそれも思ったかな」
「も?」
「うん」
確かに走るのが速いのも羨ましい。僕は実は足が遅いから、クラスの中でも下の方だ。でもそれはまあどうでもいい。
「アイガネさんさ、終わった後にすごく悔しそうにしてたでしょ? 僕だったら一番後ろからあんなに順位を上げたんだからそれだけで喜んでたと思う」
「……そんなの見て面白かった?」
「面白い? なんで?」
なぜかアイガネさんは眉間にしわが寄って不思議そうな表情をしている。不思議なのは僕の方なのに。
「あれを見てさ、アイガネさんは一番になりたかったんだなー、って。ただの運動会のリレーなのに、そんなに真剣にやってたんだって、頑張ったんだって。すごく羨ましくて、憧れて、かっこいいって思ったんだ」
「……負けただけだよ」
「だって僕は負けたって悔しくないもの。アイガネさんみたいに真剣になれることなんて何もないんだ。僕アイガネさんが走ってる姿今でも覚えてるよ、メニヤキツイテハナレナイ、ってやつ」
「……発音が変。目に、焼き付いて、離れない、ね」
「目に焼き付いて離れない?」
「そう」
アイガネさんはしばらく黙り込んでしまった。でも僕は不思議と不安も何も無い。なんとなくだけどアイガネさんはちゃんと話をしてくれる、そんな予感がしていたから。
「私、両親と仲が良くないの」
そしてアイガネさんの話はそんな言葉から始まった。
「二人共私のこと嫌ってる、っていうより無関心って感じ。仕事が忙しいからいつも家にいないし、仕事が無い日も疲れてずっと寝てるの。話したいこともあるけど起こすと怒られるし今じゃあもう、ね。あなたの両親は運動会来てくれてた? 私は一度も来てくれたことがないの。家でちゃんと話したのがいつだったかもう覚えてないし」
僕には想像もつかないことだ。家に帰ればお母さんがいるし学校で何があったか必ず聞いてくる。授業がどうだったとかいつも言ってるけどたまにちょっと面倒なぐらいだ。
「私にとって家は誰もいないけど私一人じゃない……。あまり長く居たくない場所なの」
誰もいないのに一人じゃない、なんかかっこいい表現だ。
「放課後に家に帰るのを遅らせるようになったのが去年から。最初は教室に残って勉強して見たりそこら中を走り回ってみたりしたんだけど。ふと立ち止まった時に周りに人がいると視線が気になるの。それで一人になれる場所を探してここを見つけた。……まあ、すぐに一人じゃなくなったけど」
「え?」
あ、睨んでる。そっか、僕のせいか。
「えっと、ごめん」
「……いや、謝らなくていい。最初は運動会で一位になれなかったのを見て嘲笑ってるのかと思ったけど違ったみたいだし」
なんか後半小声でよく聞こえなかった。聞き返そうかと思ったけど先にアイガネさんが口を開く。
「勉強ができるのも、足が速くなったのも、本当は……。本当は二人に見てもらえるかな、って思ったから。もしかしたら自慢の娘だって、褒めてもらえるかなって」
アイガネさんは悔しいのか寂しいのか、そんな表情で川の方を見つめている。その先には濁った水が流れているだけだ。
「……えっと、ね」
僕はアイガネさんの力になりたいと思ってここに残ったのにどうすればいいんだろう。残念だけど僕にはアイガネさんのお父さんやお母さんを助けることはできそうもないし、家に行ってもっとアイガネさんを見てあげてください、なんて頼めばいい話でもない気がする。
「……僕はね、ほら、アイガネさんがすごいってことは知ってるよ。勉強もできるし、足も速いし、とってもかっこいい! ね? えっと、だからさ……。アイガネさんは僕の自慢の友達だよ!」
うーん、なんだかめちゃくちゃなことを言っている気がする。でも本心は本心だ。そこだけは間違いないぞ。
「……私とあなたって友達なの?」
「え」
返って来た言葉に思わず固まってしまう程の衝撃を受けた。そんな、僕らって友達じゃないの? わなわなと震えながらアイガネさんを見ると、彼女は僕を見て。
「っく、あは、あはははははは!」
アイガネさんの笑い声が響く。こんなに大きな声で笑ってる所は初めて見た。というかアイガネさんんちゃんと笑えるんだ。
「笑ってるとかわいいのに」
ゴン。頭を殴られた、痛い。
しばらくなぜだか笑われてたけどそれがやっとのことで落ち着く。いつもはキリッ、とした感じでかっこいいけど笑っている方がとても生き生きしていたように思う。
「僕、アイガネさんのこと色々と勘違いしてたのかも」
「今更そんなこと言うんだ?」
「今更って何?」
彼女はポケットの中を探って財布を、そしてその中から一枚のカード、図書館のカードを取り出した。そこには『相羽美羽』と書かれている。
「私の名前、アイバネって言うんだよ」
「え?」
あれ、え? 僕、ずっとアイガネさんって呼んでたのに。で、でも確かに運動会の時に誰かがアイガネさんって呼んでた……。いや、もしかしてアイバネとアイガネを聞き間違えてた?
「でもね、アイガネでいいよ」
「え?」
「友達なんでしょ? あだ名ぐらいあってもいいよ」
「あ、うん。……じゃあ僕のあだ名は?」
アイガネさんは黙って川の方を見た。
「もしかして、僕の名前覚えてな」
「あ!」
声に釣られて川の方を見るとそこには一匹の鯉が川の上に跳ねていた。それは僕らの前でばしゃん、と音を立てて川の中に消えて行く。良く見えなかったけど地味な色をしていた、きっといつもここにいたやつだと思う。アイガネさんは少し嬉しそうに鯉が消えた場所をずっと見つめていた。僕もきっと同じような表情をしていたと思う。