第53話 真剣に
「今日のところはお帰りいただいても大丈夫ですよ」
由井は満足気な表情を浮かべていた。
私は一刻も早くこの場を離れたかった。
前野はまだ由井に文句を言いたいみたいだったが、前野のスーツの裾を掴む私を見て引き下がってくれた。
私たちは足早に水橋屋を後にする。
道中あった川まで戻ってきたところで足が重くなる。
安心感からか緊張が解かれ、疲労がどっと押し寄せてきたのかもしれない。
足を止めた私に、前野が川のそばにあるベンチに腰掛けようと促してくれた。
彼はそばにある自販機で缶コーヒーを購入すると、私の分まで買って渡してくれた。
手から感じる温もりが冷えた身体に響き渡る。
この川を上流に沿って歩けば、水橋屋を見上げることができるだろう。
自然とそちらの方向に目を向けないようにしていた。
「大丈夫?」
「どうにか…。しばらく由井さんとは会いたくないですけど…」
「ギリギリ間に合ってよかったよ」
「そういえば前野さんなんで水橋屋に?」
「安達さんから連絡きたんだよ。なんかあの社長のこと調べたら、夜遊びが激しい、みたいな記事を見つけたらしくて。しかも今日中城さんが水橋屋の社長と会うらしいから様子を見てきてくれないかって」
「友香が…」
たしか友香も取引先の往訪で外にいるはずだ。
移動中にあの若社長について調べてくれたのかもしれない。
「草太と直は既読ついてなかったから、たぶんメッセージに気づいてないんだと思う。俺はたまたま近くで営業してたから抜け出してきたってわけ」
「ありがとうございました。本当に助かりました…」
「まさか本当に襲われかけてると思わなかったけど、間に合ってよかったよ」
鞄の中のスマホがバイブ音を鳴らす。水橋屋への訪問があったのでマナーモードにしていたのだ。
私はスマホを確認すると、前野が言った通り5人のグループチャットで友香が3人に向けてメッセージを発信していた。
高須からは「大丈夫ですか!?」と連絡が来ていた。
私は前野が駆けつけてくれたので無事だったと伝える。
私はもらった缶コーヒーを身体に流し込む。ゆっくりと息を吐き出すと白い息が空気に舞い、消えていった。
すると腹部のあたりがじんわりと温かくなる。
「こうしていると花火大会の時を思い出しますね」
「たしかに、そうだな」
あのときは前野から突然告白されたことを思い出す。
彼と恋人同士になったわけではないが、今では友達に近いような存在になったと感じていた。
前野は飲み切ったのか、缶コーヒーをベンチの上にそっと置く。
「なあ、あんた魔性の女って嘘だろ」
思いも寄らない話に心臓の鼓動が跳ね上がる。
彼に視線を向けると横目でこちらを見つめている。
風はあまりないが、冷たい空気が流れる。
地面にある落ち葉が風に押され、不規則な動きを繰り返していた。
「前から違和感は感じていたんだ。中城さんは優しすぎる。それを武器に男遊びしてるのかとも思ったけど、そういう素振りは全然みせないし」
私のことをそんなによく見ていたことに驚いた。
「そんでさっきの。性格はタラシでも、見た目だけはいい男から誘われたら乗るもんじゃないの」
鼓動が速い。大きく鳴り響いている。
彼の話を聞きながらなんて答えるべきか迷っていた。
私に好意を寄せてくれた人。今日だけじゃない。私が困った時に手を差し伸べてくれる人。
そんな人にも嘘をつき続ける必要はあるのだろうか。
彼の気持ちに応えるべきじゃないだろうか。
答えを迫られた私は、彼に真実を告げようと決心する。
「実は…私、男性とお付き合いしたことないんです…」
「え?」
意思の強さとは裏腹に、か細い声しか出なかったことに自分自身が恥ずかしくなる。
私は彼の表情を見るのが怖くて、落ち葉を見ながら言葉を紡ぐ。
「その、新卒の時に見栄張った気づいたらどんどん大きくなってて…嘘だったと言うのが怖くなって、そのまま受け入れてしまっていたんです」
「…なるほどね」
彼はそれ以上何も言わなかった。
もっと嘘ついてたのかとか、なぜ隠していたのかと責められると思っていた。
彼には彼なりの優しさがある。奥村とは違う優しさがある。
ずっと保留にしてきた前野への気持ちに向き合うべきなのかもしれない。
(そうすれば奥村さんのことも忘れられるかな…)
私は缶コーヒーを握る両手に力が入る。
「あの、前野さんから言われたこと、真剣に考えてもいいでしょうか」
前野は揺れ動く川を見つめている。
何か考え込んでいるようだった。
私は彼の返答を黙って待った。
「まあ、焦ることないんじゃないの。初めてなら好きな人はちゃんと選びなよ」
「え…」
「見てたらわかるよ。俺がその人じゃないって」
「どうして…」
「まあ、俺も似たようなもんだからさ」
穏やかに笑う前野の表情はどこか寂しそうだった。




