第52話 雑食
私より一回りほど大きな手が私の左手を包みこんでいる。
由井を拒否したら、水橋屋との契約に関わるだろうか。
そう考えたとき、重ねられた手を振りほどくか一瞬悩んでしまった。
彼は明らかに水橋屋の由井薫としてここにいない。一人の男性としてここにいる。
いざとなれば力づくで振り払えばいいのだが、「契約」という言葉がどうしても頭にちらつく。
掴まれている左手に力が入る。
彼に弱みを握られているに近い状況に陥っている。まさか私がそう躊躇うことさえも見越していたのだろうか。そうであれば相当の策士だ。
いやそれよりも、どうすれば穏便に彼の手を振りほどくことができるか、私はその一点のみに考えを集中しなければいけない。
由井はそんな私に穏やかな口調で語りかける。
「中城さん、私はね、追いかけられるより追いかけたいんですよ」
口元を緩ませる彼から目が離せなかった。逸らせなかったという方が正しいかもしれない。
「私は家柄もあり、女性に困ることもなかった。でもいつからか、その生活がつまらないと思ってしまった。刺激を求めるようになったんです」
すると彼は腰を上げ、私の椅子の背に手をかける。
これでは手を振りほどいたところで逃げ場がない。
私は震える声を押さえつけながら、彼に反論する。
「わ、私は由井さんのことを嫌いでお見合いを断ったわけではないですし、由井さんの言う追いかけるには当てはまらないんじゃないでしょうか?」
私は時間を稼ごうと頭を切り替える。
誰かが通りかかれば、さすがに彼も手を出してくることもないだろう。
「嫌われてる相手に言い寄るのは良くないことでしょう?でも中城さんは私のことを嫌いではない。そして私に惹かれているわけでもない。そんなあなただから私は興味があるんですよ」
昨日の会食での受け答えが裏目にでてしまったのかと後悔する。
ただ接待の場では、ああ答える以外になかっただろう。
私はちらっと左奥に視線を向ける。
だれか動く影がないかと探すが、庭にある大木が悠然と立っているだけだった。
「もしかして誰かが来るのを待ってますか?誰も来ないですよ」
私の視線に気づいた由井がその狙いを察したようだ。
「私がいいと言うまで、誰も通さないように言っておきましたから」
もう手を打ってあるということか。
そうであればもう最後の手段に出るしかない。
迫りくる由井の肩を両手で抑えようとするが、彼は全く意に介していなかった。
「中城さんのことをもっと教えていただいてもいいですか?」
「ちょっと…待っ」
涙が自然と浮かんでくる。
こんな形で私の初めてが奪われるのか。
奥村の姿が頭に浮かぶ。
「大丈夫。優しくしますよ」
彼の手が私の頬に添えられる。
彼の顔が至近距離にまで近づいてくる。
顔を背けようにも、彼の手がそれすら許されなかった。
私は思わず目を瞑る。
「おい!」
顔を上げ、声のする方へ視線を向けると、前野の姿があった。
なぜ彼がここにいるのだろうか。
女性店員が彼を止めようと手を伸ばすが、その制止を振り切り、一目散にこちらに向かってくる。
由井は動きを止め、姿勢を正す。
私の頬には涙が一筋流れていた。
前野は私を一瞬見やると、顔を歪ませる。
「あんた、何やってんだよ」
語気を強め、由井に詰め寄る。
前野は息が荒い。走ってきたのかもしれない。
「あなたは?」
「アカツキホールディングスの者ですよ」
「ああ、中城さんの同僚というわけですか。何って、中城さんと話をしてただけですよ」
「とてもそうは見えなかったですけどね」
落ち着いて答える由井を睨みつける前野。
しかし、彼は相変わらず含んだ笑みを浮かべている。
「今日はお引き取り願いますか?まだ彼女との話は終わっていないので」
由井は横目で私に視線を飛ばす。
私はビクッと身体を震わせる。
前野は私の手首を掴むと、力強く引っ張り上げる。
私はその勢いで、すくむ足をどうにか地につける。
前野は私と由井の間に挟まれるように立っていた。彼から庇ってくれているようだ。
「これ以上話すことないでしょう」
「では君が代わりに私の相手してくれるんですか?」
「私でよければお付き合いしますよ」
煽る由井に負けじと前野も言い返す。
由井は前野の顎を軽く指で持ち上げると、流れるように口づけをした。
あまりの突然の出来事に、私は驚きの声を出す暇もなかった。
前野も目を見開いていたが、すぐ顔を背ける。
「な、何すんだよ!」
「何を驚いているんですか?あなたがいいと言ったのに」
前野は唇を手の甲で拭いている。追撃を防ぐ意味もあったかもしれない。
由井は私たちが驚いた意味に気づくと、悪戯っぽく舌なめずりをした。
「ああ、こう見えて私、雑食なので」




