第42話 看病 その1
自宅の最寄駅から2つ前の駅で降りる。
定時過ぎに会社を出たのは久しぶりのことだった。
夕方の時間帯ではあるが、もう空は夜に包まれている。
駅前のコンビニに寄り、手早く買い物を済ませる。
賑やかな商店街を抜け、奥村は電灯に照らされた暗がりの道を歩く。
久しぶりに向かう目的地だが、身体が道のりを覚えているように自然と足が動いた。
見覚えのあるマンションが見えてくる。
道路から見える部屋は暗いままだった。
もしかしたら寝ているかもしれない、と思いながら階段を上がった。
2階の角部屋。表札は掲げられていないが、躊躇うことなくインターホンを押す。
扉の奥からガタガタと音がする。
十数秒ののち、ゆっくりと開いた扉の中から前野陽介が現れた。彼の額には熱冷ましのシートが貼られていて、顔も赤く見える。
だるそうに見上げた陽介は、俺だとわかると驚いた様子だった。
「草太、なんで…」
「ほら、いいから。病人は横になって」
「あ、ちょ…」
少し散らかった部屋。
前に訪れたのは半年ほど前だろうか。
酔いがまわった俺はとても歩ける状態になく、体調が回復するまで陽介が世話を焼いてくれた。
酔っていたときの記憶はもちろんない。
回復した時には、既に太陽が昇っていた。
室内の様子は、あの時とさほど変わっていない。
テーブルの上にある小物入れが倒れている。
さっきの音はこれが原因だろう。
スウェットを着ているところを見ると、今日はずっと寝ていたのかもしれない。
陽介は重たそうな身体を投げ打ってベッドに横たわる。
ベッド脇にある木製のサイドテーブルには、病院からもらった薬と水の入ったグラスが置いてあった。
「熱どうなの?」
「朝、計ったら38度あった」
「全然熱下がってないじゃん」
「俺だって好きで高熱だしてるんじゃないし」
「いつから熱出てるの?」
「お前と飲んだ次の日」
「そうなの?」
「暖房つけようと思ったら、間違えて冷房つけて寝てた」
「それは風邪を引くはずだ」
俺はコンビニで買ったスポーツ飲料水を差し出す。
陽介はペットボトルを一瞥すると、身体を起こして勢いよく喉に流し込んだ。
冷蔵庫を開けると缶ビールや調味料などしか入っておらず、食材と呼べるものは入っていなかった。
「何も食べてないの?」
「朝、残ってたパン食べてなくなった」
「コンビニ行ってきててよかったよ」
俺はプリンやレトルトのおかゆを取り出す。
おかゆを器に移すと電子レンジで温め始める。
体温計を陽介に向ける。
彼は無言で受け取ると、スウェットの首元から脇に差し込む。
俺はその間に床に散らばっている文具や小物を拾い上げる。
そして、散らばっている服をまとめて洗濯機にいれると、洗剤を入れてスイッチを入れる。
ちょうど電子レンジが鳴ったところで、おかゆを取り出す。湯気の立ったおかゆにスプーンを入れ、何回かかき回した。
彼の手に持つ体温計とおかゆを交換する。
陽介は、おかゆの熱を冷ますように息を吹きかけ口に運ぶ。
もらった体温計には38.2℃と表示されていた。
どうやらまだ熱が下がっていないようだ。
あっという間に食べ終えたおかゆの器を陽介から受け取る。
「草太、ありがとな」
「別にこれくらいいいよ」
陽介は俺が注ぎ直した水を手に薬を飲むと、再び横になった。
「中城さんと話せたよ」
今日これだけは彼に話したかった。彼女との関係を変えられたのは、陽介に背中を押してもらったからだ。
陽介は熱を計っているかのように手の甲を額に乗せたまま動かなかった。
だが、乗せている腕の影からゆっくりと視線が俺に向いたのがわかった。
「そうか」
「俺…」
言葉を続けようとする俺の言葉を塞ぐように、彼は身体の向きを変える。
「いいよ、言わなくても。お前見たらなんとなくわかるし。よかったな」
背中越しに呟く声は、どこか元気がないように聞こえた。
体調が回復していないのだ。
そんな時に追い打ちになるような恋敵の話なんて聞きたくないかと思い直し、それ以上俺も何も言わなかった。
ひとしきりやれることを終えると、荷物とコートを手に取る。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
陽介は身体をこちらに向けると、すがるような目で俺を見上げる。
何かを言いかけるが言い留まったように見えた。
「どうした?」
「い、いや、何でもない…」
彼は再び背中を向け、布団をかぶり直す。
俺はそういえば子どもの頃もこんなことがあったなと思い出す。
いつもは頼りになる兄のような存在だが、寝込んでいるときに誰かがそばを離れようとすると寂しそうにするのだ。
一緒にいると言うと、素直にお礼を言えないくせに、表情が嬉しいと物語っている。
昔と変わらない兄だったとわかると、俺は息が漏れるように笑ってしまう。
ベッド脇のサイドテーブルに、もたれかかるように腰を下ろす。
「陽介が寝るまでいるよ」




