§ 8ー1 3月23日 月に叢雲花に風
天体衝突まで、残り:1日。
吹いている風がまったく同じでも、
ある船は東へ行き、ある船は西へ行く。
進路を決めるのは風ではない、
帆の向きである。
人生の航海でその行く末を決めるのは、
なぎでもなければ、嵐でもない、
心の持ち方である。
エラ・ウィーラー・ウィルコックス (Ella Wheeler Wilcox)
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死が近づく人は何を思うのだろう?
あなたなら死に逝くときに何を思うだろうか?
死とは孤独なもの。繋がった人と世界からの断絶を意味する。この世界に母から産み落とされたのだから、繋がりのない者などいないのだ。
エリザベス・キューブラー・ロスがいう死の受容過程の最終過程では、人は死を受け入れる。運命だと心にやすらぎを得るという。
多くの者は死を迎えるとき、穏やかに、健やかに、心安らかに在りたいと願うだろう。最後に目にするのは大切な人の顔であり、耳にするのはその人の声でありたいと願うだろう。そんな風に思える大切な人に抱く感情こそが『愛』という情なのではないだろうか。
愛した代償に、最後のそのとき、傍らに居てもらうことを望んでもいいのではないか。
心安らかに、孤独に始まる次の旅を祝福してもらうために。
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--神奈川県・横浜市近郊--
蒼と黒の空。1秒毎に黒が世界の終焉へ向けて広がっていく。昼間だというのに、街は薄暗く肌寒い。引力による海水の満ち引きが、春の風を滅びの風に変え、痛いほどの暴風としてすべてを襲っていた。
こうなってしまうと、もはや『社会規範』というこの国の神への信仰心は、生物としての本能に容易く負けてしまう。電線が切れたら、それを直す者はもういない。列車を運転する者もいない。それどころか、空の魔女に怯え、外出する者などほとんどいない。異常な風の音だけが、世界に木霊していた。
何も通らないのに待つ赤信号。黒いコートと白いコートがそれぞれ強くはためく。遠目に見える病院へ、ゆらゆらと、それでも1歩1歩明確な意思を持って進む2人。
「今日は颯太もお母さんに会ってよ」
黒猫のバレッタで束ねた白い髪をなびかせながら彩が言った。白髪に戻してからも、舞衣の歌唱レッスンを受ける日々も、あのTV局で演奏した日も、彩は病院へお母さんのお見舞いに行かなかった日はなかった。
病院は自家発電で得た電気で、明かりも空調も医療機器もまだ使用できていた。しかし、医師も看護師も3分の2はおらず、キャパシティーを超えた業務で残された医療従事者たちは疲弊しきっていた。途中会った看護師の夏生さんは「人手も足りないけど、医療品や輸血用の血液がもう無いの……」と無理やり作った笑顔で言った。助けられる命を助けられないことは、彼女にとってこの上ない苦痛に違いないのに。
4Fのクリーム色の廊下の奥の部屋。ドアに伸ばした手は、今日は震えていなかった。「入るね、お母さん」とドアを開ける。
フフフフーン、フフフ、フフ〜♪
驚いた。縛られもせず、ベッドの上で上体を起こし、彩のお母さんは鼻歌を歌っていた。穏やかに、昔のような優しい顔で。
「お母さんね、私たちが出たTV観てくれたんだって。歌も聞いてくれたみたい。真剣に見てたって夏生さんが言ってたの」
ゆらりと微笑んでそう言った彩。どうやらそれからは眠っている以外のときは、今のように鼻歌を歌って過ごしているそうだ。
思い出した。
あの鼻歌は、彩が彩のお母さんの真似をして覚えたものだった。彩の家の色とりどりの花が飾られた居間で、ソファーで横並びに座って歌っていたのを。
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--4日前--
TV局でスタジオに入る前の楽屋にいたときのことだ。舞衣の楽屋に忍び込んで、3バカトリオの御三方が用意した衣装に着替える。
着替え終わった白いスーツ姿を鏡で確認したとき「こんな姿でホントにTVに出るの?」と恥ずかしくて怖気づいてしまった。ひらひらの羽根は厨二病を患った颯太でもさすがにないな、と外そうかとも思った。彩の姿を見るまでは。
白いドレス姿の彩はまるで天使に見えた。白い髪も相まって、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「ねぇ、颯太……。ホントにこれ着てTVに出るの?」
顔を赤らめて、もじもじしている手は震えていた。自分の気恥ずかしさなんか構っていられない。こんなときに彼女の力になってあげたくて、心理学を学んできたんじゃないか。そんなことを支えにして、彩に声を掛ける。
「なぁ、彩。あの、えーっと……」声を出したが、何を話せばいいか頭が回らない。
「な、何? 颯太……」下に泳ぐ目。それは、不安の表れだ。
「ちょっと左手を出して」これしか思いつかなかった。
恐る恐る突き出した彩の左の手。ポケットに入れておいた紅色のリングケースを取り出す。ただ不安や羞恥心を取り除いてあげたい。その一心で、ケースを開いて彩に見せる。
「え……、颯太、これって」
「気に入ってくれるといいんだけど」
薄く桜色に光るダイヤモンドの指輪。ケースから取り出し、彩の左手の薬指に慎重にはめる。思ったとおり、良く似合ってる。左手を引き戻して、目の前で確認する彩。不安や羞恥心を驚きで上書きできたのか、手の震えは消えていた。表情が柔らかくなる。顔は赤いままだったが。
「綺麗……。ふっ、ふふ、あはは。そっかぁ、だから前に指のサイズなんて聞いてきたんだね♪ 期待してなかったわけじゃないけど、こんなときに渡されるなんて思わなかったよー」
「こんなときで悪かったなー」戻ってきた恥ずかしさで顔が熱くなる。
「……ありがとう、颯太。ホントに、嬉しい」目がウルウルしている。
ホッとした。本当に。彩が嬉しそうに微笑んでいる。
「でも、左手の薬指なんて……。まるで結婚指輪だよ」
「その……つもりで、用意してたんだけどな……」
しまった、と言うつもりではなかった言葉に、口を手で押さえる。彼女の表情を恐る恐る確認する。
彩は目を真ん丸に見開いて、涙が零れていた。
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--神奈川県・梅ヶ丘家--
世界の最後の夜。窓から見える夜空には星はなかった。光る月にも叢雲がかかっている。街明かりも乏しく、静寂と暗闇の帷が降りていく。
尽き欠けている食べ物で、彩はこの夜のためにとカレーを作ってくれた。タマネギもジャガイモもニンジンも僅かな形を残すだけで、牛肉も豚肉も鶏肉も入っていない。カセットコンロで煮込んで、予め炊いた2人で1合にも満たない白米を分け合う。キャンドルで灯した柔らかい光の中、2人で最後の晩餐を開いた。
「「いただきます」」
1口1口、少しずつ食べる。よく噛んで、少しでも満腹感を得られるようにゆっくりと食べる。空腹は感情を短絡的にする。
「明日、ホントに衝突するのかな……」ポツリと漏らす彩。
「昼過ぎに太平洋が接触、するらしいよ」電源が切れる直前に見たスマートフォンで確認したこと。
「そっか……」
それ以上の会話はなかった。死を目前として、冷静さを保っていられることなどできない。先日までは音楽にただ夢中になっていた。また、その余韻が残っていた。しかし、その熱も冷め、いよいよもって最後の夜となった今宵。ついに未来がないことを直視する。昨日から電気もガスも使えなくなったことが、なお悲観的にさせる。
綺麗ごとなど言えない。死を間近に感じれば、なおさら。
だから、2人は自然と手を握った。その体温が現実を暈してくれる。恐怖を言い訳に想いが素直になる。このままで終わってしまうなんてありえない。もっと、もっともっと、キミを近くで感じたいから。
窓の外の夜空にはオーロラのカーテンが揺らめいていた。叢雲から抜け出た月は、そのカーテンを超えて触れ合う2人を照らす。白い髪が淡く光る。触れてはいけないと禁じていた唇は熱を帯びていた。死が薄れていく。肌を合わせるほどに。
それは欲求によるものではない。
キミと一緒になれる喜びで満たされているから。
「好きだよ」
間に何物も邪魔のない距離でそう囁く。
「……言ってもらえて、嬉しい」
何度も交わした口づけに、想いが重なった。
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