§ 6ー3 2月13日 剥き出しの本能
天体衝突まで、残り:39日。
発狂。
そう、世界は終わりまでの時間を持て余していた。病魔での余命のように、日に日に終わりに近づくのが体の調子で分かるのであれば、苦しみ悶えながらそのときの心の備えができるのかもしれない。しかし、1年後に爆発するようカウンター付きの爆弾が体に着けられた状態が続いたら、その精神を保っていられるだろうか。悟りの境地に達して死を受け入れられるのだろうか。
終わりを迎えるまで生物は本能として生きようとする。獣であれば終わりの時期など分からない。でも、人は違う。智恵の実を食べた罰が与えられている。終わりを知りながら生きるために、食べ物を取り、睡眠を取り、他人と寄り添い、社会の一構成員となり、あらゆる感情で終わりがあるという現実を誤魔化し、ぼやかし生きる。ただ生まれ、死を迎える自然の摂理に意味を求めようとする。死後の世界に救いを見出そうとする。
パンドラの接近による実際の影響は、今のところ海面の水位と磁場に若干の変位が見られるだけであった。しかし、人間社会はその機能を狂わされていた。
現実を誤魔化しきれずに、絶望する者。
現実をぼかし過ぎて、逃避する者。
現実に意味を付加するように、懸命に過ごす者。
現実に救いを信じて、祈る者。
そして、智恵の実の罰を放棄し、本能に支配された獣になる者。
天体衝突まで、残り40日余り。失いつつあったバランスの糸が、耐えきれずについに断たれようとしていた。
♦ ♦ ♦ ♦
--神奈川県・横浜近郊--
「凛~。ちょっとこっち、手伝って~」
「ちょっと待ってぇ~、お母さーん」
「おい、颯太。もう少し下の方を持ったほうがいいぞ」
「うん、この辺? 親父こそ、ちゃんと持てよ」
朝から始まった荷作りで、生田家はバタバタしていた。颯太以外の両親と凛は、以前の家族会議で決まった通りに母・梓の実家がある長野に避難することになった。時期が遅れたのは、父の仕事が輸出入関連で、年末年始にどうしても職場を離れることができなかったからである。
近所では空き巣の被害や、救急車のサイレンが頻繁に鳴り響いていた。警察や医療機関、鉄道、電気、ガス、水、通信などは当たり前にまだ機能している。「どんなにこれがすごいことか分かるか?」という父の話を実感できなかったのは、颯太がまだ人生経験が足りないからなのかもしれない。
インフラ機能は従前とは言えないまでもまだ保たれていたが、食料品や生活必需品は違った。一部の品目は配給制となり、毎日のように店の前には数少ない物資を求めて長蛇の列ができていた。スーパーのパートをしていた母のおかげで、他の家庭よりも食料の都合がついたのは、少し他の人に悪い気がした。
「おい、颯太。お前は暇だろ? 配給取りに行ってこい」
父に言われ、自転車で15分ほどの配給施設に向かう。彩とよく行ってたおもちゃ屋、参考書を買った本屋、電気屋、お弁当屋……、角地にあったコンビニまでシャッターが降りていた。街路樹の枝が自由に伸び、道路の端にはゴミと落ち葉が溜まっている。人通りも車通りも少ない。まるで街が寿命に近づきその生命力が奪われていくようだ。3代目流星号のギシギシ軋む音が響く。2月の風はその吐息のようにまだ冷たい。
配給をしている区役所に着くと、そこには長い列ができていた。寒空の中、みな不機嫌な表情を浮かべている。慣れた足取りで最後尾に並び1歩1歩列が進む中で噂話が聞こえてくる。
「○○のスーパーに明日、ティッシュペーパーが入荷するらしいわよ」
「△△の倉庫にはまだ冷凍のお肉があるみたいなのよ」
「二丁目の□□さん、お水を何十箱も買い溜めしてるって」
SNSを見ても、本当かデマか分からない物資の入荷情報が飛び交っている。嘘の転売で騙そうとする書き込みなど切りがない。
でも、人は信じてしまう。生存本能が生きることへの無関心を許さないのだ。少しでも生を延ばせるなら、それに手を伸ばさずにはいられない。そうできているのだ、人は。
1時間ほど待って手に入れたのは、野菜・果物・缶詰・水・米。今日は卵が1人に1個配られた。家族4人分を受け取ってもリュックサックに収まる量だった。
帰り道。パトカーが赤色灯をちらつかせサイレンを響かせて、横を通り過ぎる。赤がやたらと最近目に付くのは、寂れた街並みで色彩が乏しくなっているせいだろうか。それとも、クリスマス・イブのあの日以来、彩のお母さんのお見舞いに付き添うようにしているからだろうか。
…………
シャッターの降りたコンビニを曲がったときだった。
「やめてください!」
「いいから、手を放せ! このっ!」
昼下がりの往来で、小柄な初老の男性と若い女性がバッグで綱引きをしていた。一瞬で瞳孔が広がる。その声も、姿も、大きめのバッグも知っている。
「彩!!」
自転車を放り出し、一目散に駆け寄る。瞬きもせずに、無我夢中に。突き出した右手で、男の腕を掴む。
「おい! 離せよ!」声を荒げる。
「颯太!」驚く彩。
「んん? なんだてめぇは! 邪魔すんな」醜い形相をする男。
バッグから手を放し、腕を払ってこちらを睨む。感情剥き出しで、目が血走っているその顔は獣のように醜悪だった。しかし、それはこちらも同じだったのだろう。怒りが心を支配したその顔に、男は一瞬怯んだ。
「うわわぁぁぁ!」
体内の血液が黒ずんだような負の感情に身体が突き動かされる。男に加減もなく突っ込んだ。タックルのようにぶち当たると、男を突き飛ばして、共に倒れ込む。
「ぐはぁ」と呻き声を上げたことなど構うことなく、男の上に乗った体勢から無茶苦茶で感情のまま、獣のような顔を殴りつける。
バゴォ! 感触のあと、拳が熱くなる。
バゴォ! 必死に防ごうとする腕の上から殴る。
バゴォ! 防ぐ腕の間から顔面を捉える。拳に痛みが走る。
「颯太!!」拳をより高く振り上げたところで、彩の声が耳に入った。そこで我に返り、男を見下ろすと両腕で顔を隠し怯えていた。必死に体を揺さぶり這って逃れると、男は立ち上がり、ふらつきながら走り去っていった。その背中は小さく、弱弱しい初老のものだった。
「はぁ、はぁ、大丈夫か? 彩」怒りは収まり、ハッとし振り向く。
「…………」目を見開いている。目の前で見た生々しい暴力のせいだろう。
「怪我は? 何か取られたものは?」立ち上がり、大丈夫なのか体を眺める。どうやら、怪我はなさそうだ。
「……颯太……」ここで気が抜けたのだろう。目が急に潤みだす。
「もう、大丈夫だから。心配ないから」
「うん……」
「何か取られたりしてないか?」
「うん……大丈夫」
俯いた頭を優しく撫でる。人のぬくもりは安心感を与えることを思い出したから。少しでも落ち着いてほしい、それだけだった。
♦ ♦ ♦ ♦
--神奈川県・生田家--
「はい、彩ちゃん。こんなものしかないけど、ゆっくりしていってね」
「……ありがとうございます」
母が彩の前に置いたのは、ホットレモネードと3枚のクッキー。彩はそれを見ると腫らした目が少し緩んだ。両手でカップを掴み、ゆっくり口をつける。
「……この味、懐かしいな」目だけではなく、表情が緩む。
母も颯太もホッと胸を撫でる。
「あ! 彩姉♪」居間に飛び込んできた凛が彩の横に座る。
「凛ちゃん。これ、一緒に食べよ」手のひらでクッキーを進める。
「うん♪」遠慮なしにクッキーを1枚摘まむ凛。
「ほら、颯太も食べようよ」こちらを見る彩。
「あぁ、ありがとう」彩の気持ちに逆らわず、クッキーに手を伸ばす。
そんな光景に母は微笑んでいた。
バッグを取られそうになり、気落ちしている彩を颯太は家に誘った。一人にさせると、またその感情を胸の内にしまい込んでしまうと思ったからだ。
「おーい、颯太。ちょっと来てくれ〜」と呼ぶ父の声に居間から出ていく。
残された母と凛、それに彩。よいしょ、と颯太が座っていた席に母が座る。
「彩ちゃん、ホントに大丈夫なの?」
「心配させてしまってすいませんでした。もう、だいぶ落ち着きました」
「それならよかったわ。でも、心配してるのはそのことだけじゃなくて、この先の話なの。こんな目にあったら、一人で過ごさせるのが心配なのよ」
「今からでも、彩姉もうちらと一緒に行こうよ〜」
「おばさん、凛ちゃん、心配してくれてありがとうございます。でも、やはり母を一人には出来ないので……」
「やっぱりそうよね…………あっ! どうせ颯太も残るんだから、彩ちゃんが面倒みてくれない?」
「えっ?」
「あの子、自炊も炊事洗濯も何にも出来ないから、家をめちゃくちゃにされるんじゃないかって心配なのよ。彩ちゃんがあの家に残るなら、あの子を彩ちゃんの家で面倒見てもらえないかしら?」
「まぁー、お兄ちゃん、あんなんでも、チワワとかよりはマシな番犬になるよ(笑)」
「でも、颯太にだって都合があるだろうし……」
「あー、そんなの気にしないでいいから。母としては、あの子がしっかり食べて元気にやっていけるか、どうしても心配なのよ。彩ちゃんが付いててもらえると安心するのよ。ねぇ、凛?」
「お兄ちゃん、ダメダメだからね。いっつもどうでもいいことに拘って、後で後悔するタイプだからね。お兄ちゃんの言うことなんて、無視していいよー」
「でも……」
「彩ちゃん。颯太ね、お父さんと約束したの。残るなら、必ず颯太と彩ちゃんと佳苗さん、そして私たちみんなでまたご飯を一緒に食べれるよう守り切るってね。だから、あの子の気持ちも分かってあげてくれないかな。私からのお願い、聞いてもらえないかしら?」
「颯太がそんなことを…………わかりました」
「ほんと! ありがとう、助かるわ」
「でも、彩姉と2人でとか、お兄ちゃん大丈夫かなー? エッチだからねー」
「こら、凛。折角、彩ちゃんが受け入れてくれたんだから、そんなこと言わないの! それに颯太にそんな甲斐性ないんだから、変なこと言わないの!」
「確かにー(笑)。むっつりスケベだもんね、お兄ちゃん♪」
「ふふふ(笑)」
「あ♪ 笑ってる、彩姉。彩姉もそう思ってるんでしょー」
そんな調子で、自分が居ない間に、彩の家で一緒に暮らすことが決まった。そして次の日に、親父も母さんも凛も家から避難していった。
最後に親父が言った。
「お前が決めたことだ。どんなことがあってもやり切れ」と。
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