§ 3ー6 10月20日① 友情 ー変動ー
天体衝突まで、残り:155日。
怒り。
怒りは感情の一種である。そもそも感情は単独で機能するものではなく、身体・思考・行動などと密接に関係して形成されている。体調や生活習慣の変化、生きてきた中で作り上げた信念や思考の揺らぎなど、感情の発露には様々な要因が影響する。
オーストリアの精神科医であり心理学者のアルフレッド・アドラーは、怒りは感情の中で最も厄介なものとしている。その根拠として、怒りが感情の中で最も対人関係の要素が強い二次感情としたからである。
怒りの二次感情は、まずは心に浮かび上がった一次感情によって生まれる。傷つき・寂しさ・悲しみ・心配・落胆……など、本人すら自覚しないネガティブな要因が怒りの一次感情になる。親が子を叱るときの主な一次感情は心配になり、仕事場で上司が部下を叱るときは落胆になる。
怒りをコントロールするアンガーマネジメントとしては、怒りを表現する前に、その要因となる一次感情を意識することによって冷静になり、その要因を伝えるようにすることで良好な人間関係を保てるとしている。
怒り。その感情をぶつけるのは、その要因となる一次感情を相手に解ってもらいたいという過激なコミュニケーションになる。しかし、怒りの感情を持つことは悪いことではない。怒りは偽りのない心の声。世界中の人びとが持つ、喜びなどの感情と同価値なものなのである。
怒り。それは人間である証明なのかもしれない。
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--神奈川県横浜・中華街--
土曜の夜ということもあり、みなとみらい線はいつもように混みあっていた。終点で電車を降り改札を出ると、赤のネオンと蒸料理の匂いがアジアの異文化を漂わせる。
中華街の入口である朝陽門を人波の一員となり通過する。中華まん・ショーロンポー・北京ダックロール・フカヒレスープ・いちご飴、列を為す軒先で味わう観光客たち。お土産屋や占い所も人が混みあっている。見えない獣の澱みを感じさせない、否、跳ね返そうとさえする雰囲気に満ちていた。
喫茶ル・シャ・ブランのメンバーたちははぐれないように目的の中華飯店に向かっていた。目当てのお店【金華酒店】は店長の昔なじみが経営している中華料理屋さんで、何度か店長も含めたバイトたちで来たことがある。チリソースやマヨネーズ味の海老料理が自慢で、本場というより日本人の味覚に合わせた味付けを敢えて行っているとのことだ。麻婆豆腐や八宝菜、飲茶に小籠包もここで味わったことで大好きなものになった。
「内定、取り消しになっちゃいましたよ」
3日前、閉店間際にそう笑いながら話をした匡毅の変化を店長は見逃さなかった。その後、店長はすぐに颯太や彩、蜜柑ちゃんに匡毅を元気づけようと相談した。「こういうときは美味しいものを食べるのが一番」と店長がすぐに金華酒店に電話をして予約したのである。
当日、ル・シャ・ブランは閉店前に店長を残し、生田颯太・玉川匡毅・梅ヶ丘彩・喜多見蜜柑・栢山瑞稀・風祭浩一・東海林加奈の7人で向かうことになった。店長は閉店後に駆けつけることになっていた。
喧騒著しい街路を進む。途中、中国風の屋根の東屋・会芳亭に座って休む人々を横目に通り過ぎる。しばらく進んだ手相占いの横に目的の金華酒店があった。
ガラス窓越しに中を眺めると、楽し気に話す観光客で賑わっていた。風祭さんが「やっと着いたよ~」とお腹がペコペコなしぐさをしながら店のドアを開けた。
4人掛けの2つのテーブルには、これでもかと料理が並んだ。蜜柑ちゃんと瑞稀ちゃんには烏龍茶、他のメンバーは生ビールのジョッキを手に、風祭さんが「ではでは、お疲れ様でーす♪ かんぱーい!」と音頭を取り、会が始まった。
「パンドラって、結局どうなるんですかね?」
「この間来たお客さんがさぁ」
「今度の蜜柑ちゃんのシフォンケーキ、美味しそうよね」
各々、目の前の料理に舌鼓を打ち、歓談を楽しむ。「はい」と小皿に五目そばを取って匡毅に渡す彩。この会の主目的は匡毅を少しでも励ますこと。その話題に触れられず、店長が来るのを待ったほうが良いのかも、なんて思うほど匡毅の笑顔には無理があった。
「ありがとう」「そうですね」「いいですね」懸命に相槌は打っているものの、瞳孔が狭まっているからなのか瞳がただただ黒い。昔、事故後に見た彩の瞳をふと思い出す。そんな匡毅の様子は魔法のように伝わり、内定取り消しの話をさせないようにしている気がした。
「紗良さん、今度TV出るらしいわよ」
加奈さんから不意に出た言葉。はっとしたようにこちらを一瞬見る。目が合ったことで観念したのか、ハーッと息を吐く。
「ごめん、颯太くん。あんまり紗良さんの話は聞きたくないよね?」
「もう、大丈夫ですよ。気持ちの整理はついてるので」
「ホントに?」
「ホントですって。TVに出るってどういうことですか」
「うーん……颯太くんがそう言うなら言っちゃうけど、この前パートの帰りに駅で偶然、紗良さんに会ったのよ。そこで少し立ち話したんだけど、彼女、アナウンサー希望だったじゃない? このご時世で新人でも駆り出されるみたいで、海外のなんかの会議のレポートをしに行くって言ってたのよね。だから、今度ニュースにきっと出ると思うのよ」
成城紗良。元恋人で、突然振られた相手。こんな時に彼女の話を聞き、厳重に封をして閉じ込めておいた想いがざわつく。
「紗良……さんは元気そうでしたか?」
「んー、忙しそう感じだったけど、笑ってたし元気そうだったわね」
「そうですか。それならよかったです……」
何も良い訳ではなかったが、当たり障りのない相槌を打つのが精一杯だった。彼女と終わってしまった本当の理由。気づくと勝手に開きそうな封を無理やり閉じる。
食事会が始まり、並べられた色彩豊かな料理を一通り味わった頃だった。口火を切ったのは瑞稀ちゃんの無邪気な一言だった。
「匡毅さんは、この先どうするんですか?」
蜜柑ちゃんの友達で、匡毅に淡い恋心を抱いている17歳の高校2年生の栢山瑞稀。ショートボブで元気いっぱいな彼女は、きっと匡毅がル・シャ・ブランのバイトをする期間が伸びるかもと期待していたのかもしれない。
「……うーん、他の仕事探さないといけないんだけどな……」
「匡毅さんならすぐに見つかりますよ!」
「……ありがとう、瑞稀ちゃん」
精一杯の作り笑い。ジョッキを手に取り、3分の1程残ったビールを一気に喉に流し込む。目の前に取り分けられた料理にはほとんど手をつけていない。
「まぁ、ちょっとゆっくりしてから考えた方がいいんじゃないかな」と風祭さん。
「とりあえず、お腹いっぱい食べましょ」と加奈さん。
緻密な硝子細工を手に取るような丁寧で繊細な言葉を選んで匡毅に伝える。そんな中、颯太は声を掛けれなかった。匡毅はどんな時も感じよく受け答えをするが、長く深く彼と付き合いがある者は目に感情が表れることを知っている。力のない目尻と俯いた瞳が物語る。彩も声を掛けていなかった。それは当然のことなのだが、心がグッと硬くなる。
優しい気遣いの言の葉には、そのまま発した者の気持ちが込められていた。が、それを受け取る側の心情が濁れば屈折して込められた思いが伝わってしまう。この食事会の開催も、先ほどまでの当たり障りのない会話すらも、今の匡毅の余裕のない心のささくれを痛ませた。そのささくれへの消毒液のような優しさが、匡毅のひび割れた許容量いっぱいの器から隠したかった惨めさという液体をこぼれさせてしまったのだ。
はぁ……。匡毅は作り笑いすら出来なくなり深い溜息を吐くと、ガタンと椅子から立ち上がる。
「先に……帰ります」
そう呟くように一瞥して出口へ向かう。みな心配そうな表情を浮かべる。しかし、声を掛けられない重苦しい空気感が背中に漂っていた。
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