なみだをびぃだまにつめこんで
春めいた陽気の日が増え、冬の間に眠っていた草木たちが緩やかに芽吹き出している。桜の開花はまだ先だが、校庭の隅には小さな花が肩を寄せ合って揺れている。
その日も春らしい、優しく晴れた日だった。
卒業式を明後日に控え、通常授業は既に終わっている。そのため今日は午前に学年集会と来年度の予定をアナウンスするプリントが配られるだけで、昼には下校することになっていた。
来年度は博臣も高校三年生だ。大学進学を考える博臣にとって、来年は受験の年になる。担任教師からの激励の言葉を受けて、終礼をするとその日は解散。クラスメイト達は席を立ち、放課後の予定などを話しあいながら思い思いに教室を出て行く。
そんな中、博臣はまだ自分の座席から立たず、配られたプリントに羅列された日程をぼんやりと眺めていた。そうしてもうすぐやってくる春休みに思いを馳せる。
今のところ、博臣の春休みにこれといった予定は立っていない。遊んでばかりもいられないだろうが、かといって受験勉強漬けの春休みなんていうものも、ぞっとしない。
「……あっ」
そのときだった。換気の為に開いていた窓から外へと風が吹き、気を抜いていた博臣の手からプリントを攫ってしまった。
慌てて掴もうとした手は空振り、プリントはそのまま窓の外へと飛び出してしまう。博臣は窓から身を乗り出し、プリントの行方を目で追った。
校舎二階の窓から飛び出したプリントはゆるやかに宙を踊り、花弁のようにふわりと中庭に落ちる。
そこを偶然にも一人の女子生徒が通りかかった。そうして落ちてきたプリントを拾い上げる。博臣はその女子生徒に聞こえるよう声を張った。
「すみません、それ、僕のプリントです。すぐ取りに行くので!」
彼女は自分の頭の上からの声に反応し、ゆっくりと顔をあげて博臣を見た。
そして目が合う。だからこそ、博臣は気がつくことが出来た。
彼女の瞳から静かに涙のしずくが流れ落ちた。
博臣は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受け、言葉を失った。何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、教室を飛び出した。
頭の中に彼女の涙が焼き付いて離れない。
どうして泣いていたのだろう?
プリントを取りに行くだけなのに、少しでも早く彼女の元に駆けつけてあげないといけないような、そんな気がして、博臣は階段を二段飛ばしで降りていく。上履きを履き替えるのももどかしく、校舎を飛び出して中庭へ。
プリントを拾ってくれた彼女は、そのままの場所で博臣のことを待っていた。慌てて駆け寄ってきた博臣にくるりと向き直って柔らかい笑顔を向ける。
「どうぞ、君のプリントなのよね?」
はいっ、と差し出されたプリントを受け取る。さっきの涙が嘘だったかのような彼女の態度に、博臣はわずかにたじろいでしまう。
「あ、ありがとう……」
博臣は彼女の顔をじっと見た。
見覚えのない顔だった。顔立ちはどちらかと言えば美人に分類されるだろう。形の良い眉と緩められた薄い唇が品の良い笑顔を作っていて、優しい魅力がある。手足が華奢で、ともすれば病的と取れるほど色白だ。そのためどこか透き通るような、不思議な雰囲気を彼女から感じ取る。
「ねぇ、君の名前は?」
彼女の表情にも所作にも声色にも、悲しみは感じられない。
「えと、成田博臣……だけど」
「博臣くん、ね。良い名前だわ」
彼女の声はむしろ、どこか嬉しそうに弾んでいた。いきなり博臣のことを下の名前で呼んで距離を詰めてくる彼女に対して博臣は困惑を隠せない。
「博臣くんは二年生なんだね」
「え、どうしてそれを」
「プリントに来年度の予定が書いてあったもの」
ちょっと読んじゃった、と申し訳なさそうに彼女は頬をかく。
「私は三年生なの」
「先輩だったんですか」
「そう、先輩だよっ」
道理で彼女の顔に見覚えがないわけだ、と思った。博臣も同学年女子全員と知り合いというわけではないが、彼女の顔には見覚えがまったくない。同じ学年なら廊下ですれ違うことくらいはあっただろうが、一つ年上なら教室がある階も異なるし、顔を知らなくても無理はないだろう。
「ならもう卒業なんですね。おめでとうございます」
卒業式は金曜日。明後日だ。博臣は形式的に祝いの言葉を贈った。
「……うん、ありがとう」
卒業という言葉に、彼女は少しだけ寂しそうな表情を作った。
博臣は、やはり高校を卒業するとなると友達との別れが寂しくなるのだろうな、と考えた。
「博臣くんは来年が高校生活最後だね。大学進学?」
「そうですね。受験勉強を頑張らないと」
「あはは、受験勉強は大変だよ。私はもう終わったけれどね」
「先輩はもう大学が決まっているんですか」
公立大学の合否発表はまだのはずだ。どこかの私立大学にでも行くのだろう。ひょっとするとこの町を離れて、一人暮らしをはじめるのかもしれない。そんなことまで博臣は想像した。
「どこなんですか?」
「なーいしょ」
彼女は博臣を見上げて、からかうように笑った。そうしてクスクスと笑い声を漏らしながら博臣にくるりと背を向ける。綺麗な黒髪がひらりとなびいた。
「ねぇ、博臣くんは明日、暇だったりする?」
「え?」
「良かったら、明日もここでお喋りしない?」
「あの、明日は学校休みですけど……」
「三年生は学年集会と進路指導があるから、午前中だけ学校があるの。お昼頃に遊びに来てよ」
女性らしい媚びというよりも、少女らしい僅かな甘えを含んだ声色だった。予想外の誘いで博臣は返答に困ってしまう。予定のない休みの日にまでわざわざ学校に来ることはない。
「んー……これでいいかな」
そんな風に戸惑っている博臣を見て、彼女は自分の制服のポケットから何かを取り出すと、博臣の手を取って握らせた。
「明日も中庭で待ってるから、それを返しに来てね。約束だよ」
返事を聞くことなく彼女は歩き出す。
博臣は手を開いた。彼女に握らされたのは小さなビィ玉だった。
何故ビィ玉を? そう聞き返すよりも先に、彼女は一方的に別れを告げる。
「それじゃあ、私はそろそろ行くね」
「ま、待ってください! 名前をまだ聞いてないんですけど」
慌てた博臣の声にゆっくり振り返る。
「……村井香澄。出来れば私のことは香澄って呼んで。また明日ね、博臣くん」
そう名乗った少女はそのままふらりと校舎の中へと消えていく。夢だったと錯覚しそうな不思議な出会いと別れに、博臣はしばらくその場で呆然と立ち尽くした。
◆ ◆ ◆
翌朝、博臣は目覚まし時計のけたたましいアラームで起きた。ゆるゆると体を起こすが、未だ意識ははっきりしない。昨夜はよく寝付けなかったのだ。
というのも、昨日の出会いが原因だった。
村井香澄と名乗った少女。一つ年上の先輩。今日、会う約束を取り付けている人。博臣は彼女のことが妙に気になり、寝付けなかったのだ。
これほどまで強烈に異性のことが気になったのは中学生の頃の初恋以来かもしれない。
だがこれは恋なのだろうか?
博臣は自分の内側から漠然と立ち上るこの問いに、明確な肯定も否定も出せなかった。
ただ、彼女の涙が博臣の頭から離れてくれない。
彼女が泣いていた理由が分からない。理由が分からないから、納得がいかない。もやもやして、落ち着かない。彼女が持つ、どこか浮き世離れしたような不思議な雰囲気が博臣の興味に拍車をかけていることもあった。
気がつくと博臣は制服に着替えて学校へ向かっていた。
通い慣れた通学路を歩きながら、博臣は自分の行動を不思議に思う。わざわざ人に会うためだけに学校に行くだなんて、普段の自分からすれば考えられないことだ。
ポケットの中には昨日の別れ際に香澄から渡されたビィ玉がある。取り出し、光にかざしてみた。
博臣が見る限りは何の変哲もないビィ玉だ。薄い水色で表面に傷はなく綺麗だ。淡く光を吸い込んで、中できらきらと揺らいでいる。
「……これを返さないと」
言い訳のように口の中で小さく呟き、博臣はビィ玉をポケットにしまった。
やがて校門前にたどり着く。香澄が言っていたように今日は三年生が登校しているらしく、校門は開いていた。自宅へ帰ろうと校門から出てくる生徒が見受けられる。
中には部活動の練習のためか、校舎へと入ってゆく生徒も見られた。その中に紛れるように博臣も校舎に入る。そしてそのまま中庭へ。
約束の相手はもう既に中庭にいた。隅に植えられた金木犀の幹を背もたれにして木陰に座っている。
何か本を読んでいるようだが、博臣に気がついて顔を上げた。
「……あ、本当に来てくれたんだ」
香澄は博臣の姿を認めると、嬉しそうに目を細めて笑った。
その表情には背筋が凍るほどの色気があった。博臣の心臓がどきりと脈を打つ。その場に座っているのに手が届かないほど遠くにいるような儚さが仕草から滲んでいて、彼女の様子を不自然に際立たせて視線が外せなくなる。
香澄は本に綺麗な緑色の栞を挟んで閉じ、隣に置いていたベージュの肩掛け鞄の中へ仕舞った。
博臣は我に返り、やや慌てて口を開く。
「会いに来るよう言ったのは、あなたじゃないですか」
「そうだね、でも本当に来てくれて嬉しい。こんにちは、博臣くん」
「こんにちは、香澄先輩。隣、良いですか?」
香澄は笑顔で場所を空けてくれた。博臣は彼女のすぐ側に腰を下ろす。肩が触れそうなほど距離が近かったが、香澄は嫌がる素振りを見せなかった。
博臣もまた、自分がこれほど積極的に彼女に近づこうとしていることに驚く。普段の自分では考えにくいほど、大胆な行動だった。
こうして近づかないと彼女がどこかに行ってしまうような、根拠のない不安を感じたのだ。
「何を読んでいたんですか?」
博臣が尋ねると、香澄は先ほどまで読んでいた本を再び鞄から取りだして表紙を見せてくれた。なにやら難しそうなタイトルで、心理学の本のようだ。女子高校生の読み物にしては随分と厳めしい。
「心理学? 香澄先輩はそういうの好きなんですか?」
「そういうわけではないんだけれど、ちょっと気になって試し読みしてるの。難しくってよく分からないけどね」
「大変そうですね」
「のんびりゆっくり読み進めていくよ」
途中で投げ出すつもりはないらしい。再び本を鞄へ仕舞い、香澄は大きく伸びをした。
「それにしても今日は暖かいね。ついお昼寝したくなっちゃう」
「確かに昨日今日と、暖かいですね。つい二、三日前は冬に逆戻りしたのかってくらいに寒かったですけど」
「この調子だと、明日の卒業式も良い天気になるかな?」
「だと良いですよね」
当たり障りがなくて、お互いの表面を撫でるような会話だった。
会話が途切れる。その無言の隙間を縫うように草木が風で揺れる音がした。
博臣は何か話題を探して数度口をまごつかせ、自分のポケットの中にある昨日の別れ際に香澄から渡された物を思い出す。
「そうだった。これ、お返しします」
「ああ、そっか。博臣くんに渡してたんだったね。返しに来てくれてありがとう」
差し出した掌の上のビィ玉を香澄は細い指先でつまみ上げた。そして日の光にかざして愛おしいものを見るように目を細める。
「どうしてビィ玉なんて持っていたんですか?」
「私にとって、とても大事なものだからだよ」
そう呟く香澄の横顔があまりに澄んでいたので、博臣はきっと何かの記念か、お守りのように持っているのだろうと推測した。
「何かの記念ですか?」
「うーん、どちらかと言うとお守りかな」
懐かしさを声に滲ませ、香澄は頬を緩ませる。
「お母さんが、私がまだ小さい頃にプレゼントしてくれたの。泣き虫だった私に、これがあれば悲しいこともへっちゃらだよって言ってね。それ以来、ずっと大切にしているんだ」
博臣はそこに、優しくて暖かい家庭を幻視した。
「そんな大事なものを気軽に渡して良かったんですか?」
「博臣くんはちゃんと返しに来てくれると思ったから」
無責任なくらいの信頼に、博臣は照れくさくなって視線を逸らした。そんな風に信頼されるほど彼女は博臣のことを知らないだろうに、その信頼はどこから来ているのだろう。
「ねぇ博臣くん。このビィ玉、綺麗だと思わない?」
突然、香澄がそんな風に話を切り出した。
「え? えぇ……まぁ確かに綺麗だと思いますけど」
「じゃあどうして綺麗なんだと思う?」
考えたこともない質問だった。ゆるやかに思考を回転させてみるが、出てきたのは何とも味気のない答えだけ。
「どうしてって、そういう風に作ってるから綺麗なんじゃないですか? 観賞用というか。あとは香澄先輩にとっては、大切にしているものだから綺麗に見えるとか。それこそ香澄先輩が読んでいた心理学的な効果とか」
「なるほどねぇ」
どこか含みのある相槌に博臣は問い返す。
「なら香澄先輩はどうしてだと思うんですか」
「私の涙が込められているから、だよ」
ビィ玉を指先で弄び、澄んだ瞳で香澄は呟く。
「辛いときも悲しいときも、私の涙をこのビィ玉が受け止めてくれた。だからきっと、このビィ玉は今も綺麗に光ってくれるんだよ」
きらり、ビィ玉が光を反射する。博臣の視線が自然と香澄の横顔に吸い寄せられる。そして香澄は照れを誤魔化すように小さくはにかんで、
「――なんてね」
その香澄の横顔を見て、博臣は自分の恋心を自覚した。
彼女の涙に惹かれた。そう言うと聞こえが悪いかもしれない。
だが博臣は彼女が静かにこぼした涙を美しいと思った。理由も分からないその涙を拭ってあげたいと思った。ふわりと澄んだ笑顔がとても魅力的だと思った。
博臣はきっと昨日のあの瞬間、香澄に一目惚れしていた。
ひとしきり眺めた後、香澄はビィ玉をポケットにしまった。
博臣はしばらく香澄に見とれていたがすぐに我に返り、何か彼女との繋がりを求め、
「香澄先輩。良かったら、連絡先を交換しませんか?」
スマートフォンを取りだしてみせた。
だが香澄は申し訳なさそうに首を横に振った。
「あ……ごめんね博臣くん。私、携帯電話を持っていないの」
「そ、そうなんですか……」
博臣はやや肩を落とした。今時の高校生で携帯を持っていないとは、また珍しい。
「珍しいですね」
「そうかなぁ?」
香澄はこてん、と首を傾げた。恋心を自覚したからか、そんな仕草の一つが博臣にはとても愛らしくみえた。
「それより、もっとお喋りしようよ博臣くん」
甘えるような香澄の態度に、「はい、もちろん」と博臣は笑って応えた。
◆ ◆ ◆
「日も傾いてきましたし、そろそろ帰りましょうか」
会話に夢中になり、気がつくともう夕暮れだった。
春になり少しずつ日も伸びてきたとはいえ夕暮れ時はまだ少し肌寒さを感じる。暗くなる前には帰ろうと、博臣は立ち上がる。
「良かったら家まで送りますよ?」
博臣は振り返って香澄を誘った。しかし香澄は少しだけ悲しそうに笑い、首を横に振った。
「えっと……ごめん、先に帰ってくれる? 私はもう少しだけ、ここに居ようかなって」
「そ、そうですか」
博臣はその言葉を、香澄の柔らかな拒絶なのだと受け取った。彼女とは親しくなれたとは思うが、確かにいきなり家まで送るというのは図々しかったかもしれない。少し反省する。
「なら僕は先に帰りますけれど、香澄先輩もあまり暗くなる前に帰った方が良いですよ」
「うん、そうするよ。心配してくれてありがとう」
「ええ、明日はいよいよ卒業式なんですから。せっかくの卒業式で体調を崩したりしないようにしてくださいね」
「もう、馬鹿にしないでよ」
「馬鹿になんてしていませんよ。ただ、明日は僕にも香澄先輩の卒業をお祝いさせてください」
「……うん、楽しみにしてる。また明日ね、博臣くん」
「ええ、また明日」
博臣はそのまま香澄に背を向けて歩き出し、学校を後にした。
夕暮れに染まる町を一人歩く。すると途端に悲しみに襲われた。
香澄は明日で高校を卒業する。来年から高校にいない。その事実を冷静に頭が認識し、気持ちが沈んだ。
「……春休みの予定、聞けば良かったかな」
香澄はこの町を離れるのだろうか? 卒業してしまうと、ただでさえ細く頼りない香澄との接点が途絶えてしまう。もう会えなくなるのではという不安を感じてしまう。
「明日、卒業式の後に聞こう」
明日は卒業式の後、香澄にお祝いの言葉を贈るのだ。その後に、春休みのことを話せば良い。時間はある。
何だったら、卒業式の後に香澄に告白したって良い。
卒業に合わせて先輩に告白するというのはいささかベタすぎる気もするが、博臣は積極的なアプローチを考えていた。それほど香澄のことが好きになってしまっていた。
博臣は家に帰り、いつも通り家族と夕食を食べ、入浴を済ませるとすぐに就寝の支度をはじめた。何となく寝付けないような気がしたので、明日に備えて早めに眠ろうと考えたのだ。
だが布団に入ろうとした時、博臣の携帯に着信が入った。
「電話? 誰だろう」
携帯電話の画面には博臣のクラスメイトの名前が表示されていた。電話、特にこんな夜にとは珍しい。
「はい、もしもし」
「よう成田。ちょっと聞きたいことがあるんだが、良いか?」
「大丈夫だけど、どうかしたの? 電話なんて珍しい」
「今日、お前学校に来てたか?」
「え、うん……行ったけど」
「中庭にいた?」
「うん、いたよ」
ひょっとしたら、香澄と二人で話しているところを見られたのかもしれない。博臣は今更になって少し照れくさくなった。
だが続く友人の言葉に、そんな感情は霧散した。
「……お前、どうして一人で中庭にいたんだ?」
◆ ◆ ◆
「……あれ、博臣くん。卒業式に出席しなくていいの?」
「……香澄先輩」
「あ、ひょっとしてサボり? 博臣くんってば、悪い子だ」
卒業式はもう始まっている。在校生も卒業生も教職員も、全員が体育館に集まっており、校内には誰もいない。そんな静かな校舎に囲まれる中庭は、世界中から隔離されているように博臣は感じた。そんな中庭で、香澄は昨日と同じように金木犀に背中を預けていた。
「ちょっと、どうしたの? 顔が怖いよ?」
「……どうして、嘘をついたんですか?」
「あはは、バレちゃったかぁ」
香澄は乾いた笑みをこぼし、自分が座る隣を軽く叩いて博臣を誘った。博臣は昨日と同じように、香澄の側に腰を下ろす。
二人の間の距離は昨日と変わらず、けれども博臣には遠く感じた。
「どうして分かっちゃったの?」
「昨日、友達から電話があったんです。『どうして一人で喋っていたんだ?』って聞かれました。見間違いじゃないかと聞き返しても、そんなことはないと。隣にずっといたはずの香澄先輩に気がつかないなんておかしいじゃないですか。だから僕は気になってしまって、色々と調べました。顔が広い友達を頼って、色々な人に香澄先輩のことを尋ねました」
「……それで?」
「誰に聞いても、村井香澄という名前の生徒は三年生にはいない、と言われました。けれど代わりに、小さな噂を教えてもらったんです。それを頼りに調べて、ついさっきまで、無理を言って図書室で調べ物をしてきました。そこで、香澄先輩の名前を見つけましたよ。――十年前の学生名簿の中に」
「凄いね、まだ残ってたんだ」
感心したように呟き、香澄は空を見上げた。
「私が三年生の先輩なのは本当だよ。ただ――十年前にもう死んじゃってるだけ」
顔を下ろした香澄と目が合った。その瞳にはただ澄んだ憂鬱と、博臣に対する親しみが混ざっていた。
「肺が悪くってね。治らない病気ってわけでもなかったらしいんだけど、症状が悪化して、それまでだったの」
博臣が調べても、流石にそこまでの情報は分からなかった。
「でも最期は病院だったのに気がつくと学校にいて、幽霊になってて、初めは自分のことなのに信じられなかったよ。今はもう慣れちゃったけどね」
「他の人には、香澄先輩の姿は見えていないんですか」
「そうみたい。私が声をかけても、誰も返事してくれないし」
「なら、どうして僕には……」
「それは……どうしてだろうね? 私にも分かんないや。偶然かもしれないし、運命かもしれない。呼び方は何でも良いけれど、大事なことは一つ。博臣くんには私の声が届いて、私の姿が見えている」
凄くびっくりしたし、嬉しかったんだよ? と香澄は笑った。
一昨日、博臣が落としたプリントを香澄が拾い上げたあの瞬間。何気なく声をかけた博臣とは違い、香澄は言葉には出来ない衝撃を受けたのだろう。
博臣は今になって、あのときの涙の理由を知った。
「誰かとお喋りしたのも十年ぶり。だからかな、嬉しくなっちゃって博臣くんに我が儘を言って、話し相手になってもらって」
そう言葉を重ねる香澄に対し、博臣は不意に不安を覚えた。
別に博臣は香澄を糾弾するためにここへ来たのではない。香澄の正体を確認することはあくまで本題ではなく、香澄の卒業を祝い、そしてこれからのことを話すために来たのだ。
「別に、話し相手くらいいつでもなりますよ。これからも」
「それはだめだよ」
だが返ってきた言葉には博臣との『これから』を拒む、香澄の決意が表れていた。
「私もそろそろ、卒業しないといけないなーと思ってたの。でも、誰にも見送られないのは寂しい。けど今は違う、博臣くんが私のことを、見送ってくれる。だから最後に博臣くんとお話しできて本当に良かったと思ってる」
どうしてそんな話をするのか。
「ほら、昨日言っていたじゃない。私の卒業をお祝いしてくれるんでしょう?」
香澄があんまりにも綺麗に笑うので、博臣は言葉に詰まった。
「……香澄先輩は卒業したら、進路はどこへ?」
どうにか茶化そうとして、しかし絞り出した博臣の声は弱々しく震えていた。それはきっと香澄にも伝わっただろう。だが彼女はあえて触れなかった。
「すごく遠いところかな。新生活、一人暮らしになるのかも」
「……香澄先輩は携帯電話、持ってないですもんね。手紙書いてもいいですか?」
「向こうでの住所がまだ分からないから、届かないよ」
「……会いに行ってもいいですか?」
「やめてよ、縁起でもない」
博臣は人生で始めて、運命というものを呪った。
どうしてもっと早く彼女に出会えなかったのだろう。
どうして自分は彼女と同じ時間に生きていなかったのだろう。
苦しさで胸が痛くなり、涙が溢れそうになる。
「……博臣くん、これをあげる」
そんな博臣の手に、香澄はお守りのビィ玉を握らせた。
「これは私にはもう必要のないものだから。今度は博臣くんが悲しくて泣きそうなとき、きっとこのビィ玉が涙を受け止めてくれる。だからお願い、泣かないで?」
ビィ玉を握らせ手を取ったまま、香澄は立ち上がる。博臣もそれに合わせて立ち上がる。繋いだ手には確かな感触がある。なのに香澄が遠く感じる。
体育館から卒業生が歌う声が聞こえる。もうすぐ式が終わるのだ。
「……もうすぐ卒業式も終わりみたい。そろそろかな」
別れはすぐ目の前まで来ていた。
博臣は歯を食いしばり、涙をこらえて香澄の顔を正面から見つめて、覚悟を決める。
「香澄先輩」
「なぁに、博臣くん」
「一目惚れでした。好きです、僕と付き合ってください」
香澄の白い頬が微かに赤く染まる。瞳を潤ませ、小さく息を吸い、
「博臣くんの気持ちは嬉しいわ。でも、ごめんなさい。私はその気持ちに応えられない」
分かりきっていたことだった。それでも博臣は伝えずにいられなかった。こうしないと、次の言葉が言えないから。
「そうですか」
「ごめんね」
「謝ることなんてないですよ。それから――」
「……うん」
「――ご卒業、おめでとうございます」
「……ありがとう。とっても嬉しいわ」
香澄は心からの笑顔を浮かべた。博臣もまた、強がるように笑った。
「これからも頑張ってくださいね、香澄先輩」
「博臣くんも頑張ってね。私、ずっと応援してるから」
「はい!」
力強い博臣の返事を聞いて、香澄はより一層笑みを深める。そして次の瞬間、博臣の前から姿を消した。
繋いでいた手の感触はもうない。彼女の存在は幻だったかのようにかき消え、ただ手の中にあるビィ玉の感触だけが残っていた。
博臣はそのビィ玉を大事に抱え込むよう両手で強く握りしめ、その場に崩れ落ちうずくまる。
ただ、涙だけは流さなかった。