終わりの後に続く道
「――名前を、さ。
呼ばれて、立ち上がるとき、あるじゃん?」
冬の寒さがようやく鳴りを潜め、
うっかりコートなどを惰性で着て来れば
恐らく邪魔でしょうがないであろう、
そんな暖かさが訪れた、二月二十八日。
卒業式予行演習を終え、教室へ帰る道中、
私は、少し気だるげに隣を歩く幼馴染に、
不意にそんなことを口走った。
「……ああ」
幼馴染は、私のことを振り向きもしないで、相槌を打つ。
わざわざ振り向くまでも無い話だろうと判断されたらしい。
実際それはまぁ当たっているのだが。
「あれってさ……返事もしないで次々立ち上がるじゃん」
「おー」
「傍から見たらタケノコだよね、タケノコ」
「……タケノコ?」
「だから、タケノコがさ、ほら、にょきにょきーって」
初めて幼馴染が振り返った。
その目は非常に残念そうに私を見ていて、
「……発言の偏差値低すぎねぇ?」
「うわっ、そういうこといいますか」
「しかもそれ去年言ってたし。
あれどう見てもタケノコじゃない、そうじゃないって
あんだけ煩く言ってたのに、お前今年もそれ言うのかよ」
「えっ、去年なんか言ってたっけ?」
去年の今頃自分が何を言っていたかなんて覚えているわけがない。
すると幼馴染は、今度は顔をしかめて、
「……記憶力大丈夫かぁ? お前が言ってたんだろ、お前が」
「去年自分が何言ったかなんて覚えてないって」
「は、マジかよ。
じゃあお前去年何があったのかもまるっきり覚えてないわけ?」
「去年あったことぐらいなら、
まぁ映像と共にぼんやりと浮かんでまいりますが」
「信じらんねぇなお前」
教室へ向かう途中の階段をのぼりながら、
幼馴染が肩を落とし、わざとらしくため息などついた。
「え、何? なんか特別なことあったっけ?」
「別にねぇけど……
そんなんじゃお前の高校生活ソッコ―で消えてくな多分」
「えー、そんなことありませんー」
軽口を叩きあいながら、教室へ、部室へ、職員室へ、
二人で他愛もない話をしながら、賑やかに向かう。
ずっとそう言う毎日を過ごしてきたことくらい、覚えている。
だから、そんな風に言われるのは心外で、
私は唇を尖らせふいとそっぽを向いて見せた。
「私だって覚えてることくらいありますー」
「へー、何があるんだよ、言ってみろよ。
あ、体育祭があったーとか文化祭があったーとかそう言うの無しな」
「え、何その条件」
「ほら言ってみろよ覚えてるっていうなら」
幼馴染は普段からこんなふうに、軽いノリでこっちを問い詰めてくる。
大概私がちゃんと答えきれなくて、幼馴染が終始ニヤニヤしたまま
向こうの勝利に終わるのだが、今回は状況が違う。
もう、私たちは卒業するのだ。
いわば、全ての総決算の日を、明日に控える卒業生なのだ。
だから、言えなければダメ。特に、私の場合は。
「……じゃあ、いきますけどね?」
「はい、どうぞ?」
「一年生の随分始めの頃に、
キミが早速黒板前のあの段差で派手にコケなさったとか」
「お前それいい加減忘れろって言ってんのに……」
「いや、あれ結構衝撃だったからね?
存在感を主張しまくってるあの段差が見えなくて躓きましたとか、
笑うしかないでしょ」
「笑うなよひとの失敗を……」
「他にはー、文化祭準備でキミがスプレーでふざけてて、
校舎の壁にまき散らして指導室行きになったとか」
「あー……あの後結構すぐに、校舎の壁塗り替えられたな」
「派手にやりすぎなんだって、よりによって目立つ赤色でさ」
「いやでもあれは必ずしも俺のせいではなかったと思う」
「はいはいわかりました。他にはねー、まだありますよ。
二年生の修学旅行の時、まずキミはいきなり
一日目の集合時間に二十分とか遅刻してきた」
「教師の視線痛かったわー、アレ」
「遅刻してきたキミが
アルバムにでかでかと載ってたらどうする?」
「撮られた記憶ねぇけどな」
「そのまま飛行機に乗って、いよいよ飛び立つってときになって、
急にキミが生まれたてのチワワのように」
「それもうやめねえ!?
それこそいつまで言うつもりなんだよお前!」
「だってあの時のキミはほんとにさぁ」
「いやマジで勘弁してくださいほんとに。
あれは俺の中で黒歴史的な認定がされてるから」
「的なって言うか完全に黒歴史だと思う。
窓際だったからよかったもののさ、つくづく思うんだけど
あの時隣が私じゃなかったらどうしてたわけ?
出席番号の関係で運よく
私が隣だったから気軽に言えたわけだけどさ、
男子相手にも……手ぇ繋いでてくれねぇとか」
「ああああああ聞こえない聞こえない」
「……はいはい分かりましたよ次に行きましょー」
階段を上って、教室に入って。
それでも当たり前のように喋り続けて、
どちらかの席まで行ってもなお喋り続けて。
お喋りは先生が来るまで止まなくて。
お前ら喋るの好きだよなと、周りの奴らにしょっちゅう言われても、
控えるようなことはちっともなくて。
そんな日常も、今日明日で最後だ。
そうして考えると、
もっと気の利いた返事とかしておけばよかったかなぁと思う。
でも、時間的に、多分今日が、それができる最後だ。
「修学旅行についてはまだあるんだけど」
「もうほんと勘弁してくれって……」
「え、じゃあ……」
「いや、もういいから!
なんか黒歴史しか出てこねぇし!」
「ん? 小中学校も含める?」
「すんませんわかりました全然忘れていませんね。
っつかお前……俺のことしか覚えてねぇのかよ? 他は?」
「……え?」
幼馴染の疑問に、私は一瞬固まった。
「イヤ何言ってんの。私ら大体常に一緒だったし、
どの思い出にも大概キミがいるから」
「……あー、そういやそうか」
ま、キミの方は他の男子の友達と遊びに行ったりしてただろうけどね、
などと皮肉っぽいことを言うのは堪えた。
「小学校の頃からずぅっとねー」
「よくもまぁこれまで縁が続いたよな、俺ら」
「ね、ほんとにそれ」
本当に、それだ。よくこれまで、続いてくれた。
でも、もう。
「それも、これでおしまいかぁ……」
感傷的に言った私に、
幼馴染は全く空気を読まずに吹き出して笑った。
「ちょ、そこで笑う?」
「いや、なんかすげぇしんみりしてるから笑えた。
お前がそう言う顔してるとなんか似合わねーっていうか」
「何それ、ひっど」
私も笑ったが、内心は少し拗ねたような気分でいた。
こっちは普通にしんみりしてるってのに、と。
どうせ今日だっていつも通り同じ道を帰って、
同じ電車に乗って、同じ駅で降りて、
また明日ね、とか言って別れるのだ。分かっている。
――また明日ね、は、今日で最後なのに。
卒業式は、厳粛に行われた。
ある意味、予行演習通り、滞りなく。
クラスでのあれこれも、いつの間にか終わって。
各々がやり残したことをやりきって、
最後の挨拶をして帰るひとが現れて。
私も友達と話している時に、
あいつがふと私の肩を叩いてきて、パッと振り向いたら、
「……まだ話してるか?
何だったら俺、先に帰るけど」
なんていうものだから慌てた。
今日は、今日に限っては、教室で別れるわけにはいかない。
「ま、待って、すぐ用意するから。
あ、じゃあまたね! また連絡するから! 元気でやれよー!!」
そんな風に、慌ただしく。
私は、三年通い詰めた高校を出た。
「もう、早いよキミは全く」
「悪い悪い。だから先に行くって言っただろ。
お前はまだ喋っててよかったのに」
「いいの。
もう終わったし。また連絡するから」
「そーか? まぁ、ならいいんだけどな」
「キミこそ、もうよかったの?」
「ん? ああ、まぁ、な」
歯切れの悪い返事に私が首を傾げても、幼馴染は何にも言わなかった。
その日の帰り道は、いつもより静かだった。
前日から引き続いてうららかな真昼の空。
心なしか気温も昨日より上がったようで、
もう今日はコートを着てくるような者もいなかった。
「……ねぇ」
人の少ない電車に揺られながら、私はぽつんと言った。
「今日、ちょっと寄り道しない?」
「……どこに」
「どこでもいいんだけど。河川敷とか?」
「喧嘩でもするのかよ」
「そうじゃないけどそんな感じ」
「意味わからねぇ」
いつも通り笑う。どうして変わらないんだろう。
今日で最後かもしれないのに。
ちっとも考えていないのか、それとも。
結局本当に河川敷に落ち着いた。
適当なところに座り込んで、
日差しを照り返してきらきら光る川面を眺めていると、
何だか不思議と気分も落ち着く。
「……で。どうしたよ」
隣に座る幼馴染が、当たり前の流れだが問うてくる。
「……んー」
私はまだ、はっきり話せない。
「卒業したねぇ、ってとこかな」
「……したな。卒業」
「信じられる? ってか、実感なくない?」
「ま、ないな。
ってか、俺としては、
お前が無事に卒業できることの方が信じられねぇ。
あの成績ワースト2がよ」
「あーもうほんと、その節はまことにお世話になりました」
「誠意籠ってねぇなぁ。
まぁでもジュース何本分か溜まってるからそのうち返せよ」
「……ナンノコトデセウ」
こっちをじろりと睨む視線から、私は顔を逸らした。
「……ほんとに、どうしたよ。お前」
いつまでもウジウジしている私にしびれを切らしたのか、
幼馴染が重ねて問うてきた。
「……いや、別に」
「別にじゃねぇよ。
いつもお喋りなお前が今日はやけに静かじゃんか」
「……そうでも」
なくは、ない。
「……感傷に浸ってますか」
「浸ってちゃ悪いですか」
「悪いとは言わねぇけど……調子狂うよな」
「……キミはいつも通りだよねぇ」
私はなるべくいつも通りであるように、
へらっと笑って見せた。
「……そうか?」
「うん。キミはいつも通りだよ。羨ましいくらい?」
「……」
「あーあ……私も公立行ければよかったなぁ」
君と同じ、大学に。
成績が違い過ぎて、想定にさえ上がらなかったけど。
「……あ、そういうこと?」
「何を納得したわけー?」
「俺と離れるのが寂しいってわけか」
へらへら笑って言われたせいで泣けた。
「……えっ、ちょ、マジで?」
「……うぅ」
「いや、悪い、悪かったって」
「うぅー……」
堪えきれなくなって、膝を抱えて伏せた。
泣き顔をみられるのは勘弁だ。
「……このばーか」
「悪かったって、ホントに……」
「おまえは分かってないんだよぉ……」
そんなことは多分ないけど、
そんな風に言いたくて、言うしかなかった。
なんでキミはいつも通りなんだよ、って。
もうこれから金輪際会えない可能性だってあるし、
そう言う話を、二人ともよく聞いたはずなのに。
ちっともそういうこと、心配してないのか。
私だけなのか。
寂しいとかそういう、色々なことを考えてしまうのは。
「……あのな」
幼馴染が、私の背中に手を置いて、
らしくなく優しい声音で、言葉を降らす。
「家、近いだろ。連絡、通じるだろ」
「……ひぐっ」
「俺はお前とのこういうの、
これで終わりだなんて、思ってねぇぞ」
「……うぅっ」
「行くところが違うだけだ。
完全に道が分かれたとは思ってねぇ」
「……ひっく」
「お前は、違ってたのか?」
問いかけに、私は懸命に首を振った。
「終わりにしたくねぇなら終わりにしなきゃいいだろ。
お前だって友達に、また連絡するって言ってただろーが。
あれが社交辞令だってんなら話は別だろうけど」
「んなこと……」
「な。お前はそう言う社交辞令とか、言わねぇもんな。
だから、ホントに連絡するんだろ。
その連絡先に、俺は含まれねぇの?
手間は然程かからねぇだろ」
「手間とか……んなの、考えてない……っ」
「ならなおさらだな。
だから、ほら。泣き止めよ。
そんな風に泣いてたら、
ホントにこれで終わりみたいになっちまうだろうが」
「……」
「俺は後で、また明日なって言うからな。
実際に明日は会わなくたって、また明日っていうからな。
電話した時だってメールしたときだって、同じようにするからな。
また明日って……ずっと、続けていくから。続きを絶対作るから」
「……ぅぁあ、もう、……」
「だから、いつも通り笑えよ。
今日をいつもと同じ日にしようぜ」
あぁもう。
人はそう簡単には変わらないって、本当のことだ。
こいつは簡単に変わらないどころか、小学校の時からこのまま。
ずっとずっと、お人好しで。
言い換えれば、優しくて。
だから、こいつが変わらないのに、私も安心してて。
逆に言えば、何かしらが変わるのが怖かった。
でも、もう高校も卒業したんだ。
変わらなきゃならないタイミングってものが
必ずどこかにあって、それが今日、多分今なんだ。
「な? もうそろそろ帰ろうぜ。母親辺りが心配するだろ」
そうやって言って、先に立ち上がって、
多分手を引っ張ってくれようとするのだろう幼馴染を、
私は掴んで引き留めた。
顔をあげたら、滲んだ視界に、
目を丸くした幼馴染が見える。
――あーあ、私多分今、酷い顔してるんだろうなぁ。
「キミが好きです」
言った。
「ずっと前から、キミのことが好きでした」
返事が来る前に、言葉を重ねた。
「だから終わりにしたくなかった。
……終わりになりそうな変化が怖かったの」
「……」
「ねぇ……これからも、続けてもいい?」
この、いつも通りを。
大好きなキミと重ねる、いつも通りを。
「ずっとずっと、キミと続いていきたいです」
それから、私たちは、河川敷をゆっくりと後にした。
家までは少しの距離。
黙りこくった道のりは、いつもよりもずっと長く感じた。
道が終わらないで、無限ループしてればいいのにとも思ったが、
そのうちに私の家が見えてきた。
「……じゃあ」
短い挨拶で、今日はおしまいだ。
これで、おしまい。
先に行って、家に入ってしまおうと思ったら、
「また明日な!」
後ろから声がぶつかってきて、思わず振り返った。
幼馴染は、ちょっぴり恥ずかしそうに眉をしかめて、
でも真っ直ぐこっちを見つめていた。
だから私も、腫らした顔で目一杯、いつも通り、笑ってやった。
「――おう!」
また、明日ね。
終